<   2007年 08月 ( 12 )   > この月の画像一覧

分岐の数を意識する

たいていの学習は、必要な情報を必要な状況で取り出すことができるように、脳をデータベース化するための行動だ。

そのデータベースだが、ほとんどの場合が階層構造をとることが多い。いわゆる、知識の木構造だ。以前読んだ記憶術の本で、教科書の内容を記憶術のパターンに会うように階層構造にしていたらすでに覚えてしまっていたと書いてあった。それだけ木構造というのはデータベースとしては汎用性があるのだろう。

ところが、実際に階層性にノートを記載しても頭に残らないことが多い。また、マインドマップや系統図を書いてもいいが、膨大な量になるので実際的ではない。学習のコツはできるだけ疲れないようにすることで、疲れないようにするためには、できるだけ手と目と頭を使わないようにすることだ。

なぜ階層性のノートが頭に残らないかというと、下位項目の数が増えると連想が混乱してしまうのだ。ある項目のひとつ下の階層が10項目くらいあったとすると、すぐに脳が拒否反応を起こしてスキップしてしまうようなのだ。そこで、くだらない工夫だが、下位項目を覚えるときに、あらかじめその数を意識しておくと混乱が少ないように思う。最初に、この項目の下位の項目の数は3個だというように項目数をはじめに意識するのだ。

たとえば次のCA19-9という癌のマーカーについての解説を覚えてみよう。

CA19-9は,1979年にKoprowskiらにより大腸癌培養株SW1116を免疫抗原として作製したモノクローナル抗体NS19-9によって認識される糖鎖抗原である。抗原の決定部位は,シアリルラクト-N-フコペンタオースIIで,ルイス式血液型のルイスA (Lea)の糖鎖をシアル化したシアリルLea抗原とされる。正常組織中の唾液腺,胆管,気管支腺などに存在する。消化器癌,特に膵・胆のう・胆管癌において高い陽性率を示すことから,これらの癌の診断補助,治療経過及び再発のモニターとして有効である。しかし他の消化器癌,肺癌,乳癌などでも,陽性を示すため,CEA,AFPを組み合わせた検査が広く用いられている。

SRL 検査項目リファレンスより


もちろん、木構造の最初の項目は「CA19-9」だ。ざっと読んでこの項目から派生する項目を考えるとそれは「2つ」ある。第1は「CA19-9の本体」、で第2が「CA19-9の臨床的意義」だ。

それぞれの項目について下位項目を考えると、「CA19-9」の下位項目も2個だ。ひとつは「1979年にKoprowskiらにより大腸癌培養株SW1116を免疫抗原として作製したモノクローナル抗体NS19-9によって認識される糖鎖抗原」でもうひとつが「抗原の決定部位は,シアリルラクト-N-フコペンタオースIIで,ルイス式血液型のルイスA (Lea)の糖鎖をシアル化したシアリルLea抗原」である。

「CA19-9の臨床的意義」については下位項目は3個だ。第1は「正常組織中の存在部位」、第2は「膵・胆のう・胆管癌において高い陽性率」、第3は「他の消化器癌,肺癌,乳癌などでも,陽性」だ。

まとめると、「CA19-9」の下位項目2個、「CA19-9の本体」の下位項目2個、「臨床的意義」の下位項目3個だ。ルートから二本の枝分かれがあり、最初の枝から二本、二番目の枝から三本の枝が出ている木構造をイメージしても良い。すると不思議に内容が思い出せるのだ。

たいていの知識は木構造のデータベースなのだと意識して覚えることで記憶するのがずいぶん楽になるような気がする。知識を木構造として意識的に把握する習慣をつけることが大切だ。
[PR]
by tnomura9 | 2007-08-28 11:50 | 考えるということ | Comments(0)

ア・プリオリ

カントの『純粋理性批判』を読み始めたが、苦戦している。

そもそも、カントがなぜこの本を著したかというと、ヒュームの経験論に触発されて、ライプニッツ=ヴォルフ哲学の基礎に関する疑問を解決するためだった。形而上学の正しい基礎づけをしようと思ったらしい。

ヨーロッパの形而上学のテーマは、神、自由、魂の不滅の証明だ。これらは、人間の意思決定に深く関与しているにもかかわらず、個人の経験からは引き出すことができない。ライプニッツやヴォルフの合理論では、これらの問題を解決するための基礎は人間の精神のなかに存在しており、現実の経験もそれらの根本原理から演繹することができるという考え方だ。デカルトによると「すべてのものを存在していないとして疑っても、考えているという自分が存在していることは疑うことができない。これのみが認識の確実な根拠であり、すべての認識はこの根拠から合理的に演繹しなければならない。」という具合だ。

それに真っ向から反対しているのがロック、ヒュームらの経験論で、人間が知りえることはすべて経験からのもので、原因結果のように根本理念と考えられているようなものも、事物の生起の前後関係から人間の心がそのようなものがあると認識しているだけで、絶対確実な原因結果の連鎖などはどこにもないと主張する。

これに加えてバークリーの素朴観念論がある。彼は、人間が自分の外部にあると知覚しているものはすべて精神の活動に過ぎない、外界というものはなく、それは人間の精神に神が働きかけているだけなのだと主張する。そうであれば神の存在は議論の余地がない、外界のイメージを作り出したのはほかならぬ神なのだから。映画の『マトリックス』ででてくる、マトリックスを作り出したスーパーコンピュータのようなものだ。

なぜ、人間の認識についてこのようないろいろな説が現れてきたかというと、哲学的な思考のおかげで、人間が、実在のもので自分はその中で暮らしていると素朴に考えている世界が、実は人間の感覚を通じて脳の中に(当時は精神の中に)できたイメージを認識しているだけなのだということに気がついたからだ。

ところで、人間の認識のすべてが断片的な経験からしか構成されないとすると、絶対確実な真理などのぞめない。しかし、論理学や数学のように経験からではなく、純粋に思考のみでその真理性が認識されるようなものもあるため、経験論だけでは説明できない。だからといって、内観で得た直感を無反省に根拠として体系を構築しても砂上の楼閣になってしまう。

どうもカントが企てたのは、経験から影響を受けていないア・プリオリな直感のうちで、論理的な体系を打ち立てるための基礎となるようなものはどういうものであるかということを解明したいということだったようだ。経験から独立した確実な直感が存在すれば、それからの演繹としてア・プリオリな認識を証明できる。そうして、それは成功したらしく、カントはこの書物で合理論と経験論の融合に成功したということになっている。

しかし、管理人の科学に汚染された思考では、精神や、理性というのを勝手に脳の神経システムの反応に置き換えてしまうので、うまく論点についていくことができない。また、この本を理解するためには当時(1791年)の哲学の常識に詳しくないといけないのに気がつき、気力が消失してしまったのだ。

にもかかわらず、カントが考察を進めるために武器としている、ア・プリオリとア・ポステリオリや、分析的判断と総合的判断などの対概念には興味をそそられる。

カントの考えでは、人間が認識をするためには外界からの感覚や直感だけでは不十分で、それにア・プリオリな純粋理性がはたらいて認識というものが成立すると考えているようだ。したがって、ア・プリオリな精神活動は経験からその具体的な特性である、色、形、重さなどを取り去ったあとに残る直感として認識することができる。カントはア・プリオリな直感として「空間」と「時間」をあげている。

現代風に言うとア・プリオリな直観とは脳の情報処理機能ではないだろうか。たとえば動きのようなものは大脳のM1野で処理されており、その部分が傷害された人は運動を認識することができない。問題は、数学のようなア・プリオリの認識にどうして普遍性が見られるのかということだが、それは数学そのもの構造としての性質と、それに対する脳の認識のしかたに普遍性があるといえるのではないかと思う。

精神が真理を直観として認識する可能性については、現代的な検討が必要だが、感覚の影響をまったく受けない直観が人間の脳の働きに存在し、その性質を分析できるのではないかという洞察はいまだに重要性を失っていないテーマなのではないかと思う。たとえば、ア・プリオリな直感の様式が人によって違っていたら、同じものを見ても認識がちがうのではないかということだ。

哲学の道具は論理と内省のみだ。同じ事情の数学の場合、その道具だけで普遍的な体系を作ることができるように見えるが、哲学の対象である認識については内省のみでは不足で、生理学的な実験が必要となってくるのではないだろうか。そうはいっても、ソシュールの記号学のように全くの思索だけで、新しい視点を見せてくれる場合もある。哲学のもっとも重要な意義は、その成果としての体系よりも思索するときの方法の工夫にあるような気がする。
[PR]
by tnomura9 | 2007-08-26 12:01 | 考えるということ | Comments(1)

理解するということ

本を読んでいまひとつ理解できた気がしないときがある。なんとなく分かった気がするのだが、本当に理解しているかどうか心もとない場合だ。しかし、どう自分の理解度をテストしたらよいかわからないので、なんとなくそのままにしていることが多い。そういう時は次の3点をチェックしてみると良い。

  1. 入出力
  2. 論理構造
  3. 具体例

最初の入出力はブロックダイアグラムからの発想だ。入力とは、その文章が何を対象に論じられているのかとか、その文章の問題提起は何かというような論述の前提となるものをさす。出力とは、その議論の結果どういうことが分かったのかとか、議論の結論は何かというような、論述の結果としてでてくるような事柄だ。

つまり、ある事柄をもとに、論述によって、ある結論が出たとすると、ちょうど関数に変数の値を入力すると関数の値が出るような入出力関係があるとみなすことができる。文章を序論、本論、結論に構成するのも同じことがいえる。

このように、問題の由来と、結論に注目することで、何について、どのような目的で、議論が行われたのかがわかるのだ。

2番目の論理構造については、説明するまでもないが、文章がどのような論理で問題提起から結論へと話を運んでいるのか、また、その論理構造は適切なものかについて吟味する。文章を適切な大きさの文の塊に分けて、その論理構造を調べるのだ。

論理の運びが理解できないとき、論理が適切でないのか、論理の流れを自分がうまくつかんでいないのかのどちらだろうが、どちらの場合も理解できないという感じがどの場所で起きているかが分かる。

最後の具体例だが、抽象的な概念は具体的なイメージを作ることができないので、抽象的な思考の結果を反映しているような具体例をあげないとはっきりと理解したといえない場合がある。

たとえば、人間は皆死ぬ。ソクラテスは人間だ。ソクラテスは死ぬ。という三段論法は、大前提、小前提、結論という抽象的な概念を具体例によって説明しているのだ。大前提、小前提から結論が導かれるという三段論法の図式をそのままで抽象的に理解するのは難しいが、ソクラテスや人間や死という具体的イメージからの類推で、抽象的な三段論法の性質を理解することができる。

極論かもしれないが、適切な具体例を挙げることのできないような抽象的な概念が機能することはありえないのではないだろうか。

たとえばつぎのような文章について考えてみよう。

ところで、同時に内的必然性という性格をもつそうした普遍的認識は、経験に依存せずに、それ自身だけで明瞭で確実でなければならない。だから、そうした認識はア・プリオリな認識と名づけられる。それというのも、これに反して、もっぱら経験から借り受けているものは、一般に言いあらわされているとおり、ア・ポステリオリにのみ、あるいは経験的にのみ認識されるからである。

この文章で入力は何かというと、「認識」である。この文章は「認識」について分析しているのだ。それでは出力は何かというと、「ア・プリオリな認識」と「ア・ポステリオリな認識」の二つがあるということだ。つまり人間の認識について考えたときこのふたつに分類できるということなのだ。「ア・プリオリ」な認識はまったく経験を必要とせず、経験の影響なしに認識できる普遍的な認識だ。一方「ア・ポステリオリ」な認識は経験の影響下に生じる認識のことだ。

それでは論理構造はどうかというと。「ア・プリオリ」な認識は経験の影響を受けず、それ自身で明瞭でなければならない。なぜなら、経験の影響を受けたものは内的必然性があるということができないからだ。」ということになる。言い換えると、すこしでも経験の影響を受けるものは「ア・プリオリ」と呼ぶことはできないという理屈だ。文章の論理分析によって「ア・プリオリ」と「ア・ポステリオリ」が排他的な分類であることが分かる。

この場合の実例はなんだろうか。カントは「ア・プリオリ」な認識の実例として「数学」をあげている。数学の体系は経験を必要とせず公理と論理だけを使って認識される。一方、「ア・ポステリオリ」な認識の例は事欠かない。「犬は4本足だ」というような普通の認識は皆「ア・ポステリオリ」なのだ。したがって、カントが問題としていたのは、経験をまったく必要としない「ア・プリオリ」な認識、すなわち純粋理性についてなのだ。純粋理性の例として「数学」を上げてもらえなかったら、「ア・プリオリ」という言葉で何を示されているのか全く理解できないだろう。カントに数学という実例を挙げてもらったことで、経験に全くよらない認識という表現で彼が何を言いたかったのかを推測することができる。

このように、わかりにくい文章は、入出力、論理構造、実例の3点について分析すると理解が容易になる(かもしれない)。
[PR]
by tnomura9 | 2007-08-20 19:26 | 考えるということ | Comments(0)

クラスターとブロック

知識というのは、結局のところ、多くの要素が有機的につながりあって構成されたひとかたまりの構造物のことだ。

一般的に知識を構成する要素の数は非常に多いので、その全貌を一目で把握するのは不可能だ。普通は、全体のシステムを部分システムに分割して利用したり認識したりしている。そのさい、知識全体を部分システムに分割するときに認識する方法として、部分システムを外側からブロックとしてみる方法と、部分システムの内側をクラスターとして把握する二つの方向性がある。

たとえば、知識のシステムをテレビにたとえると。テレビという機械を放送を受信するための機械というふうに一口に要約して考えるのがブロックの考え方だ。また、テレビを詳細に観察して、電波を受信する部分、テレビを操作する部分、画像や音声を映し出す部分からなっているというふうに見るのが、テレビをクラスターとしてとらえる考え方だ。

別のたとえでいうと、電子機器というひとまとまりのシステムを箱の外から眺めるのがブロックとして眺める考え方で、箱を開けて中身を見るのがクラスターとして見る考え方だ。ブロックとクラスターと見え方はずいぶん違っているが、ブロックの考え方は、機器の中身を見ずにその機能に考えを集中するやりかたで、クラスターのほうは多数の要素が目前にさらされるがそれらはつながりあってひとつの塊を作っており、一つのまとまりとしてはブロックと同じものを見ているのだ。

部分システムをブロックとしてとらえる方法は、システムの設計などで使われるブロックダイアグラムが代表的だ。システム全体をブロックごとにわけ、その関連を見る方法だ。全体の高度に複雑なシステムを部分システムごとにブロックとしてその内部を隠蔽して表現すると、全システムの構成を鳥瞰することができる。

このブロックダイアグラムの個々のブロックを見るときに注目しなければいけないのは、そのブロックの機能だ、内部が隠蔽してあるブロックの機能はどういうふうに把握したらよいのだろうか。それは、そのブロックの入力と出力の関係を見るということだ。数学やプログラムの関数を思い出せばよい。部分システムの内部の複雑さはおいておいて、その入出力の性質だけに注目するのだ。そうすることによって、ブロックであらわされた部分システムが何をしているのかがよくわかる。

一方クラスターのほうは、一歩踏み込んでこのブロックの内部がどういう要素でできていて、どう関連しあっているのかに注目する。ラジオの箱を開けて中身をのぞくようなものだ。趣味で作る電子おもちゃの配線図や、マインドマップを思い出すとよい。

部分システムをクラスターとして捉える場合に注意しないとといけないのは、どの要素や経路がが中心的なもので、どれが補助的なものかを洞察するということだ。クラスターをただの乱雑な構造と見るのではなく、幹と枝を見分けるということだ。マインドマップなら、中央に書いてある項目が中心的なもので、そこから太い枝がでて、さらに分枝した細い枝になるというふうに幹と枝の関係が一目瞭然にわかる。

クラスターのなかで幹となる部分は、その部分システムの根幹をなすもので、そのシステムの動作の大本を支配している。クラスターを理解するときに幹の部分の動作の理解は必須だ。また幹の部分を熟慮することで、クラスターで現された部分システムの本質を知ることができる。一方枝の部分は動作の細かい調整をしているが、必要に応じて省略して考えることのできる部分だ。また、枝の部分の意味は幹との関連において明瞭となる。

このクラスターとブロックという道具を用いて損益決算書の読み方を考えてみよう。仮に次のような損益決算書があるとする。各科目の具体的な数字は省略した。

損益決算書

経常損益の部
Ⅰ 営業損益の部
  1 営業収益
  2 営業費用
  営業利益
Ⅱ 営業外損益の部
  1 営業外収益
  1 営業外費用
  経常利益

特別損益の部
  1 特別利益
  1 特別損失
税引前当期利益
法人税および住民税
当期利益
前期繰越利益
当期未処分利益

これを見ただけでは何のことかさっぱりわからないが、これをブロックという観点から見て細かい科目については無視すると、損益決算書は帳簿のデータを入力として、利益とその内訳を出力する作業であるということができる。つまり、なぜ損益決算書をつくるのかという大まかな意味をつかむことができる。

また、クラスターとしてみると、

  1. 営業収益 - 営業費用 = 営業利益
  2. 営業利益 + 営業外損益 = 経常利益
  3. 経常利益 + 特別損益 = 税引前当期利益
  4. 税引前当期利益 - 法人税及び住民税 = 当期利益

という図式が描ける。クラスターとしてみるときは、マインドマップなどの図式を使ったほうがいいのだがここでは数式で代用した。営業利益は製品を販売することによって得られる利益だ。営業外利益は支払利息や持ち株の配当金など製品の販売とは関係ないが定期的に出て行ったり入ったりする損益金だ。特別損益は固定資産の売却などによって一時的に発生する損益だ。最終的には税金を引かれて純粋な当期利益が計算される。

したがって、営業利益、経常利益、特別損益をみれば本業が順調かどうか、資産運用からの収益が上がっているか。固定資産の処分などによって見かけ上の最終的な利益を確保しようとしているかどうかなど、会社の経営状態を診断することができる。

このように、同じひとつのシステムあるいは部分システムを、ブロックとしてみたりクラスターとしてみたりすることでそのシステムの意味や機能がよくわかるようになる。
[PR]
by tnomura9 | 2007-08-18 06:24 | 考えるということ | Comments(0)

メタ思考

メタ思考とは思考について考える思考だ。

メタ思考という用語があるわけではないが、メタという言葉が言語や理論の意味を考える理論というふうに使われるのでそれを借用した。

要するに何かの問題を考えるのが思考で、その思考について、どんな風な種類や働きの思考が行われているのかを考えるのがメタ思考だ。たとえば、文章を普通に読んで理解するのが読書だとしたら、その文章が序論、本論、結論という構成で作られているかどうかを考え、それが文章の理解にどう影響しているのかと考えるのがメタ読書なのだ。

思考力を向上させたいと考える場合は、その思考がどのようなものか、その思考法にはどのような意味や使用法があるのかなどと、メタ思考的な発想が欠かせない。問題について思考し解答を得ることができればそれで十分だが、なぜ解答が得られたのか、どういう思考方法が有効だったのかなどと、解答にいたるまでの思考の性質について考えることで、その問題だけでなく広い範囲の問題を解くための方法論を得ることができる。
[PR]
by tnomura9 | 2007-08-17 01:39 | 考えるということ | Comments(0)

発見的方法とアルゴリズム

パズルを解くのは時間がかかるが、解き方をはじめから覚えてしまうと簡単にできてしまう。パズルを解くときに使う方法が発見的方法で、パズルの解き方を覚えてしまうのがアルゴリズムだ。

問題解決に発見的方法を使うと、時間がかかるし、必ず解答が得られるかどうかは分からない。しかし、この方法に習熟すると、別の問題に取り組むときの応用力がつく。開発や研究など問題解決の方法が見つかっていない分野の仕事に携わっている場合は、必須の技術だ。

発見的方法とは、たとえば、問題の本質が何であるかを見抜くこと、規則性を発見すること、問題に隠れるパターンを見つけること、操作を行うことによって問題を変化させることができるかどうかを見つけ出すこと、問題に内包されるすべての可能性や選択肢を見つけることができること、そのうちで有力な選択肢や不可能な選択肢をすばやく見つけることができること、などである。それぞれの技術が抽象的なので、言語化が難しく暗黙知に属することが多い。

発見的な方法の利点は、今までに解決不能あるいは、解決方法の検索が困難な問題に対しても解決法を見つけることができることだ。欠点は非常に時間を浪費することと、解決法が必ずしも得られないことだ。

アルゴリズムは、解決済みの問題の方法を整理して、類似の問題にも応用できるようにしたものだ。数学の公式のようなものや、コンピュータプログラムのようなものがアルゴリズムの応用例の代表だ。アルゴリズムを利用するにあたって、その詳細を知らなくても問題解決ができる。なぜこの問題に対してこのような手続きやプログラムを利用すれば解決できるのかをまったく知らなくても答えを出すことができるのだ。逆に、アルゴリズムがなぜそうなっているのかの意味に疑問を持つとその答えを検索するのが大変で、かつ、解説があっても理解するのが難しいことが多い。

アルゴリズムの利点は問題を迅速に解決できること。欠点は定型的な問題しか解決できないことだ。

自分の思考力の開発のためには、発見的方法に習熟することが有用だが、差し迫った問題を解決するためには、利用できるアルゴリズムをたくさん知っていると便利だ。能力開発と時間のトレードオフが問題となってくる。自分の抱えている問題について、発見的方法を使用すべきなのか、アルゴリズムを使用すべきなのかを意識して選択することが大切だ。
[PR]
by tnomura9 | 2007-08-16 06:13 | 考えるということ | Comments(0)

暗黙知と形式知

知識は言語化できる形式知と言語化不能な暗黙知に分けられる。

暗黙知とはハンガリーの哲学者マイケル・ポランニー(Michael Polanyi)によって1966年に提示された概念だ。経験や勘に基づく知識のことで、言葉などで表現が難しいもののことをいう。たとえば、自転車の乗り方や水泳の仕方は体験的に学習するもので、言語化することが難しい。

マニュアルのように言語化できる形式知は、文書として保存したり広範囲に伝達することが容易だ。しかし、暗黙知は本質的に個人的な経験なので、その伝達は徒弟制度のように個人から個人へしか伝えることができない。したがって、徒弟制度や従来型の終身雇用の日本型組織の場合は、人の流動性が少なく、暗黙知の伝承も保存されやすかったが、現代の会社組織のように人員が合理化され、また、流動的になってくると暗黙知が失われてくる。最近起きる大工場での事故は、この暗黙知が失われつつあるためでもあるといわれている。

近年、医師の力量についてさまざまに取りざたされているが、医師の駆使する知識は、文書からのものよりもその経験によるものが多いのでその質を確保することが難しいのだ。よい医師になるためには、よい指導医につき、数多くの症例を経験するのが必須の条件になる。新臨床研修医制度になって、大学や地方から医師が消えてしまったのは、現場の医師や研修医がそのことを切実に感じているからに他ならない。僻地に医師が赴任したがらないのは、指導医と症例という、患者の治療という責務を果たすための自分の技術を向上させるのに必須な要件が奪われるのが主な理由なのだ。その実情を理解せず、真に有効な教育のシステムを整備せずに、法的な拘束や収入で医師を確保しようとしてもそれは不可能な話なのだ。

教育システムの話はさておき、暗黙知はまったく言語化できないかというとそうでもない。水泳を習得するのに実際に練習するのは当然だが、よりよい泳ぎ方については本から学ぶことができる。接客のノウハウのようなものも、マニュアルとして文書化することができるのだ。

逆に、形式知であっても、それを読めば解決というわけではない。文書の知識が個人の血となり肉となって初めてそれは知識としての力を持ってくる。形式知が知識としての価値を発揮するのはそれが暗黙知に変化してからのことなのだ。

また、暗黙知を文書化しようとするとそれは膨大なものになって、よむのも一苦労となる場合が多い。それは、分厚い携帯電話のマニュアルを見れば分かるだろう。その分量の多さから知識の伝達が不可能になる場合も多いのだ。

ところが、このように文書化不可能な暗黙知もマルチメディアを使うと伝達可能な場合がある。英会話の発音の技術などはCDのおかげでずいぶん楽になってきている。英語を自国語として話す人との対話に勝るものではないが、教科書からしか学習することができなかった以前と比べると雲泥の差を感じる。

さらに、コンピュータの操作なども、実は形式知として学習するべきものではなくて、暗黙知として学習すべきものなのではないだろうか。分厚いマニュアルより、一本のビデオ画像を見たほうがずっと早く楽に学習することができる。

こうしてみると、知識の習得ということについて実際は暗黙知のほうが形式知より重要度が高いことが分かる。したがって、マルチメディアを利用した暗黙知を伝えるための良い教材は教育の効率と普及について非常に大きな力を持つ可能性があることがわかる。

しかしながら、実際にDVDの教材を使っていても、もうひとつ便利と感じない。その理由は二つある。ひとつは学習にあてる時間を学習者がコントロールできないことと、もうひとつは迅速なレビューや検索が不可能であるということだ。書籍ならいつでも、どんな場所でも、またどんな短い時間でも、学習者が自由に開くことができる。しかし、DVDの場合はプレーヤーのある場所で、まとまった時間を取らないと見ることができない。また、書籍なら一回通読すれば、あとで必要な情報を検索するのに時間は要らない。しかし、DVDの場合は必要な箇所だけを再現するのが比較的面倒なのだ。

明らかにマルチメディアを使った暗黙知の伝達は発展途上だ。しかし、さきほどの、医学の例で言えば、症例検討会のDVD化などが、書籍では不可能な暗黙知の伝達の状況を変える重要な鍵となる可能性がある。さらに、水泳のようにほとんど言語化が不可能な技術についても、ビデオを見ながらイメージトレーニングすることによって技術が向上するという例もでてきているのだ。暗黙知の効率的な伝承のためにマルチメディアの教材のさらなる発達が望まれる。
[PR]
by tnomura9 | 2007-08-14 13:01 | 考えるということ | Comments(0)

発見的方法と論理

一般的には、答えの分かっている問題についてきちんと整理して説明するときに使用するのが論理で、答えの分からない問題の答えを発見するときに使うのが発見的方法であると言われている。実際ブレーンストーミングなどの発想法にはあまり論理の出番はないように見える。

しかし、実際には答えを見つけるためには発見的方法と論理が巧みに組み合わされているのだ。

問題解決とは起こりえる(考えられるものも気づかなかったものも含めて)可能性の中からもっとも適切な可能性を選択するということだ。また、その選択肢は将棋の差し手の場合を見ると分かるが、ひとつの選択肢を選んだときそれに対して複数の可能性が生じてくるというような木構造をしている場合が多い。このような木構造をしている選択肢は、各ノードの部分での選択肢が有限でも、木構造のレベルが深くなるほど全体の選択肢が爆発的に増加するという特徴がある。

発見的方法とは、この事実上無限の選択肢の中から解を導きそうな選択肢を特定する方法だ。すべての選択肢を検討したわけではないので、それが最適解であるという保証はないが、有力な解を導くような方法で選択を実行する。ところが、この段階で論理が活躍してくるのだ。

一般に発見的方法で選択肢を選ぶにしても、複数の候補があるのが普通だ。それでは、複数の選択肢の候補のうちどれを選択したらよいのだろうか。実際には、その選択肢を選んだとき発生する可能性のある選択肢をできるだけ網羅的に調べて、予測できる結果のうち最善となる結果をもたらすような選択を、候補の選択の中から選ぶだろう。抽象的に言うと分かりにくいが、要するに将棋の手を読むときの頭の使い方だ。どの駒を動かすかは定跡や手筋の中から選び、実際にどの手を取るかは、何手か先を論理的に読んで決める。つまり、選択肢の候補を選ぶときは発見的方法で、その選択肢が有用であるかどうかは論理で推測するのだ。

すなわち、発見的方法による候補の選択、各候補を選択したときの結果の論理による推測という2段階で問題解決の思考は行われている。こう考えると、いろいろな分野の問題解決の思考方法が本質的には将棋を指す時の思考方法と同じであることが分かる。

問題の解決法を探るときに、この発見的方法と論理の二段構えというスキーマを意識して考えると、解決法の探索をより明示的に行うことができるのではないだろうか。

たとえばブレインストーミングで出されたアイディアについて、それを採用した際に起こりえる現象を可能な限り書き出すという方法もある。ブレインストーミングではアイディアの批判が禁止されているがアイディアを出すだけでは散漫な会議になってしまう。むしろ出されたアイディアから起こりえる結果を、支持的なものも否定的なものも等しくできるだけ広範に、論理的に推測するという作業を追加したほうがよいのではないだろうか。この際に、起こりえる可能性をできるだけ網羅的に、公平に書き出すというのが大切だ。

以前にも書いたが論理的という意味は、すべての可能な選択肢について考えつくすということなのだ。三段論法や論理学の法則はそのための道具に過ぎない。論理的な考察が確実性を主張できるのは、それがすべての起こりえる可能性について検討しつくしているからなのだ。ひとつのアイディアからの帰結について論理的に考察したといいえるためには、その考察がすべての場合をつくしていなければならない。

ソニーの初代ウォークマンはヘッドホンの端子が二つ付いていたそうだ。恋人が同じ曲を二人で聞けるようにとの配慮だった。しかし、ヘッドホンをつけていては二人で会話ができないため、音楽の音を一時止めて、本体についているマイクロフォンでお互いが話すことができるようにするボタンがついていた。話すときはヘッドホンをはずせばよいという可能性が考えられていなかったためだ。第二世代のウォークマンからはヘッドホンの端子は一個になった。

論理的な考察とはすべての場合を検討しつくした考察だという点に注意してアイディアの評価を行えば、思いもかけない解決法が出てくる確率が上がる気がする。
[PR]
by tnomura9 | 2007-08-09 00:37 | 考えるということ | Comments(0)

発見的方法

考えるということの技術について知りたくなるのは次の二つの場合だろう。

ひとつは、どうしたら参考書に書いてある知らない知識をすばやく理解することができるだろうかということ。もうひとつは、与えられた問題をどうやったらうまく解くことができるだろうかということだ。

きょうはこのうちの問題解決の方法について考えてみた。実は、問題解決の方法についても二つに分けることができる。ひとつはとりえる可能性をしらみつぶしにすべて調べる方法。もうひとつは、すべての可能性を調べるには選択肢が膨大すぎて不可能な場合、最適であるという保証はできないが、できるだけ有効な解決法をみつける発見的方法(ヒューリスティクス)だ。

ひとくちに問題解決というが、結局は考えうる解決法のなかで、もっとも有用なものを選び出すことに他ならない。この場合、選択肢があまりなければしらみつぶしに調べることができる。たとえば次のような問題を考えてみよう。

12枚の硬貨のうち1枚は贋金である。ただし、贋金が本物より重いか軽いかは分かっていない。これを天秤を3回だけ使って、贋金を見つけ出すにはどうすればよいか。


答えはつぎのようになる。

まず、12枚の硬貨を4つずつA, B, Cの3グループに分ける。

まずAグループの4枚とBグループの4枚をはかりにかける。これがつりあっていればA, Bグループの硬貨は本物である。したがってそのうちの二枚をとり、Cグループの2枚と比べる。これがつりあっていれば贋金は残りの2枚のうちのひとつだから、はかりの一枚をとり残りの2枚のうちのひとつと比べる。これがつりあっていればはかりに載せなかった一枚が贋金であり、つりあわなければ重くても軽くてもそれが贋金だ。

もしAグループの4枚と、Bグループの4枚がつりあわなかった場合、Cグループの硬貨は本物だ。そこでAグループの3枚をはかりから下ろし、Bグループの3枚をAグループの皿に移し、Bグループの皿にはCグループの本物の硬貨3枚を乗せる。ここでつりあった場合天秤の上の8枚はみな本物だから偽者は秤から下ろした3枚のひとつに含まれている。また、そのときの天秤の動きから贋金が本物より重いか軽いかが分かる。そこでその3枚のうち2枚をとってつりあえば残りの一枚が贋金だし、つりあわなくても贋金を同定することができる。

天秤がつりあわないで傾きも変わらなかった場合はA、Bの皿に動かさずに残しておいた硬貨のひとつが贋金だ。贋金が重いか軽いかは分からないが、そのうちのひとつを本物と分かっている硬貨と比べればやはり贋金を見つけることができる。

上の操作で天秤の傾きが変わった場合、Bの皿からAの皿へ移したほうに贋金があることが分かる。この場合もBの皿の硬貨はすべて本物だから、贋金が重いか軽いかが分かるので、移動した三枚のうちの二枚を比較することで贋金を同定できる。

手順がどんなに複雑でも起こりえる選択肢をしらみつぶしに調べることによって解答を見つけることができる問題は機械的に解くことができる。多くの論理パズルが起こりえる可能性の表を作成することで解くことができるのはそのためだ。

しかし、将棋や巡回セールスマン問題のように、選択肢が爆発的に増加するため、すべての可能性をしらみつぶしに調べることは不可能な場合がある。その場合は最適解を機械的に求めることは不可能なので、もっとも有効と思われる解を見つける発見的方法(ヒューリスティクス)に頼るほかはない。ヒューリスティクスというとコンピュータで解を求めるための特殊な方法と思われがちだが、一般的な問題の解決法はすべてこのヒューリスティクス的な方法で解いているのだ。

将棋の定跡や手数の多い詰め将棋はこのヒューリスティックな方法なのだ。盤面が有利かどうかを定跡や手筋などのパターンとの適合度による評価関数を用いて、次の一手を見つけ出すのだ。一般の問題についての経験の効用も評価関数の一種だ。コンピュータでは評価関数は変数の値で計算するが、人間の思考の場合は、パターンとの一致度によって評価するように思われる。

天才的なひらめきも、その本質は、パターンを評価関数とするヒューリスティックな方法で選択肢の選別をしているだけだと考えると、雲をつかむような発見的方法も意外に機械的なもので、方法論に落とし込めるのではないかという気がする。
[PR]
by tnomura9 | 2007-08-07 19:31 | 考えるということ | Comments(0)

「箱入り娘」が解けた

「箱入り娘」のパズルが解けた。

パズルのピースの余白は、正方形の小僧二個分の長方形になる。したがって、ピースを移動する操作は、小僧を2個動かすか、長方形の「父親」、「母親」、「番頭」、「下男」、「下女」のひとつを動かすか、娘を上下左右に小僧一個分の幅で動かすかということになる。小僧はほとんど2個がペアになって移動することが多いので、小僧を動かすときは2個一度に動かすことを意味している。ただし、小僧の場合は例外的に一個単独で動かすときがある。

実際の解答は次のようになる。


  1. 小僧を中央に集め、下男と下女を下へおろす。
  2. 番頭を右端へ移動し、空いたスペースを利用して小僧と下男の位置を交代させる。
  3. 番頭を今度は左端へ移動し、下男と下女の間の小僧を上に上げて下男を下女の横へ並べる。
  4. 左端に縦に並んでいた下の小僧を下へ横に並べ、番頭も下へずらす。番頭の右に並んでいた小僧も左へ移動させ、番頭の上に横に並べる。
  5. 下男と下女を上に上げ、空いたスペースに最下段に並んでいた小僧を右に移動、番頭も最下段に移す。
  6. 番頭の上に横に並んでいた小僧を、縦ならびに変え右にずらして、父親が降りるスペースを作る。
  7. 空いたスペースに父親を下ろし、娘を左端へ移動させる。娘の右横に下男を上げる。
  8. 空いたスペースに下左端の小僧を移動させ、番頭を左端に寄せ、父親と小僧の位置を入れ替える。
  9. 番頭を右端に戻し、下女の左の小僧を下に下げて番頭の右に横に並べる。
  10. 父親を下女の左横に並べ、左端の小僧を娘の下に横に並べ、番頭を上に移動し、番頭の下に、下右端の小僧を移動させる。
  11. 父親と下女を下に下げ、上の小僧をその上に滑り込ませる。番頭を上に上げて娘の下に並ばせ、下の小僧は左端に縦につめて、その横に父親をずらす。
  12. 小僧と下男を一緒に下に下げ、母親を娘の右側に移動させる。
  13. 小僧と下女を上に移動し、下男の下にあった小僧を下女の下に移動させる。
  14. 下男と母親を下に下げ、下女の上の小僧を母親の上に移動する。
  15. 下女と小僧を上に上げ、下男を右へ移動させる。
  16. 母親を下に下ろし、下女の下の小僧を娘の右横へ移す。
  17. 下女を下に下ろし、娘の右横の小僧を右上に横に並べる。
  18. 母親を上に上げ、その下に父親を移動させる。すると、盤の右半分は二個の小僧を頂上に、母親、下女、父親、下男が二列に整列した形になる。この形が、解答の鍵となる配列だった。
  19. 左端の縦の小僧を、下に横並びにし、番頭、娘、小僧、母親と下女、父親と下男、下の小僧、番頭、娘の順に円を描くように空いたスペースに移動させる。
  20. 左上に横並びの小僧を左端に縦に並べ、母親、父親、娘、小僧の順で円を描くように移動する。
  21. 左上に縦のスペースができるので、母親、父親、下女、下男の順につめていくと、番の上半分に縦長の四つのピースが整列する。
  22. 娘を右に移動させ、左端に縦に並んでいる小僧を母親と下女の下に移動して横に並べる。あとは、番頭、小僧、娘、小僧、番頭と順に移動させているうちに娘が脱出可能な形になる。


すばらしく長い手続きで、一箇所でも間違うと娘が動けなくなるので、なかなか解けないのだ。しかし、こういう問題を解くときのコツのようなものが分かった。

ひとつは、定型的な駒の移動のパターンを発見することだ。駒と駒を交換する手続きが分かれば、自分の思うピースを思っている場所に移動することができる。たとえば小僧二つと縦長の駒が並んでおり、その上または下にスペースがある場合、小僧二つと縦長の駒の位置を入れ換えることができる。

もうひとつは、問題解決のための鍵となるピースの配列を発見することだ。ピースがどのような配列になったときに問題が解決するかが分かれば、あとは、置換を利用してそのバターンをどのように形作るかという問題になってくる。箱入り娘の場合は、縦長の四本のピースを右半分に集めるパターンが問題解決の鍵となるものだった。

この考え方は、詰め将棋にも当てはまるような気がする。詰み上がりの形のイメージができれば、あとはどうやってその形に持っていくかということになるからだ。

「状況を変化させるときに定型的にあらわれるパターンを知ること」と、「解決の鍵となるパターンを発見すること」という二つのポイントは、パズルにかかわらず、ほかの思考にも応用できる考え方ではないだろうか。
[PR]
by tnomura9 | 2007-08-05 23:24 | 考えるということ | Comments(0)