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ループ量子重力理論

2009年5月号の『ニュートン』に時間と空間の最小単位があるという「ループ量子重力理論」の解説が載っていた。それによると、空間はプランク体積、時間はプランク時間という最小単位があるそうだ。この時空はデジタルだったのだ。

空間と時間に最小単位があれば、「ある点の隣の点」や「ある時刻の隣の時刻」が存在するので、時空が無限に分割できることを仮定した、ゼノンの「アキレスと亀のパラドックス」が解決できる。古代の哲学の難問がこのような形で解決されるとしたら面白いことだ。

デモクリトスの「原子論」の場合も、原子の存在が科学によって証明されたし、身体感覚と論理と帰納的推論だけで構築された哲学の結論もあなどれないものがある。

ちなみに、「アキレスと亀のパラドックス」だが、足の早いアキレスと亀が競争しても、亀が先のほうの位置でスタートしたら絶対に追い越せないという理論だ。

つまり、スタートしてからアキレスが亀の位置に到達するために時間がかかる。その時間の間に亀は先ほどの距離ほどではないが先に進んでいる。そこでその亀の位置に達するためには、アキレスはまたある時間を使って移動しなくてはならない。しかし、その時間の間も亀は先に進んでいる。これが、永遠に繰り返されるので、アキレスは絶対に亀に追いつくことはできないという結論になる。議論自体には論理的な問題がないのに、実際はアキレスは亀を楽々と追い抜いてしまうのでパラドックスなのだ。しかし、空間と時間に最小単位のある世界であれば、無限に時間と空間を分割することはできないので、上の論法を使ってもアキレスは亀に追いついてしまう。
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by tnomura9 | 2009-03-29 11:23 | 考えるということ | Comments(3)

哲学は帰納的推論だ

哲学の本を読んでいて以前から不思議でならなかったことがある。

論理だけを使って演繹したはずの哲学の結論があまりに多様で相反するものさえあるのはなぜかということだ。科学の場合も対立する複数の仮説が見られることがあるが、その後の研究で次第に収束していく。数学は論理を使って演繹をするが、複数の結論が対立することはあまりない。なぜ哲学だけがさまざまな結論が出てしまうのだろう。

しかし、哲学は論理による演繹のかたちをとっているが、実は帰納的な推論のほうが多いということに気がついてから、その疑問が氷解した。

例えば、ソクラテスは死ぬという推論をする有名な三段論法についてみてみよう。この推論は次のように行われる。

大前提: 「すべての人間は死ぬ。」
小前提: 「ソクラテスは人間である。」
結論: 「ゆえに、ソクラテスは死ぬ。」

大前提と、小前提から結論が導出されており、論理的な法則に従っていて何も問題ない。しかし、論理が関係しているのは、実は、三段論法の推論式だけなのだ。命題論理学では、命題の真偽とは関係なく正当な推論を扱うことを思い出してもらうと分かるが、論理が保証できるのはその推論の形式が正当かどうかだけである。上の推論は確かに論理学的に正しいが、それは推論の形式が正しいというだけのことだ。

もちろん、大前提と小前提が真なら結論が真であることは論理的に保証される。しかし、大前提が偽であれば、どんなに論理的に正しい形式をとっていても結果の正しさは保証されないのだ。

そういう目で見ると、大前提の「すべての人間は死ぬ。」という命題は必ずしも真とは言い切れないことが分かる。経験的にすべての人が死ぬのを見ているが、あくまでもそれは、経験から「帰納的に」推論した法則性だ。一人でも死なない人間がいれば、この大前提は偽であるということになる。帰納的な推論には完全な真理性は保証されないのだ。

こういうふうに考えると、哲学の議論の中には論理に混じって数多くの「帰納的な」推論が使われていることが分かる。そういう命題は経験的に一見自明のようにみえるが、だからといって、その真理性が保証されるわけではないのだ。また、こういう命題は大前提の中に現れやすい。したがって、哲学の議論は必ずしも真であることが保証されていない大前提が多く使われた論理的な演繹になるのである。おそらく、これが、哲学の結論が多様で、相容れない学説すら並立している理由だろう。

哲学の多様性は論理の性質によるものではなく、「帰納的な」推論が多用されているためだったのだ。また、哲学の結論の妥当性はその論理構造の考察よりも、その中に採用されている「帰納的」推論を吟味することによって、科学や数学に比肩する厳密性を持ってくるのではないだろうか。
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by tnomura9 | 2009-03-28 06:40 | 考えるということ | Comments(0)

因果関係のパラドックス

龍樹が導出したパラドックスはどのようにして導き出されたのだろうか。はたして、それは論理の性質だったのか、それとも他の理由でパラドックスが発生したのだろうか。それを知るために龍樹が『中論』で述べた、原因と結果の間の関係(因縁)のパラドックスについての議論を見てみよう。

これらのもの〔A〕に縁って〔結果が〕生ずるのであるという意味で、これらのものが縁であると、人々はいう。しかし、〔結果が〕生じない限りは、これらのもの〔A〕は、どうして〔縁でないもの〕でないということがあろうか(それらのものは縁ではないのである)。
 ものが有るときにも、無いときにも、そのものにとって縁は成立しえない。〔何となれば〕ものが無いときには、縁は何ものの縁なのであろうか。また、ものがすでに有るときには、どうして縁の必要があろうか〔そのものは、すでに有るのであるから、いまさら縁を必要としない)。
(『竜樹』 中村元著 p.321)

上の議論をもう少し形式的に表現してみよう。

1)原因が縁によって結果を生じると仮定する。
2)結果は存在しない場合と、存在する場合の二通りである。
3)結果が存在しないならば、原因は結果におよぼす縁をもたない。
4)なぜならば、何もないものに縁をおよぼすことはできないからだ。
5)結果が既に存在する場合、結果は縁をおよぼされているとは言えない。
6)なぜならば、結果はすでに存在しているので原因の縁を必要とはしないからだ。
7)ゆえに、原因が結果を生じるような縁は存在しない。

みごとに、因果関係が否定されてしまったが、ここで働いている論理的な関係は、

2)の結果は存在しないか、存在するかのどちらかであるという排中律と
3)、4)の三段論法の形式と
5)、6)の三段論法の形式

だけである。論理はあくまでも議論の形式を整えるために使われているだけであって、3)、4)の三段論法の何もないものに縁を及ぼすことはできないという大前提は、現実の経験の比喩として推測されたものでしかない。哲学の議論というのはこのように、現実の経験から比喩を使って推測した帰納的な法則を使って推論を行っているのだ。つまり、パラドックスを発生させる犯人はこのような帰納的に推測された法則であって、論理ではないのである。

しかし、比喩を使った帰納的法則がすべて意味がないというわけではない。それが、十分に一般性を持っていれば大前提として用いることに不都合はないのだ。

上の議論では、原因は存在しないものに縁を及ぼすことはないという前提で推論されているが、原因が存在しないものに縁を及ぼすことができる可能性はないわけではない。動いている物体と静止している物体はその物体の瞬間の位置を比べるだけでは区別がつかない。しかし、動いている物体は速度を持っており、微小な時間が経過した後の両者の位置は異なってくる。つまり、同じ瞬間に一方が動いているか、動いていないかの区別はできないが、動いている物体は、微小な時間後の自分の位置の変化の情報を持っているという点で、まだ存在していない自分の移動位置に縁を及ぼしていると言うことができる。

おなじように、物体の速度の結果として違う位置に移動した物体は、もとの位置にあった自分の速度の情報を引き継いでいる。すなわち、現に存在しているものに過去の縁の影響が残っていることになる。

したがって、ナイーブに原因結果の縁はあり得ないと結論することはできない。

しかし、この場合も困難がなくなるわけではない、移動する物体は一体どの時点でその位置を変えるのかという疑問が発生するからだ。動いている物体はある時刻にその場所に存在すると同時に存在しなくならなければ、そもそも移動というものは発生しない。変化を哲学で論じるのはやはり難しいのだ。

あまり深入りしないうちに本題にもどるが、ここで、言いたいことは、哲学の結論の妥当性は論理の性質によるのではなく、その際に提示される、帰納的に推論された法則によるものだということだ。そう考えるといろいろな哲学的な議論の見通しが良くなり、理解しやすくなる。また、微分も積分も存在しなかった時代に、変化というものの論理的な取り扱い方の難しさに気がついた龍樹は天才的だったと言えると思う。
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by tnomura9 | 2009-03-26 19:19 | 考えるということ | Comments(0)

中観

龍樹は「空」の理論を確立したといわれているが、「空」というのは「無」とは違う。龍樹がこの世界は無だと主張したのなら、「すべてを無だと仮定しても、それを考えている自分は無ではない。」と反論できるが、「空」はどうやら、「無」ではないらしい。また、「空」は「中」と同じらしい。

空っぽの状態と、真中とどうして同じになるのだろうと不思議だったが、中論の議論を読んでいたら気づくことがあった。龍樹が説一切有部の実在論を論破するとき、彼らの命題から演繹して、ジレンマやトリレンマに追い込むことによってそれを否定するというやり方をしている。実在論にまつわるいろいろな命題について述べているが、ほとんどが命題からパラドックスを演繹するというやりかただ。

時間が存在するとしても、存在しないとしても不都合が生じる。したがって、時間は存在するとも、存在しないとも言えない。時間は存在でも非存在でもない空なのだ。という議論だ。存在でも非存在でもないのならその真中というわけで、中観という考えが出てくる。これなら、空と中が同じものであっても納得できる。

龍樹は説一切有部の実在論のほとんどすべてをパラドックスに追い込んでいるが、実は、その中心部分は、時間や因果などの変化を扱った部分だ。さらにいうと、変化の連続性を扱った部分なのだ。Aというものが変化してA1になったとする。単にAがA1に変わるだけなら問題は生じないが、しかし変化ということを扱う場合、Aは何の関係もないA1に変わるのではなくAの同一性を保ちながらA1に変化しなければならない。つまりAからA1には何らかの連続性がなければならないのだ。AがA1に連続的に変化するとき、ある一点でAはAでありながらAではないものにならなければならないが、そこで矛盾が発生するのだ。

実は、変化における連続性の矛盾はギリシアのゼノンが提示した有名なアキレスと亀のパラドックスを含む一連のパラドックスに端的に表現されている。数学的には極限の概念を使ってこのパラドックスを克服できるというような説明があるが、そう簡単にはいかないような気がする。

例えば飛ぶ矢は的へ届かないというパラドックスがある。弓から放たれた矢は、的へ当たるまでにその2分の1の距離へ届かなければならない。しかしその中点に届くまでにはその半分の地点に届いていなければならない、さらにというふうに永遠に議論が続き、矢は移動のための最初の一歩の地点が見いだせない。

存在が自己同一性を保ちながら変化していく時に自分が自分であって同時に自分でないものにならなければならないというパラドックスについてほんとうに解決されたとは思えないのだ。

龍樹の様々なパラドックスの論点は、どれをとってもこの自分が自分でないものに変化する瞬間について述べてあるような気がする。因果をその哲学の根底に据える仏教にとって、変化の哲学は避けて通れないが、そこには解決が難しいパラドックスが潜んでいる。龍樹はそれを敏感に感じ取り、存在でもない非存在でもない空という表現で解決しようとしたのではないだろうか。
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by tnomura9 | 2009-03-26 12:07 | 考えるということ | Comments(0)

中論 原因(縁)の考察

インド哲学の一見理解しがたい結論は、特別の論理のためにそうなっているのではない。哲学の記述の中で、論理の部分と、論理が関与しない部分に分けて考えると、理解しがたいと思っていた議論の構造が見えてくる。例として『中論』のなかの「原因(縁)」が存在しないという部分の議論を見てみる。

〔結果を生ずる〕作用は、縁を所有するものとして有るのではない。また作用は縁を所有しないものとして有るのではない。縁は作用を所有しないものではない。あるいは縁は作用を所有するものとしてあるのだろうか。〔そうでもない〕。
(『竜樹』 中村元著 p.321)

縁などの哲学用語があるし、なにについて論じてあるのか予備知識がないと分かりがたい文章だが、論理という立場からこの文章を分析してみる。そのためには、まず、この文章を命題に分解しないといけない。命題論理学でこれを扱うためには、この文章を単純命題と論理記号に分解しないといけないが、ひとまずは文章単位に切り分けてみる。

1) 作用は、縁を「所有する」ものではない。
2) 作用は、縁を「所有しない」ものではない。
3) 縁は、作用を「所有しない」ものではない。
4) 縁は、作用を「所有する」ものではない。

「作用」、「縁」、「所有する」という用語の意味は置いておいて、これらの文章の論理的な関係を見てみよう。これらの文章をたとえば、(作用)と《縁)のあいだに(所有する)という二項関係があると考えて詳しく分析することもできるが、まずは単純に上の一つの文章を要素命題として考えてみよう。まず、これらの命題を構成する要素命題は何かと考える。すると、A=「作用は縁を所有する」、B=「縁は作用を所有する」の二つで構成されていることが分かる。したがって上の命題を記号化すると、

1)¬A
2)¬¬A
3)¬B
4)¬¬B

となる。1)と2)が同時に成立するということは、(¬A)∧(¬¬A) が真であるということになる。しかし、これはこの結論が恒偽命題であるということと矛盾する。したがって、命題Aを真と仮定すると矛盾がおきるので、命題Aは否定される。しかし、困ったことに¬Aを仮定しても否定されてしまう。つまりパラドックスを引き起こしてしまうのだ。おなじことが、Bについても言える。したがって、この文章は「作用は縁を所有する」あるいは「縁は作用を所有する」という命題がパラドックスになってしまうということを主張している。つまり、「作用は縁を所有する」という命題は、「この文章は偽である」という命題と同じようなパラドックスを発生させてしまうらしい。

論理的な分析の強みは、命題の真偽を問わないで済むということだ。命題の内容を理解していようといまいと、命題間の関係を論理というナイフを使って分析することができる。命題間の関係については、理解しがたいインド哲学であろうと何であろうと論理で分析することができるのだ。

龍樹は「縁は作用を所有する」という命題がパラドックスになることを論述しているが、論理的に議論が進めれれていてもその論述全てが論理的というわけではない、上にも述べたように論理的推論の正しさは、命題の真偽を問題にしないのだ。パラドックスは、論理以外のところから発生してきているに違いない。したがって、論理の部分とそうでない部分を分けることによって、それがどこから来ているのかを見てみることができるかもしれない。
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by tnomura9 | 2009-03-26 07:30 | 考えるということ | Comments(0)

論理の役割

命題論理学の教科書を読み始めて、最初に驚くのは論理的な推論の正しさは、命題の真偽によらないという説明だ。たとえば、
夕焼けが見えれば、明日は晴れだ。
夕焼けが見える。
ゆえに、明日は晴れだ。
という推論が正しいのは分かるが、
雪が黒ければ、ウサギは空を飛ぶ。
雪は黒い。
ゆえに、ウサギは空を飛ぶ。
という推論もまた正しいのだ。最初は、驚いて不審に思うが、真理表の作り方などを勉強しているうちに何となくわかったつもりになって命題の真偽と論理の独立性を忘れてしまう。

ところが、実際に論理を応用するときには推論の正しさよりも、論理の対象の真偽を問題にすることが多い。論理は推論の正しさを検討するためではなく、表面上は見えない真理を探究するのに使われることが圧倒的に多くなる。病気の診断や、犯罪の捜査などは、目に見える症候や証拠から目に見えない病気や犯人を突き止めようとする。たとえば、
たばこを吸うと肺癌になる。
Aは煙草を吸う。
ゆえに、Aは肺癌になる。
というのは普通の推論だが、実際には、
たばこを吸うと肺癌になる。
Bは煙草を吸うが、肺癌ではない。
ゆえに、たばこを吸うと肺癌になるという仮定は間違っている。
というふうに小前提と、結果から、大前提の妥当性を推論するという使い方をすることが多い。帰納的推理だ。ただ、帰納的推理の場合は、あらゆる可能性を検討しつくすということが難しくなるので、大前提の真偽について確定することが難しい。

哲学の場合のように、目に見えない真理を追究するときに論理のみを頼りにしなければならないときは、このように真偽の分かった命題から目に見えない結果を推理する場合と、目に見える証拠から目に見えない命題の真偽を推理する場合が混然となっているので、その議論がどの程度確実なものか判断しづらくなる。

龍樹の批判する説一切有部の実在論も論理的考察を積み重ねて作り上げた学説だし、その学説が正しいと仮定したときに矛盾が生じることを論証することによって、一切の実在には矛盾が存在するので、実在というものはなくすべては空であるとする龍樹の主張も論理を駆使した結果だ。それでも、正反対の両者の主張のどちらが正しいのか判断できないのは、哲学の推論に上に述べた二つの推論が入り組んで使用されているためだ。

一方、カントの認識論などは、内観と論理だけで考察されているにもかかわらず、脳の認識のメカニズムを的確に指摘しているのではないだろうかと思われる結論も多い。一見、机上の空論に見える古代の哲学者の議論も科学的に見ても妥当なものが多く含まれている。論理的推論の力は軽視できない。

また、ここで考えておかなければならないのは、日常的な結果の予測という身近な出来事にも、哲学と同様の事情が発生している可能性があるということだ。新製品を開発したときに、それがどれだけ売れるのかは論理的な推理によるしかない。しかし、その推理が外れたときの影響は軽いものではない。論理的に推理しているつもりでも、自分がどういうふうに論理を利用しているのか、それは正当なやり方なのかということにも注意を払う必要がある。
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by tnomura9 | 2009-03-25 07:13 | 考えるということ | Comments(0)

論理という道具

インド論理学の入門からはじまって龍樹の実際の議論まで眺めてみたが、印象としては、インドの論理学も西洋の論理学とそう変わらないようだ。龍樹の議論を読んでも、ジレンマやトリレンマなど普通の推論手段を使った議論がなされている。論理的な推論式の表現の違いはあっても、実質的な論理的な推論の方法は、違和感がない。

神秘的なのは、インドの哲学の内容であって、論理学ではない。

こうしてみると、述語論理の知識さえあれば、地球上の知的作業の大抵のものは理解できるようだ。ただし、その分野の基礎知識がないと全く理解できないが、推論の手段としての論理学については、万国共通で、神秘的な論理学などはない。

論理学は知識の構造を調べる知的道具なので、この結論は当然と言えば当然だ。述語論理の扱いに習熟しておけば、どんな知識でも、少なくともその構造を知り、複雑に絡み合った概念をその部品に分解することができる。

ヘーゲルの弁証法のようなものも、正、反、合、止揚などと述語論理にはない考え方が述べられているが、これは、相互作用のあるシステムを論理的に分析するときに現れる現象で、論理そのものではない。論理的な推論については、述語論理しか使われていない。

哲学は論理を道具として使っているが、論理そのものではない。それは、数学においてもそうだ。概念の間の関係を分析するという論理の道具としての性質を見失わないようにすれば、述語論理はあらゆるところで使える万能の道具となる。したがって、哲学というような高踏的な学問でなくても、ごく日常の用途にも論理学は活躍できる。述語論理を学ぶということは、のこぎりや金づちの使い方を学ぶのと同じくらい基本的なものだ。

述語論理以外に何々論理学という主張がなされた場合、それは論理学以外のものが付随しているのである。
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by tnomura9 | 2009-03-24 07:45 | 考えるということ | Comments(0)

『中論』 時間の考察

龍樹が『中論』のなかで実際に行った説一切有部の実在論に対する反論を見てみよう。ここでは、第19章の「時間の考察」をとりあげる。

前回のエントリで『中論』の第2章以下の実在論に対する反論は重要度の順に述べてあると述べた。「時間の考察」は第19章なので、重要度からいったら順位は下のほうだ。しかし、この章は議論が短く、また予備知識が比較的いらない。第2章や第3章は、説一切有部の哲学に対する反論になっているので、それについての予備知識がないと読みこなせないが、管理人にはそれがない。

ともかく、第19章「時間の考察」の原文を見てみよう。

 もしも現在と未来とが過去に依存しているのであれば、現在と未来とは過去の時のうちに存するであろう。
 もしもまた現在と未来とがそこ(過去)のうちに存しないならば、現在と未来とはどうしてそれ(過去)に依存して存するであろうか。
 さらに過去に依存しなければ、両者(現在と未来)の成立することはありえない。それ故に現在の時と未来の時とは存在しない。
 これによって順次に、残りの二つの時間(現在と未来)、さらに上・下・中など、多数性などを解すべきである。
 未だ住しない時間は認識されえない。すでに住して、しかも認識される時間は存在しない。そうして未だ認識されない時間が、どうして知られるのであろうか。
 もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのにどうして時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。
 (『龍樹』 中村元著 p.365)

現在と未来が過去に存在してれば過去は現在と未来に影響することができる。ところが、現在と未来は過去ではないのでそれが過去に存在するというのは矛盾する。一方、現在と未来が過去に存在していなければ、過去は存在していないものに影響することはできないので、現在と未来に影響することができず、現在と未来の時は存在しないことになる。

現在と未来が過去に存在しても存在しなくても矛盾が起きるというジレンマが見られるのだ。

現在が過去に影響を受けるためには、現在と過去とが重なり会うある一点が必要になる。何のことか分からないかもしれないので例をあげよう。

一般に動いているものは瞬間には止まっていると考えられる。実際、高速度撮影の写真をみると、飛んでいる鳥は空中で止まっているように見える。しかし、この写真は飛ぶ鳥の瞬間の映像を捕らえたわけではなく、わずかであるが、シャッターが開いてから閉じるまでの時間移動した鳥の重ね撮りを撮影しているにすぎない。静止画像のように見えるのは移動の距離がわずかなので重ね撮りのように見えないだけだ。

真に鳥の瞬間の姿をとらえるためには、シャッターは開くと同時に閉じていなくてはならない。しかし、シャッターが開くと同時に閉じるということは矛盾している。したがって、瞬間というものを定めることができない。運動している物体の瞬間の映像を捕らえることは不可能なのだ。過去から現在への移動の接点は瞬間であるが、その瞬間は必然的に矛盾を抱えてしまう。

このように動きや時間の経過を考えるときに、時間には解き難い矛盾が存在している。これは、時間に限った問題ではなく、実数についてもいえる。実数には次の数というものがない。どこまで近づいても、その間に数を挟むことができるので、アキレスと亀のパラドックスのようなものが発生してしまう。これについて数学的にではなく哲学的に解決した記述を知らない。

龍樹が問題にした、「因果」や「運動」などの概念には常にこの連続性の矛盾が付きまとっているような気がする。運動や変化を問題にするときには、必ず上に述べたような矛盾を抱えてしまうのではないだろうか。説一切有部の哲学の知識があれば、龍樹がこの矛盾を利用してそれらの実在論の内包する矛盾を暴きだしているのをもっとしっかり理解できるかもしれない。

竜樹にはものごとの本質を見抜く勝れた思考力があったのではないだろうか。そうして、竜樹の哲学の投げかける問題の価値は現代にも十分通用するものではないかと思われる。
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by tnomura9 | 2009-03-22 17:18 | 考えるということ | Comments(0)

中論

龍樹という人に興味がわいてきたので、書籍やWikipediaをいろいろと散策していたら、『龍樹』 中村元著 講談社学術文庫に収録されていた竜樹の著作『中論』のサンスクリット語からの翻訳に出会った。

この『中論』が書かれた目的は、説一切有部派の説くカテゴリーの実在論(鳥という個体は消滅してしまうが、鳥という概念は永遠に変わることがないという、プラトンのイデア論に似た考え方)を論破して、そのようなカテゴリーという恒常的なものはなく、一切の実在論には矛盾が存在するということを論証することのようだ。

竜樹が「空」ということをどういうふうに捉えていたのかはわからないが、一切の実在論には矛盾が存在するのであれば、この世界は一切の実在を有しない空であるということになる。

お釈迦様が説いたのは、この世界は無常であるということだ。普通の人が確実だと考えていることは実は確実なものは何もない。(平氏の繁栄はあっという間に過ぎ去ってしまった)。確実でないものを確実であると考えるところから妄執が生まれ、その妄執によって四苦八苦することになる。したがて、この世界のすべては過ぎ去るという真理を悟って妄執を離れたら、苦しみから逃れることができるという考え方だろう(仏教に詳しくないので本当のことはわからないが)。

竜樹はしたがってこのような世界の無常を論理的に明確にしたかったのかもしれない。

しかし、『中論』を読んでみたら、護教のためだけでなく哲学的に本質的な主題をも論じているように思えた。

竜樹の論理学的なセンスはなかなかのものだったようで、中論の構成は非常に明確だ。冒頭に竜樹の考える空の説明があり、この書物が冒頭の概念を論証することをはっきりさせている。その後に、因果が実在しないこと、運動が実在しないこと等々すべての実在をトリレンマ、テトラレンマに導くことによって否定していく。使われている論理学的手法は単純で、AについてA1とA2あるいはA1と非A2、非A1とA2、非A1と非A2を仮定しても不都合が生じるという議論になっている。

そうして扱われているテーマは重要な順序に配列されているようだ。最初が「因果の実在」、次が「運動の実在」、三番目が「認識能力の実在」などだ。全部を検討したわけではないが、すべての順序が十分に考え抜かれているような気がする。

まず、中論の冒頭の文をみてみよう。ここには、竜樹が空とはどのようなものだと考えていたかを書いてある。

〔宇宙においては〕何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生ずることなく(不生)、何ものも終末あることなく(不断)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身によって分かたれた別のものであることなく(不異議)、何ものも〔われらに向かって〕来ることもなく(不来)、〔われらから〕去ることもない(不出)、戯論(形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼する。

要するに一切のものは実在しないと言っているわけだ。したがって、この反対を考えてみるとそれが一般の人が受け入れている世界観になる。

この世には消滅するものがあり、生成するものがあり、終末があり、永遠に変わらないものがあり、変化があり、やってくる未来があり、去っていく過去がある。

要するにこれらの普通の受け取り方には論理的な齟齬があるといっているのだ。

最後の「戯論(形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわり」という箇所は、ヴィトゲンシュタインの「語ることのできないものについては、沈黙しなければならない。」という言葉に似ていて、胸のすくような格好よさを感じる。

このエントリーを作ったのは、龍樹のどこがかっこいいのかを述べるためだ。『中論』の哲学的なところは、仏教やインド哲学や論理学に素人の管理人が論じることのできるものではない。

つぎのエントリーでは実在論の矛盾を竜樹がどのように鋭く論破したのか、個々の議論について考えてみたい。
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by tnomura9 | 2009-03-22 10:23 | 考えるということ | Comments(0)

狼と香辛料

先日、三男が読み終わってテーブルの上に置き忘れていた『狼と香辛料 II』を暇つぶしに読んでみた。結果、本棚に全10巻ずらりと並ぶ羽目になってしまった。

ヨーロッパの中世に似た舞台背景の行商人の青年が主人公で、ある日、その主人公の荷馬車の荷台に十代半ばの少女がもぐりこんでいた。しかし、ただの少女ではなく狼の耳と尻尾の生えた、何百年も生きてきた賢狼の化身だったというファンタジー小説だ。少女は村の麦の守り神をしていたのだが、技術革新のために村人から邪険にされるようになり、北国の故郷へ連れて行ってくれと青年にたのむ。物語は、この二人が北国へ旅をする間にさまざまな商売上の危機に遭遇するが、二人の知恵を絞って危機を脱出するというパターンが繰り返される。

なぜ次々と読むことになってしまったかというと、主人公と賢狼の少女の会話というより、賢狼の言葉や態度に翻弄されてとまどう青年の姿がいかにもありそうな感じだったからだ。女性というのは男には理解できないところがある。何で怒こられるのか、何で泣かれるのか訳がわからないことが多かったので妙に物語の会話に納得するものがあった。

最初は作者が女性なのではないかと思った。検索してみると男性でしかも大学生だったという。二十代の男性でどうしてこういうやり取りがかけるのだろうと不思議に思ったが、ひょっとしたら年上の彼女でもいたのかもしれない。いずれせよ悔しいがはまってしまった。

さっき昔買った星真一のショートショートを読み返していたら、独身貴族の主人公の家に小人の女の妖精が住み着くという話があった。主人公は妖精の理解しがたい言動に悩まされて精神科にも通う羽目になるが。この妖精がある日突然いなくなる。今度は、妖精がいないことに悩んで再び精神科医に相談すると、結婚しなさいと勧められるという落ちだ。

女性の不可解さは永遠の謎だ。
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by tnomura9 | 2009-03-20 22:38 | 話のネタ | Comments(0)