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パラドックスの真理表

「Aかつ¬A」は恒偽命題だ。こういう命題が公理や定理に現れる論理体系は、すべての命題が証明可能になるので論理体系を構築する意味が全くなくなってしまう。

パラドックスの場合はいろいろな論証の過程を経ても最終的には、「Aならば¬A ∧ ¬AならばA」という命題に帰着する。この命題もやはり「Aかつ¬A」と同じく恒偽命題である。

「Aならば¬A」という命題は恒偽命題ではない。Aが偽の時はこの命題は真になる。しかし「Aならば¬A」と「¬AならばA」という命題の合接は恒偽命題となってしまう。ラッセルのパラドックスではまさにこの形の命題が論証されるので、当時の素朴集合論をあつかうひとたちにはショックが大きかっただろう。

公理的集合論を構築することによって、巧妙にこの恒偽命題をさけようとしたが、ゲーデルの不完全性定理で、そのなかにゲーデル文というパラドックスが存在することが分かってしまった。

取っても取っても発生する害虫のようなパラドックスだが、どうしてこのようなものが発生してしまうのだろうか。また、このようなパラドックスを抱えた論理体系がどうして無矛盾性を保つことができるのだろうか。また、パラドックスの多くは自己言及文が存在してるが、自己言及文があるとどうしてパラドックスになってしまうのだろうか。疑問は尽きない。
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by tnomura9 | 2010-05-31 12:49 | 考えるということ | Comments(0)

矛盾とパラドックス

矛盾とパラドックスは別のものらしい。Wikipediaのパラドックスの項には丁寧に説明してあるが、もう一つはっきりした違いが飲み込めない。

矛盾が重要なのは、矛盾する命題が論理体系に含まれているときは、その体系に含まれるすべての命題が証明可能となってしまうので、論理的体系の意味がなくなってしまうからだ。

それではその論理体系がパラドックスを含んでいる場合はどうなのだろうか。ゲーデルの不完全性定理のゲーデル文はどうみてもパラドックスのように見える。そうすると、自然数論を内包する論理体系はすべて、パラドキシカルな命題を含んでいることになる。そのため、このような体系は自分自身が無矛盾であることを自分自身の体系の命題として証明することができない。しかし、矛盾した体系であるとは考えられないので、パラドキシカルな命題を演繹できるからといって、その体系が矛盾しているということはできないのだ。

したがって、矛盾とパラドックスは明らかに別なものだと言える。しかし、どこが違っているのだろうか。

例えば、「aは嘘つきでかつaは嘘つきではない」という命題は、aが嘘つきであろうとなかろうと、恒偽命題になる。しかし、「aが嘘つきならばaは嘘つきではない」という命題は恒偽命題とは言えないのだ。「aが嘘つきである」が偽であるとすると、「aは嘘つきではない」は真となる。しかし前件が偽となる場合、後件の真偽に関わらず「aが嘘つきならばaは嘘つきではない」という推論は真となってしまう。

仮に、「aが嘘つきであるならばaは嘘つきではない」という命題が恒真命題であるとわかっている場合、この命題を含む体系で「aが嘘つきである」が真であれば、「aが嘘つきではない」が推論されるため、矛盾が発生する。ところが、「aが嘘つきである」ということの意味がはっきりしていない場合、「aが嘘つきであるならばaは嘘つきではない」という命題が恒真命題であるとしても、「aが嘘つきである」という命題の真偽を定めることができなくなるが、矛盾があるということもいうことができない。

「aが嘘つきであるならばaは嘘つきではない」という命題で「aが嘘つきである」という命題を定義した場合、「aは嘘つきである」という命題の真偽は定まらない。このような命題を抱えながらかつ論理体系が無矛盾であるというのも納得し難いことだが、同時に矛盾しているということを論証することもできない。

Aと非Aが合接で結びついている命題は矛盾しているため恒偽命題となる。しかしAと非Aが含意で結びついている命題の場合恒偽命題とはならない。したがって、矛盾しているということができないのでパラドックスになってしまうのだ。

有名なラッセルのパラドックスは、素朴集合論の矛盾を指摘したことになっている。しかし、素朴集合論は矛盾しているのではなくて、パラドックスをその命題として含んでいるだけなのだとは考えられないだろうか。

素朴集合論から矛盾を取り除くために、公理的集合論が作られたが、その公理的集合論の上に築かれた自然数論の体系の中にゲーデル文というパラドックスが現れてしまった。そうであれば、最初から素朴集合論がパラドックスを抱えていてもいいのだと考えた方が自然なのではないだろうか。

素朴集合論にはもともと矛盾などなかったのだ。ただ、パラドックスを矛盾と考えて排除しようとしただけなのだ。しかし、無矛盾な体系がパラドックスを本質的に抱えているために、ゲーデル文というパラドックスが、公理的集合論の中に出現してしまった。どのみちパラドックスが現れるのなら、別に公理的集合論などを作らなくても、素朴集合論で十分なのではないのか。

管理人は論理学や集合論については素人なので上のような議論をして良いのかどうかは確かではない。しかし、矛盾とパラドックスの違いがどこにあるのかを素人にもわかるように明確にできたら面白いのではないかという気がする。
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by tnomura9 | 2010-05-27 12:49 | 考えるということ | Comments(0)

嘘つきのパラドックスと状態

『天国の門』のパズルでは、「あなたは私が『これは天国の門ですか』と質問したとき『はい』と答えますか?」という質問に対し、悪魔は「はい」と答えても「いいえ」と答えても嘘がつけないので答えられなくなってしまった。こういうパラドックスは、自分の発言の真偽にたいしてコメントするという自己言及文で発生する。そのもっとも、単純な形が『嘘つきのパラドックス』だ。

「私は嘘つきだ」という発言をした人がいるとする。果たして、この人は本当に嘘つきなのだろうか。この人が嘘つきであると仮定すると、「私は嘘つきだ」という文は嘘なので、この人は嘘つきではないことになる。また、この人が嘘つきではないと仮定すると、「私は嘘つきだ」という文は真なので、このひとは嘘つきであるということになる。どちらを仮定しても矛盾が発生するので、この人が嘘つきなのかそうでないのか判断することができなくなる。

言葉の遊びのようだが、この嘘つきのパラドックスは、論理素子を使って作ることができる。2入力のXOR素子の一つに外部からの入力をつなぎ、XORの出力を反転したものを遅延回路を介してXORの入力の一つにフィードバックさせてやればいいのだ。そうすると、XORの外部入力がTの場合、もう一つの入力の初期値に応じて遅延回路のクロック入力に関わらず出力は安定した値をとる。一方外部入力がFの場合、出力は遅延回路へのクロック入力の度にTとFの値を交互にとることになる。

この装置の真理表は通常の方法では記述することができない。クロック入力の度にダイナミックに変化するからだ。これは、この装置が「状態」を持っているからだ。「状態」とはそのシステムの時間的に一つ前の記憶がそのシステムの次の振る舞いに影響をもつということを示している。

システムが「状態」を持つことによって、論理素子を使った機械の動作の自由度は飛躍的に増加する。コンピュータは論理素子でできているが、静的な論理だけでなく、状態を持った動的な論理も実行できるため、ありとあらゆる現実の現象をシミュレートできるのだ。

逆に、このような「状態」を持つことのできるシステムは、そのなかに嘘つきのパラドックスを内包することができるようになる。そのため、無限ループや、無限再帰呼び出しなど、プログラムの暴走が紛れ込んでくることになる。意図しない誤動作も「状態」の思いもかけない変化によって引き起こされる。

プログラムの正しさを保証するため、関数型のプログラムは、入力によって出力の値が完全に決定する事を理想とする。しかし、関数型の言語といえど、プログラム言語である限り、この「状態」を持つことができなくてはならない。したがって、「状態を」持つための妥協が必要になる。だが、妥協する分だけどうしても表現が分かりにくくなってしまう。

この「状態」という記憶は現実のシステムを扱うための必須の条件となる。龍樹の「中論」も、ゼノンのパラドックスも本質的には変化というものの矛盾を指摘している。「状態」が仮定されない限り、時間的な連続性は保証されず、変化も因果も論理的にありえないということになってしまう。

『中論』やゼノンのパラドックスでターゲットにされているもう一つのテーマは、連続量とその離散的観測によって発生するパラドックスだ。量子力学の確率波の考え方は、連続的に変化するシステムと離散的な観測との間にどう「状態」が受け渡されるかということの解答になっているのではないだろうか。最近では時間についてもその量子的振る舞いについて論じられているようだ。時間が量子的な振る舞いをすれば、ゼノンのパラドックスのすっきりとした解決法が見つかるのではないだろうか。

変化とか運動とかいうものは、本質的な矛盾を孕んでいる。物が変化したり動いたりするためには、ある瞬間に同じ物が存在すると同時に存在しないことが必要だからだ。パラドックスや量子論的な議論がその問題の解決になっているとしたら面白い。
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by tnomura9 | 2010-05-21 05:43 | 考えるということ | Comments(0)

天国の門

『天国の門』という有名なパズルがある。

死者が天国へ行くためには天国の門を通らなければならないが、天国の門に並んでそれとそっくりな地獄の門がある。天国の門には天使の門番がおり、地獄の門には悪魔の門番がいるが、この門番は見かけ上はどちらが天使でどちらが悪魔なのか全く区別できない。死者はこの門番に1回だけ質問ができるが、天使の門番は本当のことだけを答え、悪魔の門番は嘘だけを答える。

例えば、死者が、「こちらの門は天国の門ですか」と訪ねても、天使の門番は「はい」と答え、悪魔の門番は「いいえ」と答えるので、その門が天国の門かどうかを知ることができない。

解答は「わたしが、『この門は天国の門ですか』と尋ねたとき、あなたは『はい』と答えますか?」と死者が尋ねると良いと言うことになっている。天使の門番は素直に「はい」と答えるだろうし、悪魔は「いいえ」と答えるはずなのでその逆の「はい」と答えるだろう。どちらの門番の答えも「はい」になるので死者はめでたく天国の門を知ることができることになる。

見事な解答だが、はたして、それでいいのだろうか。

もう一度悪魔の答えを検討してみると、あなたは「はい」と答えますかという質問に対して「はい」と答えてしまっている。「いいえ」と答えるつもりだったのを嘘をついて「はい」と答えたのだが、その答えが、「はい」とこたえますかという質問に対する肯定的な答になってしまっている。「『はい』と答えますか」という質問に対して「はい」と肯定した上で「はい」と答えているわけだから、これは嘘をつかなかったことになる。

しかし、悪魔は嘘しかつくことができないのだから、この状況で「はい」と答えるのは不可能だ。「いいえ」と答えても悪魔は嘘をつくことができないから、結局、悪魔の門番は「はい」とも「いいえ」とも答えられないパラドックスにおちいることになる。

スマートな解答が気持ちいい「天国の門パズル」だが、そうは問屋が卸さないようだ。
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by tnomura9 | 2010-05-19 18:52 | 考えるということ | Comments(3)

無念無想

iPodのフリック入力の練習は、フリックマスターというアプリケーションでやっている。

毎日やっているが、成績に3つのピークがあるのに気がついた。一番遅いのが30秒台、2番目の早さで成績がこの値になるのが一番多いのが22秒台、一番早いのが20秒を切る19秒台後半だ。きちんと統計をとったわけではないのだが、正規分布ではなく、この3つのピーク中心に分布しているようなのだ。

一番遅い30秒台の場合は、フリック入力の練習を死ながら他のことを考えていた場合だ。2番目のはフリック入力に集中しているが、問題の文字を内語で発音しながら入力している場合のようだ。一番早い場合は、問題の文字をみると同時に指が動く場合で、内語の発音をスキップしているようだ。

脳はマルチタスクで動くといっても、タスクの状態でフリック入力の応答速度に顕著な差が出てくる。剣道で無念無想を強調するのは、隙ができたということを認識してから竹刀を振るより、隙があるという認識の作業をシャントして、隙が見えると同時に竹刀を振ったほうが反応速度が早くなるからだ。

そんなことができるのだろうかと思うが、フリック入力という単純な操作を観察したおかげで、脳内で中間処理をスキップして入力から出力への反応を早くすることができることが分かる。また、このスキップの作業はできるときとそうでないときがあり、練習を重ねるにつれスキップできる頻度が高くなる。

速読の場合も内語で音読するのを止めるように勧められるが、どうやら、それは実行可能なスキルのようだ。複数の行を見て内容を一度に理解するように勧める方法もあるが、これも、超能力というわけではないのかもしれない。

練習に慣れてきたら、中間の処理をとばす方法を意識してみるのもいいかもしれない。

しかし、この中間作業の省略は、練習の回数を相当積まなければ起きてこない。速読の練習も、相当大量の書物を読まなければ身につかないのではないだろうか。ラノベのような気楽に読める本を大量に読みつづけるというのは速読の練習法としてはいい方法のような気がする。
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by tnomura9 | 2010-05-10 06:55 | 考えるということ | Comments(0)

フリック入力の練習効果が上がらない

フリック入力がなかなか速くならない。毎日練習をしているのにも関わらずだ。

こういう体で体得するような技術というのはそんなものなのだろうが、もう少しはうまくなってもいいのではないかと思ったりする。

しかし、運動の技術に限らず、学習というものは、そう簡単に上達するものではないのかもしれない。簡単にやれたと思っている場合は、単に今までに充分習熟していたことを応用したにすぎないのだろう。

自分でたやすくできることについては、あまり重要視しないので、結局自分にできないことばかりが目につく。そうなると目の前にあるのは自分はあれもできない、これもできないという不全感のみということになる。

小売業の低価格競争と同じようなことが、学習についても言えるのではないだろうか。POSなどを利用した業務の効率化で商品の販売価格を下げて一時的には売上が伸びても、やがて、競争相手も同じことをしてくる。シェアーを守るためにはさらに販売価格を下げなければならないが、しかし、すでにかなり無理をして効率化をしているために、それ以上の効率化も難しくなる。やがて、販売しても利益がとれない状態にまで至ることになる。

学習の効率化についてもそうで、速読を習得すればさらに読まなければならない文書の数が増えてくる。自分の能力を上げるために、学習の基本技術を向上させようとする方法には、その用途を考えていないと、「石の上にも3年、3年たったら別の石」というサラリーマン川柳にでてきたような事態にもなりかねない。

学習法はどれだけがんぱっても、満足ということはないので、燃え尽き症候群にならないように少し手控えるという知恵も必要だ。
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by tnomura9 | 2010-05-06 13:13 | 考えるということ | Comments(0)

Windows 7 へ引越し

連休だったので仕事で使っていた Vista マシンからデータを Windows 7 へ引っ越した。事情で意図せずデスクトップマシンになってしまったが、ノートパソコンと違って縦方向の解像度が高いのが便利だ。A4のPDFを縦方向にすべて表示しても楽々と読むことができる。iPadか、それに類するタブレットコンピュータが本当に欲しくなってきた。

Google 日本語をインストールし、MSーIMEのユーザ辞書のインポートも無事済ませることができた。Firefox のブックマークもHTML文書にエクスポートしておいて、Windows7 のFirefox にインポートした。Firefox のブックマークのエクスポートはHTML文書になるので、ブックマークの一部を取り出して使うときなどには便利そうだ。

XAMPP をインストールして、フォームで作成した定形文書を成形して印刷する PHP プログラムも以前作っていたものをコピーした。Vista の時は文字コードを Shift JIS にしていたので、時々思わぬところにバックスラッシュが挿入されてしまうので修正が面倒だったが、今度はUTFー8にしたところそのようなバグは発生しなくなった。

UTF-8のHTMLの文書は、以前に作っていたものを Terapad で読み込んで、Shift-JISからUTF-8へ変換して、meta タグの charset をUTF-8にしただけだ。PHPはあまり詳しくないので、ヘンな箇所があるかもしれないが2年ほど使って一応動いている。

また、Windows 7 になってから、ダウンロードしていた資料や画像をユーザフォルダ以下のフォルダに入れておけば、スタートメニューから全文検索で資料を検索できるようになった。検索は一瞬だし、Google で検索するより数段SN比が高くなるので便利だ。

結局、仕事にパソコンを使うときは、ほとんどが情報の検索と文書の作成になる。Window 7 の検索能力と、XAMPP でWWWサーバを簡単にインストールできるようになったおかげで、ずいぶん便利に使えるようになった。

素人が仕事用にパソコンを使うときは、Windows 7 と HTML(HTML5への挑戦を考慮中) と XAMPP と PHP の知識があれば、大抵の用途には事足りるような気がする。グラフィックの仕事ではなく、検索や文書作成が主になる人には、XAMPP を利用したWebアプリケーションがおすすめだ。効用/学習比が大きい。

データはUSBメモリにも保存してあるので、Vista マシンの dynabook には、Ubuntu 10.04 をインストールした。ワイヤレスネットワークにも無設定でアクセスできたし、Flush player などのインストールは、「アプリケーション」ー「Ubuntu ソフトウェアーセンター」 から「Ubuntu restricted extras」をインストールすればよい。

Youtube などを見る分には、Windows パソコンとそう使い勝手は変わらない。グリグリとプログラムを書ける環境だけは整った。
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by tnomura9 | 2010-05-04 10:50 | 話のネタ | Comments(0)