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たのしみ

ふと気がついたことだが、楽しいことというのは、皆、役に立たないことなのだ。宴会も、釣も、ゴルフも、碁や将棋も、皆無ければ無くても済ませられることばかりだ。

なぜ、役にも立たないことの方が楽しいのかというと、楽しさのメカニズムの中には、時間を自由に使うということが含まれているからではないだろうか。何の強制もなく自分の思うままに時間を使うことが楽しさの本質なのかも知れない。

そうすると、楽しい人生を送りたければ、役に立たないことをするのが正解かもしれない。仕事だって、見方を変えればあまり役に立つことばかりやっているわけではない。仕事も必要のないことまでやるようにすれば、意外に楽しくなるかもしれない。

ブログを書くことは、まさに役に立たないことだから、楽しいのだ。
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by tnomura9 | 2005-10-30 18:25 | 考えるということ | Comments(0)

本を読む時間

思うことがあって、今まで買い込んだ新書本や、文庫本や、ハウツー本を読んでは捨て、読んでは捨てしている。

一度は面白いと思って買って読んだ本なのだけれど、それから一回も読み返されずに本棚に眠っていた。

本を読み返すのにも時間は費やされるのだ。

何回も読み返すと思う古典などは捨てずに残しているが、それすらも、自分が死んだときには、古本屋に売られるか、ごみとして捨てられるのだろう。

昔なら、親から子へ、親方から弟子へと知識の伝承が行われただろうが、
現代は、親と子が職業が違うことが多く、自分の体験は自分の死と共に消滅してしまう。

辛い思いをしながら獲得してきた知識や知恵が自分と一緒に霧散してしまうと思うのは悲しいが、考えても仕方の無いことだ。それだけ、今という時間が大切なものなのかもしれない。

自分が学習するのは、未来のために知識を蓄えるのではなく、今という時間を充実するための労力であると肝に銘じておこう。
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by tnomura9 | 2005-10-16 10:01 | 考えるということ | Comments(0)

学習法のまとめ

『ドラゴン桜』に刺激されて、学習法について長々と書いてきたが、ついにネタが尽きた。

要するに、上手な学習法とは、不必要なことは憶えないことに尽きる。何を何のために学習するのかということをはっきりと自覚することだ。努力すれば、多少のことなら、誰でも憶えることができる。でも、必要のないことを憶えても活用できなければ、努力は水の泡になるのだ。

知識はただでは手に入らない。何を代償にするかというと、それは、自分の時間なのだ。人間は皆、時間については大金持ちなのだ。時間ならいくらでも費やすことができるし、死ぬまでは、後から後から湧いて出てくるように利用することができる。ボーっと畳に寝っ転がって過ごすのは、本当はすごく贅沢なことなのかもしれない。

いろいろ考えていると学習法なんか考えているのがあほらしくなってくるので、さっさとまとめて見よう。


  1. 憶えるより、思い出そう。本を読むときに憶えようと思うのではなく、さっと読んで、何が書いてあったか思い出すようにするのだ。正確な語句を想起するのではなく、大まかな意味を思い出すようにする。
  2. よーく考えよう。本がなくても、本に書いてあったことを考えることができるくらい考えるのだ。
  3. 図解を活用しよう。マインドマップでもKJ法でも何でも良い。考えを図にする方法を知っていると、考えをまとめるのに非常に有効だ。
  4. 実際にやってみよう。習得したことは実際のことであれ、練習問題であれ、どんどん使ってみよう。使わないような知識はいらない知識だと思っていい。
  5. 文章にしよう。憶えたと思っていても文章にすると意外ともれがあるものだ。学んだと思ったらどんどん文章にしよう。
  6. FAQや問題集を自分で作ろう。無駄ではない。どうせすぐに忘れてしまうから。
  7. 繰り返しを恐れないようにしよう。松井だって、中田だって練習の基本は繰り返しだ。繰り返しこそ学習の極意なのだ。繰り返しを恐れなければ学習は怖くない。
  8. 疲れないようにしよう。疲れないためには、細切れに時間を使うほうが有効なときもある。また、寝てしまったほうが記憶が定着することもある。
  9. 使えるものは何でも使おう。語呂合わせであれ、メモリーツリーであれ、使えるものは何でも使おう。自由こそ学習の本質なのだ。


要するに、当たり前のことだが、当たり前のことなのに忘れてしまって無駄な努力をしていることも多い。自然体で楽しく勉強しよう。
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by tnomura9 | 2005-10-12 21:48 | 考えるということ | Comments(0)

資格マニア

資格を20も30も持っている人がいる。すごいとは思うが、資格試験に合格しても、その仕事のエキスパートになるわけではない。そういう人は、むしろ、自分の学習法の効果を試すことが面白いのだろう。

学習法をマスターすれば、何でも出来るようになるわけではないのだ。学習法はあくまでも道具なので、それを何に使うかが問題なのだ。基本的には、自分が知りたいと思ったことを習得できないということが無いようにするために、学習法を工夫するのである。

したがって、学習法を工夫する前に、何をどれだけ学習したいのかをはっきりさせることのほうが、ずっと大切なのだ。だれでもが、天才科学者や、天才作家や、天才経営者になれるわけではない。学習法をマスターすることと、そういう人になることとは別問題なのだ。

医者で、弁護士で、公認会計士という人もいるが、そういう人であっても、日本一おいしい豆腐を作ることは出来ないだろう。たった一人の人が全ての文化を支えることはできない。人間の多様性がその国や民族の文化を支えているのだ。自分の足元をみて、自分が文化の構成員ではなく、ただの利用者だと思うとやる気がなくなるかもしれない。しかし、その足元を本気で深く研究したら、そうは思えなくなるかもしれない。

宝物は足元に埋まっているのかもしれないのだ。
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by tnomura9 | 2005-10-11 07:34 | 考えるということ | Comments(0)

時間

学習がうまく進まない第二の原因は時間だ。

大雑把に見ても、個人に与えられた時間は100年に満たない。物心ついてから一心不乱に勉強しても、一生の間に学んだり発見したりする知識は高が知れている。自分が生きている世界のほんの一部すら理解したということにはならないだろう。

書店に数多並んでいるハウツー本で解説されている勉強法は、実際の仕事に役立つ知識を得るにはどうするかという実務的な方法論でしかない。本質的には、効率的に金を儲けるにはどうするかということだ。

しかし、それは合理的なことで、無限の知識を得るのは無理なことだし、目的を絞って達成水準をはっきりさせなければ、とうてい到達不可能だからだ。

また、たとえ目的を絞ったとしても同じ分野の競争相手と戦うには少しでも情報が多いほうが良い。だから、どうやって時間を作るかという方法論も、やはり、本屋に氾濫している。それらの方法を学ぶことは有益だし、いつ本屋にいっても探し出すのに困らないだろう。

くどくどと論証しなくても、学習の目的をはっきりさせ、学習の時間を捻出することが大切なのは考えなくても分かることだ。ところが、これが、面白くないのだ。仕事の勉強ほど退屈なものはない。実はこれが最大の問題なのではないだろうか。やらなくてはいけないことは分かっているが、やる気がもう一つおきないのだ。

他の人が見つけたことをそのあとをついて学ぶだけの勉強は考えただけでうんざりする。自分でないと出来ないことでないと、達成したという充実感を味わえないのだ。おそらく、それが、素人をフェルマーの定理のようなものに駆り立てて、一生を浪費させた原因なのだろう。

未知のものを探索したいという気持ちが、自分を学習へ動機付け、同時に、非合理的な目的への学習に駆り立てる原因にもなっているのだ。
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by tnomura9 | 2005-10-10 05:30 | 考えるということ | Comments(0)

疲労

学習の一番の障害は何かというと、それは学習法でもなんでもない。疲労が一番の敵なのだ。

疲労は生理的な現象だ。学習によって、脳の神経活動に変化がおきる。脳の活動は生化学的な変化であるので、エネルギーの消費と、代謝産物の蓄積が起きる。したがって、学習を続けていけばエネルギーの補給と代謝産物の処理が必要になってくる。休まなければ脳は機能低下を起こし、非可逆的な破壊が起きてしまうかもしれない。

脳の疲労感に敏感になることと、脳を休める方法を知るということが大切だが、どうすれば、脳を休めることができるかについての科学的な方法はまだないようにみえる。しかし、少なくとも上手に睡眠をとることは脳を休めるための必須条件ではないだろうか。

休むことのほかに、脳の活動エネルギーを減らすということも重要なポイントではないだろうか。日常の定型的な作業をするのにあまり疲労感を感じることはない。それは、繰り返し行う動作についてはエネルギー消費を少なくするための学習が起きているからだ。小さい子供は歩くためにかなりのエネルギーを消費するが、大人の歩行は重力を利用してほとんどエネルギーを消費しないようになっている。

繰り返すということは、記憶の基本だが、学習においてのエネルギー消費を減らすという意味もあるのではないだろうか。自分のよく知っている分野の本は驚くほどのスピードで理解することができるのはそのせいかもしれない。

学習の中に繰り返しを導入するのは疲労を避けるためにも有効だ。
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by tnomura9 | 2005-10-09 09:20 | 考えるということ | Comments(0)

あれかこれか

本を読んでいるときに、何が書かれているのか分からないときがある。概念の干渉が起きているからだ。

たとえば蛋白合成の仕組で、転写と翻訳という用語がある、転写はDNAからmRNAを作る過程で、翻訳はmRNAからポリペプチドを作る過程のことを指しているが、一般の用語を借用してあるために意味の干渉が起きて紛らわしい。

こういうときはその用語は何と関係があるが何と関係がないかということをはっきりさせるとよい。転写はDNAとRNAとは関係があるが、ポリペプチドは関係ない。逆に翻訳はDNAとは関係がなく、ポリペプチドと関係がある。このようにある用語が何と関係があり、何とは関係がないかと言うふうに用語の概念の境界線を浮き立たせると混乱が起きなくなる。

用語の概念だけでなく論理構造についてもあれかこれかをはっきりさせるという方法は有効である。

たとえば、高血圧の人がいるとする。血圧が高いので薬を飲もうと考える。しかし、薬の副作用も怖い。でも、薬を飲まないで血圧を放置するのも怖い、どっちに転んでも怖いというジレンマに陥ってしまう。

こういうときは先ず「高血圧なんだから血圧の薬を飲むのは当然だ」とあっさり決めてしまうのだ。そう決心した後で薬の副作用のことを調べると例外はあるが、ほとんど問題ないことが分かる。

混乱したなと思ったら、あれかこれかを取り敢えず決めてみると良い。
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by tnomura9 | 2005-10-06 17:38 | 考えるということ | Comments(0)

考えること

学習を効率よく行う鍵は憶えることではなく、考えることだ。

新しい知識は記憶しようとする前に、そのことについてあれこれ考えた方がいい。誤解でも何でも構わない、本で読んだことについてぼんやりとあれこれ考えるのだ。

考えているうちに、疑問に思うことや、いいアイディアを思いつくかもしれない。そうしたら、もう一度本に目を通すとよい。

参考書を一回で理解しようなどと無理なことを考えてはいけない。参考書というものは、何度も何度も読むものなのだ。

人間の一生の体験は一万ギガバイトもあれば全部記録することが出来るそうだ。あせってあせって前に進んでも一生の間に前進できる距離は高が知れているのだ。

繰り返しや時間をかけることををおそれてはいけない。

時間をかけて考える癖がつけば、学習が苦痛ではなく楽しみに変化する。
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by tnomura9 | 2005-10-05 19:39 | 考えるということ | Comments(0)

藤堂高虎

NHKの「その時歴史は動いた」で藤堂高虎の特集をしていた。

一生の間に主人を10人も変え、秀吉に重用されていたにもかかわらず秀吉の生前から家康に情報を流し、寝返り工作をし、外様でありながら32万石の大大名になったため、「風見鶏」と嫌われることの多い彼が、実は時代の流れを読み、時には自軍を滅亡の危機に立たせても、藤堂家の危機を乗り切っていった名経営者だったという切り口だったようだ。

気になったので、インターネットで色々と調べてみたら、実像は謀略家とは違うような気がしてきた。大男で、気性が激しく、矜持の高い人間だったようだが、実に誠実な人間だったようだ。裏切りや、嘘とは縁のない人間だし、実際一度も裏切りをしていない。家康に情報を流したのも、ゴマをすろうとかいう意識ではなく家康の屋敷の工事を行って以来の交友からの行為だったのだ。

身長190cm、体重110kgの大男だった。最初浅井長政に仕え、15才のとき姉川の合戦で手柄をたてたが浅井家が滅びてしまった。その後いろんな武将の下を点々とする。気性が荒く、言いたいことをはっきり言い過ぎて敬遠されたのではないだろうか。

浪人のときあまりの空腹に耐えかねて、金も無いのに、餅屋のもちを全部食べてしまったことがある。その時餅屋の主人が食べっぷりに感心して、餅をただにしてくれたうえ、路銀まで恵んでくれた。藤堂はこれに感謝して、出世してからも、旗指物の文様を3個の餅にしている。また、大名行列の途中で立ち寄って金品を与えたり、家中のものは年に一回この餅屋に立ち寄るのを慣わしにしたりして報いている。

やっと羽柴秀長に300石で拾われるが、この主従関係はうまくいったらしく、最後は筆頭2万石にまで上りつめ、秀長の養子の秀保の後見人にもなった。秀保が急死すると、剃髪してさっさと高野山に篭ってしまったが、秀吉が「首に縄をつけても引っ張ってこい」といって迎え、伊予板島7万石を与えた。慶長の役では水軍を率いて活躍し1万石を加増されている。

その後、役目で徳川家康の屋敷を立てたが、その折の心遣いに感じた家康が感謝の挨拶をしたのがきっかけで、家康との親交がはじまった。豊臣方の内部事情を家康に伝え危機を救ったこともある。秀吉が死ぬと早々に徳川家康を支持し、裏切り者呼ばわりをされたが、「武士は、自分の思ったことは断行しなければならない」といって耐えた。

関が原以降も一心に家康に使え、家康が死ぬときは日蓮宗から天台宗に改宗し、死んだ後も家康に仕えるといって家康を喜ばせた。76才で死んだが、体中鉄砲や刀の傷で無傷のところは無く指も何本か欠けていた。

戦略家ではあったが裏切り者ではなかった。情に厚く、死を恐れなかった。部下や領民を可愛がり、慕われた。戦の後は、戦死者を、敵も味方も隔てなく弔った。知に働くだけの経営者などではなかったのだ。

藤堂高虎の人となりはともあれ、NHKの番組にもあるように、驚くのはその時代や人間に対する読みの正確さである。これは彼が近江の出身であることと無縁ではないような気がする。全国に行商をしていた近江商人や伊賀の忍者たちの影響があったかどうかは分からないが、この地に育ったということで、情報力の重要さを身をもって知っていたような気がする。後年、伊賀伊勢の領地を拝領するが、同時に伊賀忍者の統括も行っており、家康の情報局のような役割を果たしていたのではないだろうか。

藤堂が天下万民の平和のような理想を持っていたかどうかは定かではない。しかし、全身全霊を持って誠実に自分の人生を生き抜いた人であったような気がする。
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by tnomura9 | 2005-10-02 19:20 | 話のネタ | Comments(0)

キーワード

キーワードは連想の糸を束ねる結び目のようなものだ。

しかし、その糸の束ね方には大きく分けて二つの方式がある。一つは並列結合でもう一つが直列結合だ。

並列結合というのはキーワードで表される概念が、独立な複数の部分から構成されているときに見られる。例えば生物を植物と動物という二つの独立した部分に分けるといった連想の結合である。生物というキーワードが植物と動物という二つの概念をひとつにまとめている結合の状態だ。このばあい植物と動物とのあいだには直接の連想の結合はなく互いに独立している。

直列結合の場合は、一つのキーワードから出発して数珠を繋ぐようにキーワードが連鎖している状態だ。たとえば、「風が吹く」→「ほこりが立つ」→「ほこりが目に入る」→「盲人が増える」→「三味線が売れる」→「猫がいなくなる」→「ねずみが増える」→「桶が齧られる」→「桶屋が儲かる」のようにキーワードから出発して次々に連想の糸がつながっている状態だ。論理的な文章や、原因結果をのべた文章などによくみられる。

この両者が混在している場合もある。ラジオは検波回路、増幅回路、出力回路からなっているが、信号の流れは、検波回路→増幅回路→出力回路と進んでいく。

実際には、キーワードはこのような並列結合と直列結合が複雑に組み合わさった連想構造の出発点になっているのだ。したがって、本が分かりにくいと感じたときは、キーワードを出発点とする連想の構造が主に並列型なのか、それとも、直列型なのかと考えて読むと分かりやすくなる。

おそらく理解の早い人は、このような連想の構造を掴み取るのがうまいのだろう。しかし、凡人もキーワードからの連想の糸を図に書けば同じことができる。
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by tnomura9 | 2005-10-02 11:46 | 考えるということ | Comments(0)