<   2008年 07月 ( 19 )   > この月の画像一覧

道具

家具製作にしても、時計の修理にしてもそれ専用の道具がある。だれも家具製作の道具で時計を修理しようとはしないだろうし、その逆もそうだろう。ところが、思考法になるとついこの原則を忘れてしまいがちになる。

思考法だって、何に使うのかで道具立てが違うのだ。戦争のための思考法が、新薬の開発に役立つわけがないのだ。ビジネス書の思考法が役に立たないのは、それを何に使うのかを考えていないからだ。ノコギリの引き方を一生懸命覚えてうまくなったとしても、野菜を育てるのが上手にはならないだろう。

思考法を何に役立てるのかをはっきりと自覚しておかないと、結構大変な学習のための労力と時間を無駄に使うはめになる。

新しい酒は新しい革袋に入れるべきなのだ。
[PR]
by tnomura9 | 2008-07-31 08:22 | 考えるということ | Comments(0)

作るか、探すか

思考法や勉強法を問題にする時は、問題解決がうまくいかないときだ。解決しなくてはならない問題が目の前にあるがそれをうまく解決できない場合だ。

たとえば、器械が故障して動かないが、どう修理すればよいかわからないとき。期日までに習得しなければならない知識があるが、膨大でどう取りかかってよいかどうかも分からないとき。新製品を作らなければならないが、どうしても解決しなくてはならない技術的な問題がある時、等々。

これらを解決する方法を発見するには二つの方法しかない。他の人が考えた方法を探し出すか、自分で考えつくかだ。ただ、これらの方法にはコストがかかる、資金的な問題もそうだが、時間のコストが重要だ。

問題解決にはかならず、期限がある。いつか解決すればいいというのは問題解決でもなんでもない。したがって、問題解決でもっとも重要なのは時間あたりの生産性、効率だということになる。

上の二つの場合を考えたときに、効率という観点からいけば、圧倒的に既存の知識を利用するのが有利だ。スクラッチから作り上げる労力を考えたら実際に稼働しているシステムを利用する方がはるかに失敗が少ない。

ただし、それは既存の知識を簡単に見つけることができる場合だ。既存の知識を利用する場合目的の知識を検索し応用するために要する労力は無視できない。

したがって、思考力を考える際に、探し出す能力についての考慮は避けられない。
[PR]
by tnomura9 | 2008-07-30 08:15 | 考えるということ | Comments(0)

知らぬは我が身ばかりなり

『知らぬは我が身ばかりなり』というタイトルで、「要するに思考法なんぞを問題にしているのは、他の人がとっくに知っていることを知らないからなんだ」という結論の文章を書こうと思っていて、ふと思い立って『知らぬは我が身ばかりなり』をキーワードで、グーグル検索してみた。

検索結果をあれこれ読んでみたら、自分が書こうとしていたものよりこっちの方がよっぽど面白かった。

本当に、『知らぬは我が身ばかりなり』だった。

・・・と、これで終わってもよかったのだが、ちょっと思いついたのは、自分が知っていることを確認する事も大切だが、自分が何を知らないのかを検討してみることも大切なのではないかということだ。何を知らないかを知っていれば、知るべきなのか、知らないで済ませても構わないのかが見えてくるので、戦略も立てやすくなるだろう。

「自分が知らないということを知っている」というのは大切なスタンスだ。

聖書に「もし、あなたが何かを知っていると思ったら、あなたは知らなくてはならないことのほんの一部も知らないことをわきまえるべきである。」と書いてあるし、ソクラテスはまわりの人が何も知らないことを知らせることに全力を尽くして殺されてしまった。

昔の人のこうした逸話も知らなかったら、自分で苦労して発見して人世訓として吹聴していたかもしれない。やはり、『知らぬは我が身ばかりなり』なのだ。
[PR]
by tnomura9 | 2008-07-29 07:53 | 考えるということ | Comments(0)

共感覚

共感覚を持っている人たちがいる。共感覚とはモダリティの違う感覚同士のクロストークのことだ。つまり、赤い色を見たときにいちごの味を感じるのだ。思い出すのではなく、赤い色と同時にいちごの味が感じられる。こういうひとたちは、バナナの味のする音や、薔薇の匂いのする色を感じたりする。

こういう共感覚を持った人の中には、記憶力の優れた人があって、物心ついてから現在までの記憶を映画のように思い出すことができる。

トロイの遺跡を発見したシュリーマンは語学の天才だったが、小説を大声で音読、暗唱して覚えたそうだ。また母国語のひとに自分の朗読を訂正してもらっていた。

英語漬けで、英文をICレコーダーで聞いているだけの時より、内容が頭に残る感じがするのは、感覚のモダリティを総動員するからかもしれない。さらに、問題が音声として与えられるために、社会性という一種のモダリティもそれに参加している可能性もある。

英語漬けの問題を終了した時にCNNが聞き取れるようになっているとうれしいのだが。
[PR]
by tnomura9 | 2008-07-28 00:26 | 考えるということ | Comments(0)

英語漬け

先日ショッピングに出かけたとき、ニンテンドーDSが目に止まった。次男が『英語漬け』を持っていたのを思い出して衝動買いをした。

やってみるとこれが面白い。発音される英文をひたすらペンで書き写していくだけなのだが、文字認識の良さもあって飽きがこない。1回の問題数が5問というのもちょうど良い量だ。

しかし、練習問題だけでも、0から6レベルまであり、各レベルが3段階にわかれている。各段階の問題数が80問なので、総計1680問をクリアしなければならない。一日40問やったとしても約3ヶ月はかかる計算だ。

これで、40年以上も英語を勉強しているのに、いまだに映画の聞き取りもできないわけが分かった。英語に触れる量が結局少なすぎたのだ。バイリンガルの若い人が不自由なく英語を使っているのを見てうらやましく思っていたが、何のことはない、管理人の40年より彼らが英語を使っていた時間のほうが長かったのだ。

自分の仕事がそう一生懸命勉強したわけでもないのに一通りはできるようになっているのも同じような理屈だろう。人間の技術力なんて結局のところその仕事に従事した期間に依存するのかもしれない。管理人も使える時間があまりなくなってきているので、何に時間を使うのかよく考えなければいけない。

「少年老い易く、学成り難し」というのは手遅れになった人間が実感する言葉なのだろうか。子供たちに今の気持ちを伝えようとしても、もうひとつよい反応がない。彼らが自分の年になったら、オヤジが何か言ってたなくらいは思い出すかもしれない。
[PR]
by tnomura9 | 2008-07-27 22:00 | 考えるということ | Comments(0)

一次資料

脳科学関係の啓蒙書を読むと、よくみかけるのがタクシー運転手の脳の海馬の部分が普通の人より大きく、その傾向は運転手としての経験が長いほど強いという、ロンドン大学のMaguire博士の研究だ。

ところが、この研究は2003年のイグ・ノーベル賞を受賞しているらしく「タクシー 海馬」で検索するとそっちの方の話題の方が多くひっかかってくる。

しかし、日本語版のGoogleでは一次資料の原著が検索できなかったので、英語版のGoogleで、 taxi hyppocampus で検索したら『PNAS』に投稿された、

Navigation-related structural change in the hippocampi of taxi drivers

という原著がGoogleの1ページ目に検索されてきた。図表だけをチラッと見たが、MRIの画像から体積を計算したら、16名のタクシー運転手の海馬の中央部と後部は普通の人より大きく、海馬の前部は逆に小さくなっていた。また、海馬後部の体積は運転手歴が長いほど大きく、海馬前部では逆に小さくなる傾向がみられた。

統計的に有意差が出ていたので、一応上のような結論は正当化されるが、かなりばらつきが多い様に感じられた。また、標本数もあまり多くはない。

この論文が脚光を浴びたのは、おそらく、成人の脳の神経細胞が増殖する可能性を始めて示したためではないだろうか。タクシードライバーが空間認知に関して訓練されているのではないかというアイディアと、海馬という脳の中でも小さく焦点を当てやすい部分を選んだのが効を奏したのだろう。最近では脳にも幹細胞があり、成人の脳でも神経細胞は増殖することができると考えられている。

イグ・ノーベル賞をとったのは、この研究が「ロンドンのタクシー運転手の脳は、他の一般市民と比べて高度に発達していることの証拠を提示したことに対して。」とされており、この論文の主旨よりもその結果を見て騒ぎ立てたマスコミの騒動に起因している。

海馬の話題はともかくとして、このエントリーで言いたかったのは、情報の意味を判断する上での一次資料を得ることの大切さと、意外に簡単に一次資料をネットで手に入れることができるようになったなということだ。しかし、これに関しては、日本語の検索はまだまだの様な気がする。

一次資料を有料で取り寄せてくれるサイトはあるが、一次資料のオープンソース化が進めばその利益は計り知れないだろう。英語版のWikipediaの記事はかなり信頼性が高いように見える。また、一次資料へのリンクも豊富だ。日本語版のWikipediaも同じくらい中身が濃くなると便利だと思う。

Googleのおかげで、インターネットの情報が「第二の脳」と言えるくらいに、使い勝手が良くなってきている。インターネットのオープンソース化が進んでいけば、良質の情報に個人が簡単にアクセスすることができるようになり、人類の英知を集約した膨大な容量の第2の脳を個々人が手にすることができるようになるのではないだろうか。

インターネットの一次資料にアクセスする方法を解説した本がないかと探してみたが、本屋では見つけることが出来なかった。情報のリテラシーを高めるために必須の技術となるはずなのでそういう本があるとうれしい。
[PR]
by tnomura9 | 2008-07-26 03:16 | 考えるということ | Comments(0)

専門家

先日、仕事関係のセミナーに出ていて、講師がフロアーの質問に答えるのをボーッと眺めながら、専門家と自分とどこが違うのだろうと考えていた。

まず、専門家と自分との決定的な違いは、情報のソースだ。専門家は我々がアクセスするのがほとんど不可能な情報源を持っている。特に、一次情報のソースが豊富だ。

第2の違いは人脈だ、その分野に詳しい専門家集団との交流を密に持っている。

第3は情報を有機的に構成する能力だ。ポイントはどこか、情報のネットワークの構成はどうなっているのかよく把握している。そのため、難しい話も聞いていてよくわかる。

第4は背景となる基礎的なトレーニングができている。論理的な思考法や語学などインフラがしっかりしている。

しかし、これらの4点は専門家だけに必要なわけではない。現場の仕事は立派な一次情報だし、これをきちんとやるためにはそれをサポートする情報の入手が不可欠だ。思考力だって鍛えておかないとまともな判断はできない。

専門家ほど環境には恵まれていないが、いい仕事をしたいと思ったら同じような条件が必要になってくる。
[PR]
by tnomura9 | 2008-07-25 06:20 | 考えるということ | Comments(0)

結晶化

過飽和の溶液には物質が飽和度を越えて溶媒に溶けている。例えば高温の溶液に溶質を溶けるだけ溶かしておいてゆっくりと冷やすと、冷えた温度での飽和度より多くの物質を溶かした状態にしておくことができる.しかしこの様な場合振動などのちょっとした刺激で飽和度を越えた分の溶質は析出してくる。また、小さい結晶のかけらを過飽和の溶液に漬けると、そのまわりに溶質が析出して大きな幾何学的な結晶を作ることができる。

参考書を乱読していくと、これに似た状態が起きるのを経験することがある。個々の文章は理解できるが何となくすっきりしなかったのが、その中のある一つの項目に注目した途端に今までの知識がそれを中心に関連付けられて、見通しが格段によくなる感覚だ。

例えば、肺炎の勉強をしていたとしよう。肺炎を起こす病原体には様々なものがあり、その症状も様々だ、しかし肺炎ということで共通する症状も多く区別がつきにくいことも多い。また、肺炎に関連する知識は、細菌の生化学や抗生物質に対する耐性についての知識や、肺の解剖学や、X線写真やCTの読影法など多岐にわたっている。それらの勉強をしているといろいろな知識が頭の中で渦巻いて肺炎というものがどういうものかというのが今ひとつ掴めたという気がしない状態が続いていた。

ところがある日、肺炎の歴史を読んでいて昔の肺炎のほとんどが肺炎球菌だったという記述を読んだとき、肺炎球菌というキーワードを中心として、急に肺炎の様々な特徴がはっきりと見えてきた。

つまり、肺炎で肺炎球菌がもっとも重視されるのは、その頻度と重症度が他の菌に比べて格段に大きいこと。抗生物質はこの菌に大して目をみはる効果を示したが、次第に耐性ができてきたこと。抗生物質に対する耐性化が進むとともに、肺炎球菌以外の菌による肺炎が無視できなくなってきたこと。肺炎球菌はサイズが小さく気流にのって肺胞にまで至って炎症を引き起こすが、マイコプラズマのような気管支の繊毛細胞に感染するものはもう少し中枢側で炎症が起きること。誤嚥性肺炎の様な大きな粒子が感染に関与するものは炎症の分布に重力が関係すること。これらの特徴はX線写真やCTの画像に現れること、等々。

いままでの漠然とした知識が、肺炎球菌というキーワードの周囲に一気に結晶化していく感じだった。

結構勉強したのにもう一つ自信が持てないという場合は、何かのキーワードを選んで、そのキーワードを中心に考えて見るというのもいいかもしれない。ただし、そのためにはかなりの量の多読乱読は必要条件だ。
[PR]
by tnomura9 | 2008-07-22 01:35 | 考えるということ | Comments(0)

シミュレーション

いま、ブールかバスタブに入っているところを想像してみよう。水の感覚や体への浮力を感じられるだろう。イメージの中で手のひらに水をすくってみると水の透明感も分かるだろう。水の表面の波立ちや、水が手のひらからこぼれるときの感覚や水音も思い浮かべることができるかもしれない。

これらのイメージは単なる記憶の呼び起こしではない。記憶を素材に脳がシミュレーションを作り上げているのだ。このシミュレーションが単なる映像イメージの作成だけではないことは、野球のフライをキャッチする時のことを考えればわかる。慣れてくると飛んでくるボールの映像からボールの落下点の予想をかなり正確に行うことができる。スポーツのイメージトレーニングが効果を上げているのも、脳のこのシュミレーション能力のおかげだ。

脳は仕組みは分からないが、そうとう優秀なシミュレーション機械なのだ。

脳のシミュレーション能力を開発するという観点で考えると、紙と鉛筆だけの学習環境がいかに貧困なものであるかが分かる。数学などももっと模型などを利用して、マルチモーダルに概念を理解できるようにすべきなのだ。コンピュータのプログラミングで現実世界をシミュレーションをするために必要とされる数学や、プログラムや、マシンの能力とコストのことを考えると脳のこのような能力を開発することの重要性が分かるだろう。

何億円もするコンピュータに匹敵する能力を持つシミュレーション機械を持っているのだから、これを使わないという手はない。
[PR]
by tnomura9 | 2008-07-21 09:48 | 考えるということ | Comments(0)

あいまいさに耐える

勉強法を考えるときに、無意識のうちに、参考書を一回読めば全て頭の中に整理された形で入るというイメージを持ってしまうのではないだろうか。

しかし、実際は本を一回読んだくらいでは、曖昧模糊としたイメージが残るだけで雰囲気は分かるが細かいところはまったく分からないという状態が普通だろう。これでは、勉強法についてのイメージと程遠いので、勉強法なんて何の役にも立たないという気持ちになる。

それは、一つには思い出せる項目があまりにも少ないという実用的な不満からくるものだろうが、もうひとつは曖昧な知識の不安感に耐えられないという感情的なものもあるのではないだろうか。曖昧さは反射的に先が見通せないことによる不安感を引き起こすのだろう。

曖昧さからくる不安感を逃れるためにとる行動のひとつは、曖昧さを避けるために探索の範囲を狭めて物事をはっきりさせようとする。具体的には本の一部だけに焦点をあてて細かく理解しようとする行動だ。しかし、これだと知識の範囲が広い場合、ほんの一部しか知ることができないため、途中で挫折してしまう。

曖昧さを逃れるもう一つの方法は、「要するにこういうことだ」と知識全体を要約してしまうことだ。このばあいは、知識の大まかなアイディアは掴むことができたように錯覚するが、細かい所の検討をしていないので、実用にならない。

曖昧さを恐れるあまりとる行動は、大まかに上の二つに分けることができるだろう。ただ、どちらの場合も学習の動機を喪失させてしまう危険性がある。

これらとは別に、曖昧さを恐れず曖昧さを受け入れるという方法もある。曖昧なものを曖昧なままにして、思い浮かぶ質問を解決するために調べるという方法だ。体系的でもないし、効率的でもないし、同じ事を何度も繰り返すかもしれないが、とにかく自分の頭の中から湧いてきた疑問をガイドに探索する。本のとおりに体系化するのではなく、自分の頭の中の自己組織化によって体系化していく。

この場合はまず自分で質問を考えるので、探索行動はそれにしたがって自動的に行われる。勉強をするために動機付けを行うのではなく、動機が先になるので意欲の減退が少ない。また、その知識についていつも考えているようにすれば、学習の動機を長時間持続させることができる。動機の喪失の危険を前の二者の場合よりも少なくすることができる。

曖昧さを忌避する本能的な感情にとらわれず、曖昧さの中の豊穣に気づくことが大切だ。
[PR]
by tnomura9 | 2008-07-16 23:12 | 考えるということ | Comments(0)