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階層をそろえる。

普通にノートをとるときに、主題、見出し、内容と階層のレベルが深くなるにしたがって、インデントしていくというのは良くやっているが、同じ階層の記述は縦並びにそろえてしまうと見やすいのに気がついた。つまり、普通の書き方では、

主題
 見出し1
  内容
 見出し2
  内容

という風にインデントでずらしていくが、インデントを大きくとって、前の階層の記述に重ならないようにするのだ。つまり、次のようにする。

主題 

 見出し1  内容1-1
        内容1-2

 見出し2  内容2-1
        内容2-2

さらに、内容の項は行頭を括弧でくくってひとまとめにしておく。階層のレベルは3層までとし、それ以上に深くなる場合は表現法を特に規定しない。なんだというような方法だが、これが、結構頭に入りやすいのだ。

ノートのとり方などはいろいろな人が工夫しているだろうからほかの人の方法を盗んだほうがいいのではないかとネット検索してみたら、やっぱりあった。コーネル大学方式のノートのとり方というのがそれだ。

簡単に言うと、ページを左端の細長い余白Aとノート本体のBに2分割するのだ。ノートはBの部分にとり、Aの部分にはキーワードや、ノートを取る過程で思いついたアイディアを書く。あるいはその内容を想起させるような質問を書き込んでもいい。問題集を自作するようなものだ。ノートを読み返すときはBの本文を隠して、Aのキーワードからどれだけ内容を思い出せるかどうかテストすることができる。

A4のノートを見開きで使い、左のページにマインドマップ、右のページにコーネル方式、ノートのとり方は3階層縦列方式。ノートのとり方はこれで決まりだ。管理人が若いころにこれに気がついていれば.....。

ヌーベルプログ コーネル大学推奨ノートの紹介記事がある。
NOTE TAKING: THE CORNELL SYSTEM
Study Skills Library
The Cornell Note-Taking System
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by tnomura9 | 2005-11-30 07:57 | 考えるということ | Comments(0)

郵便配達夫は二度ベルを鳴らす。

sleep(30);2.times{print "\a"}

30秒待って、2度ベルを鳴らす。



Rubyは日本で開発されただけあって、日本語との相性が良いようだ。
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by tnomura9 | 2005-11-29 23:07 | Ruby | Comments(0)

タイマー

パソコンをしながら、カップヌードルが食べたいとき、タイマーがあると便利だ。

そんなときは、コマンドプロンプトを起動したあと、irbを起動し、
sleep(180);print "\a"

と入力する。後は、ブラウザでネットサーフィン(死語)していると、3分たったらベルがなって、カップヌードルが出来上がったことを知らせてくれる。

このプログラムが、比較的分かりやすいのは、
「3分たったら、ベルを鳴らす」

という自然言語そのままにプログラムすることができるからだ。「3分たったら」という雲をつかむような内容をそのまま、プログラム言語のsleepで表現できることがみそだ。このような、なんとなく言葉で表現できる抽象的な内容を実行できるプログラム言語があれば、プログラムが非常に楽になるだろう。

なんとなくそうなんだという人間の思考の抽象性が、即物的な手順を記述するプログラムとはっきりと分かれる点である。
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by tnomura9 | 2005-11-28 22:31 | Ruby | Comments(0)

ストップウォッチ

# stopwatch.rb

start = Time.now
print "press Enter key"
gets
stop = Time.now
puts (stop - start).to_i

上のプログラムは簡単なストップウォッチのプログラムだが、文章で表現すると次のようになる。

最初に始めの時刻を記録する。次に「Enterキーを押してください」と表示する。それから、キーが押されるのを待つ。キーが押されたら終わりの時刻を記録し、終わりの時刻から始めの時刻を引いたものを秒数で表示する。

説明が分かりにくいので次のようにしてみる。

始めの時刻とキーが押されたときの時刻の差を、秒数で表示する。

プログラムは必要以上に説明が詳細になるので分かりにくいのだ。普段、考えたり、文章にしたりするときはかなりの部分を省略しているためだ。省略部分は脳の中に入っている。自然言語によるプログラムや思考の補助手段としてのプログラム言語は、この省略部分をどう処理するかが要になるだろう。

ブログを書き始めて気づいたのだが、文章に書いていると、自分でも気づかなかったアイディアが涌いてくる。これが、ほかの人との対話ではもっと顕著にみられる。楽に考えるためのプログラムは人間と対話してくれるプログラムではないだろうか。じっさい、見かけ上のカウンセリングをするプログラムがあるそうだが、ときどき、それにのめりこんでしまう人があるらしい。このカウンセラープログラムが、クライアントのキー入力を記録しておいて後で文章化してくれれば、クライアントが抱えている問題を把握する助けになるかもしれない。

今、管理人が本当に欲しいのは、プログラムを作るためのプログラム言語ではなくて、自分の思考や学習を補助してくれるプログラム言語だ。
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by tnomura9 | 2005-11-27 20:42 | Ruby | Comments(0)

バカの壁

最近、専門家の講義のDVDを見ている。たまたま、同じ分野に関しての三人の専門家の講義を聴くこととなったのだが、三人が三人ともまったく方式が違うのだ。三人が共通しているとところが真に有効な方法であると考えることもできるが。それとは別に、個人の思考力の限界というのはこういう風に現れるのかと思った。

三人ともすばらしい知識と経験を持った人たちで、どの人の意見もなるほどとうなづかせるものがあるのだが、三人を並べてみると、全く異なるのだ。どんなに、すばらしい人たちでも、一個の人間の頭脳という限界を超えることはできない。どんなに優秀な頭脳も個人の頭脳という限界を持っているのだ。

ましてや、お世辞にも優秀といえない、管理人の頭脳は限界だらけのはずだ。にも関わらず、普段いろいろなことに対して間違った判断などあまりしないような気になっている。また、周りを見回しても、「あれは、こうなのだ」と、断定的な言い方をする人が多いような気がする。自分が知らないということに対しての用心深さの欠如がある。それは、うっかりしているというより、本質的な認識の仕組によるもののようだ。「バカの壁」という本が一時ベストセラーになったが、そういうことを言っていたのだろうか。
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by tnomura9 | 2005-11-27 12:36 | 考えるということ | Comments(0)

キリスト教の本質

キリスト教の本質とは、

「神はお前のことが、かわいくて、かわいくて、たまらないのだ。」

というメッセージを伝えることだ。どの位かわいいと思っているのかというと、身代わりに十字架にかかって死んでしまうくらいかわいいと思っているのだ。

「そんなに、かわいいのなら、もっとましな人生をくれ。」

とか、

「こんなひどい目にあわせて、かわいいも何も無いものだ。」

とか、思うかもしれないし、実際そうだと思うが、しかし、そんなにかわいいと思ってくれているのかと思うと、まんざらでもない。

莫大な財産をもらうのと、自分のことを本当にかわいがってもらうのとどちらを選ぶかと言われると、ちょっと困るが、どっちかというと、後のほうがいいかな。
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by tnomura9 | 2005-11-26 03:43 | キリスト教 | Comments(0)

物を持たないかのように暮らす。

物を持っているのは良いことだが、それに伴って気苦労も増えるのではないか。財産があれば、親族が無心にくるだろうし、高級車を乗り回していれば、疵が気になるだろう。かといって、物が無ければ不便この上ない。

こんなときは、物を持っていないかのように暮らすに限る。実際に持っているものも持っていないかのように考えるのだから、一種の嘘だが、ものが無くなっても心が動揺しないようにする練習にはなる。

実際に生活を簡素化してしまえればもっといい。物が少なくなるほど悩みも減るだろう。物がない分は心を豊かにすればいい。心のあるところに宝はあるもので、要するに物を持たずに、その物の良さを鑑賞する力を持つようにすれば良いのだ。

生活が簡素になればなるほど悩みは減り、心が豊かになれば、その分楽しみが増える。
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by tnomura9 | 2005-11-24 07:45 | 心の話 | Comments(0)

隣の芝生は青い

有能だとか、頭が良いなどということは人と比較しなければ分からないだろう。しかし、比較することで自分の本当の力はどうなのかということから目がそらされてしまう。

要するに、自分を鍛えることはつらい作業だし、また、その成果がどのようなものかを知る手立てが無いことが多い。山の中にこもって武道の修行をしても、一体、自分がどのくらい強くなったのか分からないだろう。

したがって、つい、人と比べることによって苦労の成果を図ろうとする。しかし、そこには、無限の可能性に挑戦するという苦しい戦いからの逃避というわなが待っているのだ。本当に大切なのは自分が何をできるようになったかということで、他人よりどれだけうまくできるようになったかということではない。

だから、人よりうまくできると思うよりは、人より能力が劣ると思って努力を継続することのほうが有益だ。何ができるようになりたいのかがはっきりしていれば、むしろ、何ができないかを自分が知っていることのほうが進歩の手助けになる。

有能とか、無能とかの言葉の魔力にだまされてはいけない。評価と真の力とは別物なのだ。
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by tnomura9 | 2005-11-23 06:58 | 心の話 | Comments(0)

諸行無常

時間と空間は別のもののように見えるが、部屋のこちらの端から向こうの端へ移動するのにさえ、時間が使われる。全てのことは時間と関係なしには起こりえない。

勝ち組が自分の幸運を楽しむのにも時間が使われ、負け組みが不運を悲嘆するのにも時間は使われる。しかし、喜んだり悲しんだりしている彼らが気づかない間に、時間は着々と彼らを非存在へと運んでいるのだ。やがて彼らの手の中からは傲慢も憤懣も跡形も無く消え去ってしまう。彼らが大切にしているもののどこに確実さがあるだろう。それらは、今の今も過ぎ去ってしまうものなのに。

諸行無常という言葉は、真実だからこそ、千年の時を経ても古びないのだ。
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by tnomura9 | 2005-11-22 05:16 | 心の話 | Comments(0)

人生観

成功した人の教訓は、自分の経験や能力からかけ離れているので参考にならない。

地獄を見た人の手記は、すごすぎて真似したくない。

普通の人の人生観は、もうひとつ突っ込みが足りないような気がする。

自分の信念だって、どこかで書かれたり話されたりしたことの寄せ集めだ。

一体全体、「為になる人生観」というような薬のようなものはあるのだろうか。

それにもかかわらず、人生観や自分史を書いた文書はあふれている。ただ生きるだけでは、物足りないのだろう。思ったり、感じたりしたことを表現したくてたまらなくなるのだろう。おそらく、それもまた、飯を食うことや、眠ることと同じように、人間の本能なのかもしれない。

しかし、人生観がどうのこうのと論じるゆとりもないほど必死に生きているときが、本当の人生なのではないか。これこそ本当に生きていることの真実だと感じていることも、言葉にしてしまうと、毒にも薬にもならない空虚な表現になってしまう。

言葉、言葉、言葉。言葉があふれるほどに真実が消え去ってしまう。
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by tnomura9 | 2005-11-21 11:03 | 心の話 | Comments(0)