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統語論とパズル的思考

数学の証明は、公理と推論規則の組み合わせでできている。定理の証明は、これらの組み合わせをさまざまに適用することによって実行される。

このように、ルールがはっきりしているのに解答が容易には得られないという統語論的な性質は、詰将棋や、15ゲームなどのパズルの状況とよく似ている。それは、ルールの適用の選択肢が膨大で、規則がはっきりしているのに全体を見通すことが不可能であるということだ。

このため、パズルの正解に到達するためには、不可能な選択肢を切り捨てたり、有力な選択肢を選びだしたりなどの選択肢の選別を行わなければならない。この、選択肢の選別の上手下手がパズルの解答への到達を左右する。

このように、パズルや数学の一般的な性質を検討しても、それでパズルや数学が得意になるわけではない。ただ、これらに共通する思考法の特徴に気を付けていれば、例えば、不可能な選択肢を明確にすることの有効性と、その際に可能な選択肢を不可能と判断することによって迷路に陥る危険性など、実際に問題を解くときの要点が見えてくる。

パズルが上手になったから数学が解けるようになるというものでもないし、逆もまた真だ。しかし、パズルを解くときの戦略は、比喩的に数学の問題を解くときの役に立つことがある。
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by tnomura9 | 2009-06-30 07:20 | 考えるということ | Comments(0)

数学の形式と意味

現代の数学は、公理論的集合論という形式的体系の上に構築できるそうだ。

形式的体系の特徴は、すべての定理が、公理と推論規則という記号の操作だけで証明できるということだ。そうであれば、その上に構築できる数学の定理は、本質的に記号の操作だけで証明できるはずだ。言葉を変えると数学の証明を理解するのは、本質的に、統語論的な操作だけで可能であるということだ。

しかし、証明の正当性については、統語論で理解できたとしても、コンピュータではない人間は、その意味が理解できなければ納得できない。定理の意味は、統語論ではなく意味論の世界に属している。数学の形式的体系の意味とはそのモデルだ。集合論で得られた定理が、実際の集合に適用されてみてはじめてそれを理解したと感じることができるのだ。

数学を勉強するとき、この統語論の世界と、意味論の世界をある程度分けて考えたほうが、抽象的な証明を理解するのに便利なような気がする。証明が理解できないと考えるとき、その、証明の形式としての正当性と、意味としての妥当性への二つの疑問が混同して先へ進めなくなることが多いからだ。

壁にぶつかったら、いったんその定理の意味を問うことをやめ、純粋に形式的にはどういうものなのかという統語論を意識した視点で取り組むとよい。統語論的な仕組みが分かった時点で、それでは、モデルとしては何が考えられるのか、また、その意味は何なのかと考え始めるのだ。

数学の定理を統語論的な視点と意味論的な視点のふたつの立場にはっきり分けて眺めるのは、理解の壁を超えるためのヒントになるような気がする。
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by tnomura9 | 2009-06-29 13:11 | 考えるということ | Comments(2)

動かすことによって理解する

最近、将棋の三手詰めの問題集を解いているが、面白いことに気づいた。

問題の図をただ眺めているだけでは、何の意味もない図形にしか見えないのに、頭の中で、一個でも駒を動かしてみると、とたんにその図が意味を持ち始めるのだ。

王駒が逃げ出すとすればこのルートだとか、逃がさないようにするにはこの駒をここに置かなければならないとか、相手の金が守りに効いていて邪魔で仕方がないから動かしてやろうとか考え始めたとたんに、今まで無愛想な図に見えていたものがとたんに物語として映るようになってくる。

数学の参考書もそうで、取りつく島のない記号の羅列に見えていたものが、ここをこういじるとどうなるだろうとか、何でこの記号はここにあるのだろうか、他に移したらどういう風に意味が変わってくるのだろうとか考えているうちに、突然、その数式の意味のようなものが分かって、細部と全体の関連性とか、部分同士の関連の仕組みの意味とかが分かる時がある。

知恵の輪もそうで、これはだめだ、あれはどうだろうといじっているうちに、突然答えがひらめいたりする。

子供は何でも口に入れたり触ったりするし、視覚失認の人はボールを見せられてもそれがなんであるか理解できないのに、ボールを壁にぶつけさせてそれが跳ね返ってくるのをみせると、びっくりしたように「ボールだ」と言ったりするそうだ。

理解しがたいものに遭遇した時は、頭の中や実際にそれを動かしてみると理解できるような脳の仕組みがあるのかもしれない。
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by tnomura9 | 2009-06-28 09:39 | 考えるということ | Comments(3)

直観力その2

直観力とは、一見無関係に見えるいくつかの証拠からその背景にあるものについての適切な仮説を立てる能力であると定義できないだろうか。

このような定義のもとで直観力について考えてみるといくつかの特徴がみえてくる。一つは推論のもととなる証拠が一見無関係に見えるか、非常に少ないという特徴だ。普通の人間には雑音としか見えない材料を元に直観力のある人は仮説を作り出す。しかし、証拠の間の関連性が希薄なため、さまざまな仮説が適用できる。直観力のある人は、その様々な仮説の中から一瞬にしてもっとも適切な仮説を見つけ出すように見える。

二つ目は、仮説の立て方の特徴だ。一般に、直観は論理を飛び越えて一気に正解にたどりついているように見える。仮説の作られる時間も一瞬で、論理の連鎖を積み重ねることによって結論を出すというようなやり方ではない。証拠から仮説を導き出すのは、一種のパターン認識による。様々な有り得る仮説のうちで、証拠のパターンに最も適合するような仮説が論理的な思考を経ずに選択される。

こう考えると、直観力は芸術の感受性と似ているところがある。仮説と証拠の間のバランスとか全体としてのまとまりとか、あるいは仮説の適合性についての美的感覚のようなものが判断の根拠になる。

直観力は、先天性のもので努力で獲得できるようなものではないようにも見える。しかし、美しいものを多く見ていると自然にセンスが良くなるように、直観力も直観力のある人の意見を聞いているうちに自然に培われるものなのかもしれない。
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by tnomura9 | 2009-06-25 17:49 | 考えるということ | Comments(5)

直観力

誰と誰がつきあっているかということに関する女性の直観には恐るべきものがある。一緒にいる時間が妙に多いとか、ちょっとした目くばせなどで分かってしまうのだそうだ。

こういう場合の直観は、明らかに、非常にわずかな変化や証拠を元に仮説を組み立てる能力にある。他の人にはわからないような変化や、一見何の関連もないような事実を結び付けて、統一的な解釈を作り出してしまう。これが、推理小説のように思いもかけない方法で行われると、読者はそうだったのかという今流行の「アハ」体験を感じるのだ。ばらばらな事実の背後に統一的な構造が見えたとき、人間は一種の快感を覚えるもののようだ。

ボーっとしていれば何も起こらないだろうが、何かの異変に気がついた時、意識していようといまいと脳の中で探索が始まるのではないだろうか。この探索行動は並列進行しているような気がする。つまり、複数の異変に対し、同時的に探索が起きるようだ。探索行動はある種のエネルギー水準が高い状態に相当する。この探索行動の過程で、脳のなかの記憶や、外界から入ってくる刺激へのアクセスが活発に起きるのだろう。

ところが、並列進行している探索行動が、ある種のネットワークを作った時に、突然にこのエネルギー水準が低下するのではないだろうか。いままでバラバラだった情報が、ひとつのまとまりを形成したときに一気に探索のポテンシャルエネルギーが低下して、「ユーレイカ」でみられるような分かったという感覚をもたらすのではないか。

このばらばらな情報をひとつにまとめ上げる能力には個人差があるような気がする。直観力の優れた人はこのようなパターン認識が得意な脳を持っているのだろう。
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by tnomura9 | 2009-06-24 07:25 | 考えるということ | Comments(0)

思考のタイプ

一口に思考力と言ってもいろいろなタイプがある。

雑多な事実の中から物事の本質を直感的につかむ直観力、将棋のように条件がはっきりしていても変化の可能性が多くすべてを把握するのは不可能な状態から最適な方法を探すパズル的な能力、犯罪捜査のようにわずかな証拠をもとに真犯人を追いつめる推理力、相手の表情や行動からその考えを推測する観察力等々。

これらは全て脳の中で行われるので、本質的には原理は一つなのかもしれないが、やはり、対象によってそれにふさわしいタイプの思考力を使わなければ効果はないだろう。しかし、そうであるとすると、これらのタイプの異なる思考力の間のどこに違いがあるのか、どこに共通点があるのかという疑問が湧いてくる。

客観的に思考力のタイプ分けをする方法は今のところないようだ。ただ、問題を解決するときにその問題の解決法にどのようなタイプの思考力が必要かを意識しておくことは意味のあることだ。
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by tnomura9 | 2009-06-23 07:11 | 考えるということ | Comments(0)

アイディアと表現形

見せブラは背中の開いたシャツや、肩を露出したタンクトップなどを着るときに、ブラのひもが見えてもいいようにデザインされている。

ただ、その表現形としては、上着や水着に近い材質を使ったり、タスキのように十字に交差させたり、肩ひもを透明にしたり、背中のあいたシャツの真ん中にブラジャーの紐のように見えるひも状のものを縫いつけたりなど様々な表現になる。

しかし、それは、ブラのひもを見せてもいいようにするというアイディアが把握されていれば、それらを統一的に理解することができる。

知るということは、このアイディアを知るということと、その表現形を知るという二つの部分に分けることができる。見せブラというものはどういうものかというアイディアを知っていれば、それが何のために考案されたのかが理解できる。しかし、様々な見せブラの形態を知っていないと実際にそれがどういうものかを知っているということにはならない。反対に様々な見せブラのサンプルを見せられても、それが人目についてもいいようにデザインされているというコンセプトを知らなければ変なブラが流行っているなくらいにしか見えないだろう。

見せブラのような分かりやすいものは、この二つを取り立てて意識する必要はないかもしれないが、たとえば、圏論のようなものはどうだろうか。数学的構造を射(関数)の観点から解析していこうというのが、圏論の考え方だが、その考え方から圏の持つ様々な性質を定理として証明していくためには、力技が必要だ。圏論のアイディアを具体化する定理として表現された表現形を知るのには別の労力が必要になる。

しかし、数学の構造を射であらわそうという圏論のアイディアを知らずに、いきなり定理の証明に向かったらいったい自分が何を学んでいるのかさっぱりわからないだろう。それとは反対に、数学の構造を明らかにしたいという圏論の目的を知っていれば、なじみのある集合論や論理学とのアナロジーが働いて、定理の意義を理解しやすく感じるだろう。

アイディアの意味を知るということと、アイディアの表現形に通暁するというのは知識を獲得する上で性質の異なる能力であるが、どちらも欠くことはできない。
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by tnomura9 | 2009-06-22 12:44 | 考えるということ | Comments(0)

Doll

漫画『Doll』 岡戸達也作 を読んだ。

田舎の一軒家に住むの中年の「先生」のところに、ぎりぎり若いかつての教え子が押し掛けてきたが、その家にはダッチワイフが3体居たというよく分からない設定で、「先生」と女の子のかみ合わない会話や、何とも表現しがたい間が面白くて、数回読み返してしまった。二人の周りに出没する人たちもなにか変で面白い。

「先生」が女の子の絵のモデルに裸になるところがあったが、その体格がいかにもくたびれた中年の感じを表していて妙に納得するものがあった。

身にしみついた生活の疲れと、こんなんじゃなかったはずなのになという中年の妄想のようなものがよく出ているように思ったのは管理人だけだろうか。

最近、妙に漫画をよく読むようになった。
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by tnomura9 | 2009-06-21 15:58 | 話のネタ | Comments(0)

みせぶら

よそのブログを読んでいたら、「見せブラがチャーミングな20歳の女の子」の話がでていた。「見せブラ」というのがよく分からなかったのでググったら、最近背中の開いた上着を着るのが流行しているので背中のひもが見えてもいいようにデザインされたブラジャーのことだった。または、ブラジャーのひもが見られるのが恥ずかしいので、ブラジャーのひもに見せかけてデザインされた上着という意味もあるらしい。

「見せブラ」を解説したページを探して読んだら、そのなかに「みせぱんつ」に言及したものがあった。スカートからパンツが見えるのがいやなので、パンツの上にさらに「見せパンツ」をはくのだそうだ。中高生が制服のスカートの下に体操服のハーフパンツをはくのと同じようなものだ。

そんなに苦労するのなら背中を見せなければいいのにと思うのだが、見えるか見えないかというのは服を着るほうにとってもスリリングで楽しいものなのかもしれない。

どっちにしても、おじさんには嬉しい夏が来る。
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by tnomura9 | 2009-06-18 18:08 | 話のネタ | Comments(0)

数式の意味

解析幾何で直線と点の距離の求め方が分からないと子供に聞かれたので、直線 ax + by + c = 0 の定数 a, b, c の意味は何を表しているのかと聞いたら、答えられなかった。

そこで、原点を通り傾き1の直線の方程式からはじめて、直線の傾きを変えたり、上下左右に平行移動させたり、二点を通る直線の方程式を求めたり、実際の数値を使った問題を数問させて、それを上のような標準形に変形して見せたら、なんとなく理解できたのか、無事に一点を通り、他の直線に垂直な直線の方程式を得ることができた。

数学が分からないという子は、数式の意味を考えずに、式の変形だけでむやみに試行錯誤していることが多い。こんな時に、実例をいくつも使って数式の意味を分からせて、それを、自分の言葉で日本語で表現させるようにすると理解してくれる。

式の変形という計算は、確かに統語論的な操作で行うことができるが、しかし、数式の持っている意味を考えるようにしないときちんと理解できないし応用もできない。式の意味論が大切な所以だ。

それでは、数式の意味とは何かというと、これは、さまざまな実際の図形の共通部分を抽象したものだ。したがって、さまざまな実際の図形について検討しないと、その本当の意味を伝えることができない。さまざまな実際の図形を提示してやることによって、頭の中で、その共通の性質を直感するのを待たなければならない。抽象的な概念を直接に伝達する方法はない。ただ、生徒の頭の中にそれが形成されるのを手伝うことができるだけなのだ。

抽象概念を直接に伝える方法が本質的にないのが、子供を教えるときの大きな障害になる。しかし、具体例の性質の抽象という抽象概念の本質を考えて、さまざまな具体例をたくさん提示し、それらに共通する性質にはどのようなものがあるか子供に尋ねることで、抽象概念がその子の頭の中に形成される手助けを効率的に行えるのではないだろうか。
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by tnomura9 | 2009-06-15 06:48 | 考えるということ | Comments(2)