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生成規則と判別規則

概念の定義には生成規則と判別規則の2種類がある。

生成規則と判別規則という用語があるわけではない。しかし、ラッセルのパラドックスの原因はこの二つの規則を区別することでよくわかる。

生成規則は、自然数に1を足したものは自然数であるという再帰的な定義に見られるように、その規則を適用することで新しい何かが生まれる規則だ。2が自然数であるということが分かっているときにこの規則を適用すると3という新しい数を生成することができる。既にある2という数に生成規則を適用することで新しい数3が生成される。この3という数は生成規則が適用される前は存在しなかった数であり、規則の適用によってはじめて生成される。

判別規則は、既にある要素の集まりについてそれがどういうものであるかを判別する規則である。2で割り切れる自然数は偶数であるという定義は、既にある自然数という数の集まりに対し、その数が2で割り切れればその数が偶数であると判別する。この場合、判別規則はすでにある要素に対して行われ、判別することで新しい要素を発生するわけではない。

このように、概念の定義には新しい要素を発生する生成規則と、何も新しい要素を発生しないが、すでにある要素についての判断を提供する判別規則の2種類があると考えることができる。

ラッセルのパラドックスは、集合の定義に内包的定義という排中律を無制限に適用したときに発生した。実は、これは集合の定義という生成規則と内包的定義という判別規則との間のズレが原因だったのだ。要素の集まりは集合であるという集合の定義は生成規則だが、すべての要素はAであるか、そうでないかのどちらかであるという排中律は判別規則だからだ。

要素の集まりは集合であるという集合の定義を適用すると、そこに、今までになかったその集合という新しい要素が発生する。それは、集合の定義が生成規則だからだ。

一方、すべての要素はAであるか、そうでないかのどちらかであるという排中律は判別規則だ。排中律はすでにある要素の集まりに対して適用される規則である。この規則は既にある要素に対して判断するものであり、何ら新しい要素を発生しない。既にある要素に適用される限り、排中律にはなんの問題も発生しない。

ところが、全ての犬を集めて犬の集合と定義するという内包的定義は、判別規則をあたかも生成規則のように使うために問題が生じてくる。

全ての要素が既知のものである場合、それを犬であるものと犬でないものに分けるのは問題がない。排中律は安全に適用可能だ。しかし、犬であるものを集めて犬の集合という要素を生成したとき、排中律を適用したときには考慮されていなかった新しい「犬の集合」という要素が発生してしまう。

この「犬の集合」というあたらしい要素は、排中律を適用したときにはまったく考慮されていなかった要素だ。排中律では想定外の要素だったのだ。

ラッセルのパラドックスの場合、既知の要素のうち、「自分自身を要素としない集合」を集めて集合を作ると、その集合自身が、自分自身を要素としないにも関わらず、「自分自身を要素としない集合」になってしまう。この新しい集合は、「自分自身を要素としない」という排中律を適用するときには考慮されていなかった要素であり、しかも悪いことに、この新しい要素を排中律に無理やり適用させようとすると矛盾が生じてしまうのだ。

古典論理学の根本は排中律だ。しかし、排中律は判別規則として適用される限りは正当だが、素朴集合論の場合、集合の定義という生成規則に排中律を適用したため、矛盾を発生してしまった。

論理の仕組みをモデル化するために集合を使うのは非常に分かりやすい。しかし、集合の定義という生成規則が排中律という判別規則と齟齬をきたすことがあるということに注意する必要がある。

無限集合を取り扱うには、生成規則を使うのは避けられない。しかし、排中律は本来判別規則として適用されるべきであり、排中律が適用される要素が、完全に既知のものとみなして良いかどうかの検討が暗黙になされている必要がある。
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by tnomura9 | 2010-06-28 06:53 | 考えるということ | Comments(0)

瞬間日記とTouch Todo

昔から欲しかったものが二つある。ひとつは、使い勝手のいいToDo。もうひとつは、メモを取ると自動的に日付と時間を入れてくれて、後で内容を簡単に検索できるメモ帳だ。

iPhone/iPod アプリのTouchTodo と瞬間日記がそれだ。TouchTodo は230円だし、瞬間日記は無料なので、インストールして試してみたほうが早いから使い方の説明はしないが、おすすめだ。

いつもポケットに忍ばせておいて、アイディアを思いついたときにすぐに書き込めるのが嬉しい。フリック入力もだいぶ慣れてきて、キーボード付きのスマートフォンにはあまり魅力を感じなくなっている。
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by tnomura9 | 2010-06-27 10:16 | 話のネタ | Comments(0)

ラッセルのパラドックス 圏論 不動点

ラッセルのパラドックスを圏論で解説した文書がないかどうか探してみたら、いろいろあった。ざっと見ても、

ラッセルのパラドックス:傾向と対策 (3.3): 不動点と自己言及パラドックス ytb著

自己言及の論理と計算 長谷川真人著

A Universal Approach to Self-Referential Paradoxes, Incompleteness and Fixed Points, Noson S. Yanofsky著

などが面白そうだったが、残念ながら、管理人には全く理解できなかった。

ただ、ラッセルのパラドックスや、カントールの対角線論法などのパラドックスに関する議論は、写像の不動点定理という観点から統一的に見ることができるらしい。

不動点というのは、関数 f(x) について、

a = f(a)

のように、写像による像が自分自身になってしまう要素 a のことだ。

この不動点がパラドックスの構造と重要な関係があるらしいが、よくわからなかった。

まあ、いずれにせよ、ラッセルのパラドックスやカントールの対角線論法など、なんとなく居心地の悪いものが、既に解決済みのようなので安心した。できたら、自分で理解できるとうれしいが、無理そうな気がする。

ラッセルのパラドックスにせよ、フェルマーの定理にせよ、一見素人にもわかりやすそうなものが、きちんと理解しようとすると莫大な知識が必要になってくるというのが数学の面白さだし、垣根の高さだ。その気と根気と環境があれば、なんとかならないこともないのだろうが、億劫だ。一粒飲むと数学がたちどころに分かるようになる薬があると、ずいぶん面白い世界を見ることができるだろう。
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by tnomura9 | 2010-06-22 07:39 | 考えるということ | Comments(0)

自分自身を要素として含む集合

「自分自身を要素として含まない集合」はすぐに思いつく。たとえば、「犬の集合」は犬ではないので、自分自身を要素としては含まない。

それでは、「自分自身を要素として含む集合」とはどのようなものだろうか。ちょっと思いつかないかもしれない。そこで、自分自身を含む集合の中身が分からないので仮にXという大文字で表してみる。そうしてXはX自身と要素aだけを含んでいると考えてみよう。つまり、

X = {X, a}

だ。上の右辺のXは自分自身なのだから次のように置き換えることができる。

X = {{X,a}, a}

これを繰り替えしていくと、

X = {{......{{X, a},a}......}, a}

このように、無限に置き換えて展開できるが、最後までXの中身が何であるかは分からない。なんとも訳の分からない集合になってしまうが、現実の世界にはこれと同じ現象を発見できる。平行に向かい合わせた鏡の横に人が立っているときに見られる鏡のなかの映像がこれと同じ現象を見せてくれるのだ。

素朴集合論はこのような幻想的な情景も映し出せるほど表現力がある。

実は、「ものの集まりを集合と考える」という手続きは写像の一種だ、例えば上の集合は、

X = f(X), X = f(a)

という写像で表すことができる。Xの中身を見るということはXの逆像を求めることに他ならない。素朴集合論はこのような写像だけを定義してできる世界なのだ。ものの集まりは写像として、ものとしての集合は写像の像として定めることができる。素朴集合論の世界は、このようなものと写像で作り上げられる世界だ。

ものと写像だけで作られる世界といえば、すぐに思いつくのは圏論だ。圏論の教科書を読んでみたが、抽象的過ぎて理解できなかった。しかし、おそらく、素朴集合論の世界は圏論できちんと記述できるのではないかという気がする。そう思うとちょっとほっとする。素朴集合論の世界を知るのに新しい理論を作る必要はないからだ。

圏論という約束の地が見えたところで、ラッセルのパラドックスの話はおしまいになる。ラッセルのパラドックスにみんなが惹きつけられるのは、その議論の分かりやすさと同時に、無矛盾であるはずの数学の根幹に矛盾が存在するかもしれないという衝撃だろう。しかし、それは決して神秘的な謎という訳ではなく、数学的な構造を反映していただけなのだった。
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by tnomura9 | 2010-06-18 06:27 | 考えるということ | Comments(0)

排中律

「命題Aは真であるか偽であるかのどちらかだけが成り立つ。」という排中律は素朴集合論では成立しない。

なぜなら、ラッセルのパラドックスが発生してしまうからだ。

集合の内包的定義は、その定義に適合する要素が、集合の内部に存在することを要求する。しかし、「自分自身を要素として含まない集合」を適宜集めた集合は、自分自身をその要素として含むことはないが、その集合自身が「自分自身を要素として含まない集合」になってしまう。

内包的定義は要素が集合の中に存在することを前提としているが、内包的定義で作成した集合それ自身が内包的定義を満たす場合は、集合はその中には存在しない。

それは、ものの集まりを「集合」というものとして定義する素朴集合論の集合の定義に関係している。

例えば、犬や猫などの動物を集めてきてそれから犬の集合を作ってみよう。「犬である動物」を集めてきて「犬の集合」を作ると、そこには、今までにはなかった「犬の集合」という「もの」が発生することが分かる。

このように、素朴集合論では集合を定義するために新しい「もの」をひとつ作り出してしまうのだ。例えば、a という要素が一個だけあったとするとそこから{a}という集合を作ることができる。さらに新しく生まれたこの{a}という「もの」を使って、{{a}} という集合を作ることができる。このようにして無限に新しい「もの」を作成できてしまうのだ。

さっきの動物の例のように、「犬である動物」という内包的定義は、動物を「犬である」ものと「犬でない」ものに二分する。ここでは明らかに排中律が成立している。しかし、「犬であるもの」を集めて「犬であるものの集合」を定義したときに今までにない「犬であるものの集合」という新しいものが発生して排中律に含まれない「もの」が生まれてしまうのだ。

このように、素朴集合論は本質的に排中律に馴染まない構造になっている。

問題は、この新しい「もの」である集合が「犬であるもの」の集合に含まれるのか、それとも「犬でないもの」にふくまれるのかということだ。

内包的定義が排中律的に適応されるためには、この「犬であるものの集合」に対し「犬であるもの」の仲間か「犬でないもの」の仲間に振り分けなければならない。「集合」はたしかに「犬」ではないので「犬でない」ものの仲間にいれたとしよう。しかし、「犬であるものの集合」が「犬でないもの」の仲間に入っているというのは感覚的に落ち着かないし、「犬でない」ものの中でこの「犬であるものの集合」だけが、動物ではないのだ。「犬であるものの集合」を「いぬでないもの」の仲間と考えるのは問題ないように見えるが一種のペテンのような気がする。

ラッセルの集合は、このペテンがどうしても働かないように巧妙に定義されているところが天才的なのだ。

素朴集合論は本質的には排中律になじまない。ラッセルの型理論は、内包的定義が自己言及しないようにしないようにして、排中律を保ちつつ素朴集合論の世界の部分的な世界に論理を限定した。

公理的集合論は、内包的定義がある種の自己限定をしないように工夫することで、ラッセルの世界よりはもっと広い素朴集合論の部分に排中律を適用させようとした。

直観主義的論理学は、排中律を捨て去ることで、論理を素朴集合論全体に適用させようとした。

しかし、いずれの試みも「ものの集まりを集合とする」という素朴集合論の定義から演繹される素朴集合論の構造を明らかにしたとは言えないのではないだろか。素朴集合論の本当の構造とは一体どのようなものなのだろうか。
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by tnomura9 | 2010-06-17 18:23 | 考えるということ | Comments(0)

お帰りなさい、ハヤブサ。

7年間の小惑星探索の旅を終えたハヤブサが帰ってきた。

小惑星のサンプルのはいったカプセルを放出し、

自分自身は華麗に燃え尽きていくハヤブサの影像と、

一人ぼっちになったカプセルが健気に飛び続けるところを見ていたら、

不覚にも涙が出てきた。

単なる感情移入だとは分かっているのだけれど。
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by tnomura9 | 2010-06-16 18:10 | 話のネタ | Comments(0)

ラッセルのパラドックスの意味するもの

素朴集合論で、「自分自身を要素としない集合の集合」というラッセルの集合Rを記述すると次のようになる。

R = {x| x 属さない x}

この定義から、

R ∈ R ⇒ R 属さない R
R 属さない R ⇒ R ∈ R

が証明されてパラドックスになってしまう。集合の内包的な定義からそのまま演繹した結果なので、当時の論理学者には打撃が大きかっただろう。

しかし、このような集合Rを形作る過程を考えてみると異なる面が見えてくる。適当に自分自身を要素としない集合をあつめて集合R'を作ってみると、このR'は自分自身の要素ではないが、R'自身が「自分自身を要素としない集合」という内包的定義を満たしてしまうのだ。

R'は自分自身を要素とはしていない、もし要素としていればR'は「自分自身を要素としていない集合の集合」にはなり得ないからだ。同じ論法でR'はR'のどの要素とも一致しない。したがって、R'はR'のどの要素とも一致しないが「自分自身を要素としない集合」なのだ。

どのような「自分自身を要素としない集合」を集めてその集合を作っても、その集合自体が「自分自身を要素としない集合」になってしまう。そうして、その集合自体は、その集合の要素として含まれることはない。

したがって「自分自身を要素としない集合すべてを集めた集合」はできないため、そのような内包的な定義では「すべての自分自身を要素としない集合を集めた集合」を定義することは不可能なのだ。それにも関わらずこのような内包的な定義で集合を定義したため、ラッセルのパラドックスが発生した。

ラッセルの推論では、

R ∈ R ⇒ R 属さない R
R 属さない R ⇒ R ∈ R

で、パラドックスになる。しかし、実際には、Rは「自分自身を要素としない集合」であるにもかかわらず、Rには属していない。したがって、2行目の推論は成立せず、パラドックスは発生しない。

内包的な定義を満たす要素を集めて集合を作った時に、その集合自身がその集合を定義する内包的な定義を満たしてしまうということは、何もラッセルの集合に限らない。

例えば「犬でないものの集合」をあつめて集合を作ってみよう。その場合、できた集合もやはり、「犬でないものの集合」だ。このばあい、「犬でないものの集合」自身が自分自身の要素であるとしても、ラッセルの集合の時のような論理的な不都合は起きない。しかしながら、内包的定義で要素を集めてきたときに、そのなかにこの集合自体はなかったはずなので、やはり、自分に要素として含まれているわけではないが、自分自身が内包的定義を満たしてしまうと考える方が自然だ。

ラッセルのパラドックスの意味は、内包的定義では定義できない集合の存在をしめしていることだ。内包的定義で要素を集めて集合を作ったとき、それ自身が内包的定義を満たしてしまう場合があるのだ。それは、要素を集めて集合を作ったときその集合自体をひとつの「もの」として扱うことから発生している。

内包的定義の述語 P(x) 自体は x の値によって単に真か偽の値を返すだけだ。この述語 P(x) を使って、要素を P(x) が真であるもののみを集めて集合 A をつくるとする。要素を集める段階では明らかに A には述語 P(x) は適用されていない。しかし、これらの要素を集めて集合 A を創った途端に、集合 A という「もの」が発生してしまう。内包的定義の性質からものが1つでもあれは、それは述語 P(x) で判定されなくてはならない。しかし、集合を定義するために利用した述語 P(x) をその集合自身に適用することがふさわしいことだろうか。

たとえば、2の倍数自然数の集合を集めるとする。このとき、外延的に定義すると A = {2, 4, ... } という集合ができるが、しかし、この集合自体も「もの」である。「もの」であるかぎりはこの集合が2の倍数であるかどうかを判別しなくてはならないのだろうか。多くの集合の場合このような問はナンセンスになってしまうので問題が起きないが、自分自身を内包的定義の述語で検査すべきかどうかという事態は、ラッセルの集合の場合とまったくかわらないのだ。

素朴集合論において内包的定義には、ラッセルの集合にかかわらず上記のような問題が普遍的に存在する。ラッセルの集合が問いかけるものの本質はそこにあると考えることはできないだろうか。

つまり、素朴集合論で排中律が成立するためには述語 P(x) は全ての「もの」にたいして真が偽を出力しなければならない。このさい、内包的定義で定義された集合それ自身も「もの」であるので等しく述語 P(x) の判定をうけなくてはならないが、そのことにたいし何となく通りすぎているというのが実態だろう。それを動かしようのない仕方で突きつけてみせたのがラッセルのパラドックスだったのである。

素朴集合論では、要素の集まりをひとつの「もの」とみなすため、ラッセルの集合のような内包的定義で定義できない集合が存在してしまう。「ものの集まりを集合というものと考える」という簡潔な定義にも意外な落とし穴があったことになる。
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by tnomura9 | 2010-06-10 12:26 | 考えるということ | Comments(0)

内包的定義の適用範囲

「集合はものの集まりである」という素朴集合論の集合の定義と、「内包的定義に合致する要素を集めることで集合が定義できる」という内包的定義は単純で紛れがない。

それにも関わらず、ラッセルのパラドックスのようなものが導き出されるというのは不思議な感じがする。そこで、上の二つの定義のどこにそのような複雑な現象を発生させる仕組みがあるのか考えてみた。

集合を内包的定義で定義するときは、いろいろな「もの」を取ってきて内包的定義に合うものは集合に入れ、適合しないものは捨てるという操作をするだろう。したがって、直感的には、世界のものは集合に含まれるものとそうでないものとに二分割されると考えるだろう。

漫画的に表現すると、正面に内包的定義が書かれた看板札が立っていて、その前で、人がいろいろなものをその定義に合うものは右に、あわないものは左に分けているところを想像して欲しい。仕分けが終わったら、内包的定義に合うものを集合として考えるためにその周りに縄をはることにしよう。そうしたところで、その人は新しい事実に気がつくことになる。縄で囲った集合もまた、ひとつの「もの」だったのだ。そこで、その人はその集合という「もの」が内包的定義に合致しているかどうかを考えないといけないことに思至ることになる。

つまり、内包的定義の関与する範囲は二分法ではなく、次の三つになるのだ。

1)内包的定義に合致する「もの」の集まり(集合ではなく単にものが集められているところを想像する)
2)それらを集めた「集合」という「もの」
3)内包的定義に合致しない「もの」の集まり(集合とは区別する)

内包的定義は、確かに「もの」をその条件に合致するものと合致しないものに二分するが、合致したものを集めてそれを「集合」と考えた途端に、その「集合」という新しい「もの」が発生する。この「集合」は内包的定義に合致する「もの」でもなく、合致しない「もの」でもない、それらとは別の「もの」なのである。そうして、それが、「もの」である限り、内包的定義が適用されなくてはならない。

つまり、内包的定義の適用範囲は、それに合致する「もの」と合致しない「もの」のほかに、それによって定義される「集合」自身という「もの」に三分されるのだ。

この場合、1)と3)の場合はあまり問題が起きない。また、2)の内包的定義で作られた集合自身に内包的定義を適用する場合、この集合が内包的定義を満たさない場合も特に問題はない。

しかし、2)の集合が内包的定義に合致した場合難しい事になる。内包的定義で作ったはずの集合にさらに内包的定義を適用するという循環が発生してしまうからだ。このような集合の一般的な性質は不明だが、少なくともこのような集合は、自分自身を要素として含んでいなければ、内包的な定義を満たす要素を「全て」集めることができない。内包的定義を満たす要素を集めて集合を作ると同時に、その集合に含まれないそれ自身という集合を作ってしまうからだ。ラッセルの集合はまさにこのタイプの集合であり、それはパラドックスを引き起こしてしまう。

これが、素朴集合論の単純明快な定義からラッセルのパラドックスが現れる本当の原因だった。この観点からラッセルのパラドックスのメカニズムを考えるのは簡単だが、それは、前の記事に書いたので繰り返しになるからここでは省略する。

ものの集まりを「集合」という「もの」として考えるのも、「集合」を定義するのに内包的定義で「もの」をふるい分けるのも至極単純で直感的な操作だ。しかし、その簡潔な道具を使っていても、「もの」の集まりを集合という「もの」と考えた途端にそれに内包的定義を適用しなくてはならなくなるというややこしい事態が発生してしまうのが面白い。

いずれにせよ、上のように内包的定義の適用範囲を三分割する考え方をすれば、ラッセルのパラドックスを抱える素朴集合論もずいぶんと見通しがよくなる。
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by tnomura9 | 2010-06-05 14:41 | 考えるということ | Comments(0)

内包的定義の問題点 自己言及性について

ラッセルのパラドックスが起きるのは、『自分自身を要素としない集合(すべて)の集合』という内包的な定義で集合を定義できないにも関わらず、それが集合であるかのように考えたことが原因だ。

内包的な定義は、集合に属する要素の条件を述べただけなので、それで定義できないラッセルの集合のようなものが発生するというのは不思議な感じがする。

しかし、内包的な定義で集合をつくる手順を考えてみると、その理由が分かる。

内包的な定義で集合を定義するとき、まずは、定義の基準に適合する要素をすべて集めるだろう。そうして、それらを集めてひとつの集合にする。問題点はここにある。要素を集めて集合にしたときに、それらの要素には含まれない新しい集合が発生してしまうのだ。

この集合は内包的な定義に合致する要素を集めたときには存在しなかったものだ。つまり、内包的な定義で集合を作った後に発生したものだ。それにも関わらず、それは集合として内包的な定義で吟味されないといけないものなのである。

そのような自己言及的な内包的定義に、その新しい集合が適合しないときは問題は発生しない。

しかし、『自分自身を要素としない集合の集合』や『すべての集合の集合』などのように、内包的定義で要素を集めたときにはなかったはずの新しい集合が、その内包的定義に合致してしまうことがある。このような場合にパラドックスが発生してしまうのだ。

例えば、考えられる限りの『自分自身を要素としない集合』を集めて集合Rを作ったとしても、集合R自身が『自分自身を要素としない集合』になってしまう。集合Rはその要素のどの集合ともことなるが、やはり『自分自身を要素としない集合』という内包的定義を満たしてしまう。Rの要素はRの内に存在しているが、R自身はRの外に存在している。このようなRを一般的な集合とみなすことはできないが、これを無理に『自分自身を要素としない集合』すべてを集めた集合と考えるところからパラドックスが起きてしまう。

つまり、このRが内包的定義を満たしているからといって、これをRの中に入れてしまうと、そのとたんにRは自分自身を要素とする集合になってしまう。また、RをRの中に入れないでおくと、R自身が内包的定義を満たすのでRの中に入れなければならなくなってしまう。これは、R自身が内包的定義を満たしているが、Rの内部に含めることはできないという、『床屋の』パラドックスになっているからだ。

ここで、注意しておかなければならないのは、「自分自身を要素としない集合」の集合Rは、すべての要素が含まれることを主張しなければ問題なく存在可能であるということだ。しかし、その際にも、自分自身もまた、自分自身を要素としない集合である。この構図はRの要素をどのように増やしても壊れないので、Rが「自分自身を要素としない集合をすべて集めた集合」であると考えるとパラドックスが発生してしまうのだ。そういう集合は、素朴集合論の「集合はものの集まりである」という単純な定義によっても作り得ないからだ。

公理的集合論では、巧妙に公理を組み立てることによって、このような自己言及的な内包的定義を避けるようにしている。

ただし、自己言及的な内包的定義は絶対に避けなければならないのかどうかは分からない。例えば、『自分自身を要素として含む集合』のようなものは、すぐには思いつかないが、2枚の鏡を向き合わせたときに見られる画像は、そのような集合が存在する可能性を示唆している。ただ、この場合の集合を集合と言えるかどうかという問題はある。おそらく、今の集合論とは別のものになるのではないだろうか。

内包的定義による集合の定義は簡明でなんの問題もないように思われるが、自己言及的な定義を発生してしまうという危険性を常にはらんでいるのだ。
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by tnomura9 | 2010-06-04 11:31 | 考えるということ | Comments(0)

ラッセルのパラドックス

「Aならば¬A ∧ ¬AならばA」は恒偽命題だ。これは、簡単な真理表で確認することができる。しかし、論理体系がこの命題を公理や定理として含んでいたら、その論理体系のすべての命題は証明可能となってしまうので論理体系としての意味が全くなくなってしまう。

素朴集合論における、「『自分を要素としない集合の集合』が自分自身を要素としていなければ、それは、自分自身を要素として含む。また、その集合が自分自身を要素としていれば、それは自分自身を要素としない。」というラッセルのパラドックスは、素朴集合論にとってはまさに上の恒偽命題がその体系の中に存在する事を証明したように思われた。

「集合とは物の集まりである」という集合の定義から直接的に導出されているので、反論が難しい。しかし、認めてしまうと素朴集合論はナンセンスということになってしまう。

実は、「Aならば¬A ∧ ¬AならばA」が恒偽命題なのは、Aが命題であってAが真か偽かどちらかの値しかとらない場合だ。Aがそういう命題でなければこの命題は矛盾を含まずに真となることも可能だ。

たとえばAがプログラムの変数だったとしよう、そうして、ならばというのがその変数の値を書き換える動作だったとしよう。そうすると、上の命題はプログラムカウンタが変わるごとに変数Aの値が反転することを示しているきちんとしたプログラム、すなわち、真であるということになる。

要するに、「自分を要素としない集合の集合」が「集合」でなければ、ラッセルのパラドックスが素朴集合論の中で証明されたとしても、それは集合ではないものにたいしての命題なので、素朴集合論に矛盾があるという証明にはならない。

そこで「自分を要素としない集合の集合」という集合を考えてみよう。「犬の集合」は実際に自分自身を要素としてはいないので、「自分を要素としない集合」のひとつだ。そこで、「自分自身を要素としない集合すべての集合」を考える前に、考えられる限りの「犬の集合」のようなものを集めた集合Rを考えてみる。

そうすると、Rは明らかに自分自身を要素としてはいない。もしそうであると、Rは自分自身を要素する集合を要素としてしまうことになるからだ。また、Rはその要素となる集合のどれとも一致していない。もし、一致していたとすると、Rは自分自身を要素とする集合になってしまうからだ。したがって、Rはそれらの要素とは全く異なる新しい集合だ。

つまり、あらゆる「自分自身を要素としない集合」を集めたはずのRはそれらのどの集合とも違う新しい「自分自身を要素としない集合」になってしまうのだ。これは、Rの要素をどのように集めても常にRはそれらとは異なる「自分自身を要素としない集合」になってしまう。

これがラッセルのパラドックスについての解答だ。内包的定義「自分自身を要素としない集合すべての集合」では、そのような集合を作ることは不可能なのだ。したがって、そのような集合が作れないため、たとえラッセルのパラドックスが論証されたとしても、それは、全く素朴集合論に矛盾を持ち込む物ではなかったのだ。

ラッセルのパラドックスは「自分を要素としない集合すべての集合」という集合でないものを集合として指示したところから発生している。そういう意味では、ラッセルのパラドックスもやはり「意味論的パラドックス」の一員だったと言っていい。

このように、ラッセルの集合が集合でないので、ラッセルのパラドックスは素朴集合論に矛盾を持ち込むことはできない。たとえその命題が真であったとしても。素朴集合論は矛盾の影に怯える必要はなかったのだ。
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by tnomura9 | 2010-06-03 20:41 | 考えるということ | Comments(0)