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黄金律

幸せになるための方法は昔からはっきりしている。それは、

人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。


ということである。イソップの寓話に、凍えた蛇を懐で温めてやった旅人が、温まった蛇に腹に食いつかれて死んでしまったというのがあるので、万人に適用するわけにはいかないだろうが、基本的には上のような心構えで生活したら幸福になるのではないだろうかと思う。しかし、なかなか実行できないというのも事実だ。人間は、幸福よりも不幸のほうが好きなのかもしれない。

自分の心のもやもやの赴くままに、不幸や幸福について考えてきたが、このあたりで結論らしきものを出して一応の終わりにしたい。結局、幸福とは自分の脳の中に発生するものなのである。また、現実と脳の中の世界は相互に影響しあいながら複雑なネットワークを作っている。その相互作用のバイアスに気づくことによって、すくなくとも、不合理な不幸感だけは避けることができるのではないかと思う。さらに、不幸が創作のエネルギーとなっている場合もあり、必ずしも不幸全てが否定されるべきものではないかもしれない。結局、結論らしい結論にはならなかったが、一生問い続けることができるほど、この世界と脳の世界は豊かなのである。
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by tnomura9 | 2005-05-29 15:18 | 幸福論 | Comments(0)

うつ病認知の三徴

うつ病の人たちには、うつ病認知の三徴というものの見方のクセがある。それは自己と世界と将来の否定的認知である。つまり「自分はダメな人間で(自己否定)、周囲も自分のことは認めてくれず(世界の否定)、きっと将来はひどいことになる(将来の否定)。」という考え方である。うつ病の人は全てにおいてこのものさしで物事を受け取る傾向にあるそうだ。

また、このような人たちは事実や推論から選択的に悪いほうだけを取り出すクセがある。自分の仕事がうまくいっているときは、「たまたま運が良かっただけだ。」と考え、失敗すると「やはり自分は無能なのだ。」と考える。ところが他の人が成功すると「あの人は能力のある人だ。」と考え、失敗すると「若いのだから失敗しても取り戻せる。」などと考えるのである。

ところが、その同じ人が躁状態になるとまったく反対の考え方をするようになるから不思議である。

これは精神医学的には脳のノルアドレナリンやセロトニンの機能異常とされ、薬物でこれらの脳内物質を調節することによって改善することができる。しかし、認知行動療法では、うつ病の人のダブルスタンダード的な考えの非合理性に気づかせることによって、抑うつ的な感情を緩和することができるそうである。認知のゆがみがある限り、薬物で気分をコントロールしても考え方のクセ自体は残ってしまうかもしれない。薬物療法と共に自分の認知を合理的なものにしていくことも必要なのだ。

うつ病に限らず、自分たちがこの世界だと思っているものは、さまざまな神経回路を通じて脳の中に形成された世界のモデルなのである。そこには必然的に情報の選択のバイアスがかかっている。そのバイアスに自覚的になるということは、うつ病の人に限らず、すべての人にとって必要なことではないだろうか。
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by tnomura9 | 2005-05-29 14:57 | 幸福論 | Comments(0)

胃の痛み

今朝(昨日の朝というべきか)ラジオを聴いていたら、どこかの宗教家の人が「皆さん、幸せになるのは簡単なことです。誰にでもできる次のことを実行すればよいのです。あれをして、これをして、それをしないで・・・・」と言っていた。その幸せになるための必要条件を聞くたびに胃が重くなっていくのは自分だけだろうか。確かに、それは立派な行いで常識的に考えても受け入れられる考えなのだが、とうてい自分には実行可能には思えないのだ。

セロトニンの話に興味を持ったり、認知行動療法の話を読んで、ああこういう風に自分の信念にゆがみがあるのかもしれないと納得したりしているのは、心の中にどうしても抜けない棘のようなものが刺さっていて、その周りでぐるぐると思い巡らしているからなのだ。その痛みは時には軽くなったり、時には体の痛みに近いくらい強くなったりするが、どうしても取り除くことができない。

客観的には何も問題ないのかもしれないし、贅沢な悩みだと言われる場合もあるだろうが、なんとも表現しようもない苦しみは本人にしか分からないものなのだ。

しかし、この苦しみがなくなったときに果たして幸福感を感じることができるかどうかはわからないと思う。あまりに長くこの苦しみと共に生きてきたので、これが無くなってしまったらどうしようもない喪失感を感じるかもしれないと思うようになってきた。苦しみが生きがいだというのも変な話だが、人間の心とはそんなものなのかもしれない。
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by tnomura9 | 2005-05-29 00:55 | 幸福論 | Comments(0)

全か無か

ストレスを溜めやすい思考パターンのひとつに、二者択一の考え方がある。全てのことを、「あれかこれか」、「右か左か」、「良いか悪いか」の二者択一に割り切って考える考え方だ。分かりやすい考え方だが、その実、葛藤を起こしやすいのだ。

たとえば血圧が高い人がいる。二者択一の考え方でいけば、高血圧は「悪い」。血圧を下げるためには薬を飲まなければならないが薬には副作用がある。薬の副作用は「悪い」。こういう考えかたをすると、血圧が高いのは「悪い」が薬を飲んで副作用を起こすのも「悪い」、どう転んでも「悪い」というディレンマに陥らざるを得なくなる。実際には血圧を下げる効果と副作用の危険性を天秤にかけて副作用が強ければ他の薬に変えるし、副作用が無視できるくらいならその薬を使うというようなグレイゾーンで物事を判断するのが良いのだ。

だが、なかなか実際にはグレーゾーンで考えることは難しいのだ。「あの上司は悪い」とレッテルを貼ると、一挙手一投足が嫌になってくる。「あの上司は悪いところがあるが、良いところもある。」とはなかなか考えられないのだ。

この二者択一の考え方は、実は、神経の生理学的性質が関係しているのだ。子供に絵を描かせると必ず輪郭で絵を描く。しかし、輪郭線は自然界には存在していないものなのだ。輪郭は、網膜の細胞の周辺抑制という生理学的なメカニズムで発生するものなのだ。神経は自然界に存在するグラデーションを情報処理することによって輪郭線を検知している。本来連続的なグラデーションしかないものを、神経回路が輪郭線を検知することによって「あれかこれか」の二者択一を発生させているのだ。

神経の処理は合目的的なもので、おそらく情報の圧縮を行っているのだろうと思う。しかし、そのために、気をつけていないと、思考が簡単に二者択一のジレンマに陥ってしまう危険性があるのだ。

「自分は不運だ」という考えの中に、この二者択一が含まれていないか検討する必要があるのではないだろうか。
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by tnomura9 | 2005-05-28 16:36 | 幸福論 | Comments(0)

論理療法

エリスという人が開発した論理療法というものがある。クライアントが不適応な感情や行動を起こすのは、環境からくる刺激そのもののためではなく、その刺激をどう認知しているかが関わってくるという考え方だ。この不適応な行動を引き起こす認知のクセを不合理な信念という。たとえば、「東大に合格しなければ自分の人生はおしまいだ。」という不合理な信念を持っていたら、東大受験に失敗したら自殺しなければならないだろう。

論理療法では受験の失敗のような感情や行動を引き起こす外界の刺激を、「賦活現象」とよぶ。この賦活現象をどう認知するかという脳の情報処理機能を「信念」といい、この信念によって励起された感情や行動を「結果」という。論理療法では「賦活現象」そのものが「結果」を招くのではなく、「賦活現象」と「結果」との間に「信念」という認知機能が介在しており、この「信念」が不適応な感情や行動を引き起こしているのだと考える。そうして、この「信念」の不合理性に気づき、合理的な「信念」に変化させることによって、不適応な「結果」を適応的なそれに変えていこうという考え方である。

たとえば「東大に合格しなければ自分の人生はおしまいだ。」と考えているクライアントに、治療者は、「実際に東大に合格していない人は何人いるのか。」、「その人たちの人生がはたしておしまいといえるのか。」、などと対話しながらクライアントにその「信念」の不合理性を気づかせるのだ。ちょうどソクラテスの対話法のようなものである。相手の信念を否定せず、相手に話させながらその不合理性に相手が自分で気づくようにするのである。

こうしてクライアントが「東大に合格すればうれしいが、合格しなかったとしても大学はひとつの通過点に過ぎないのだから、自分の本来の目的のためには他の方法を選ぶことも可能なのだ。」という合理的な信念を持つことができるようになると、何も受験に失敗したくらいで死ぬ必要はなくなるのだ。

このように論理療法は環境と行動のあいだの認知を操作することによって、不適応な行動を適応的なものに変えていく方法だ。しかし、環境が劣悪な場合、論理療法だけで事が解決するわけではない。また、三菱自動車のように内向きの適応ばかりに腐心していたために重大な事故を引き起こしてしまった例だってあるのだ。人間社会では適応的な行動をとることが生きやすくなることではあるが、ほんとうに適応的だけでよいのかも考える必要がある。
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by tnomura9 | 2005-05-28 07:42 | 幸福論 | Comments(0)

セロトニン

脳幹部の中央にある縫線核という所にあるニューロンには変わった性質がある。縫線核にあるニューロンの数は比較的少数なのだが、大脳皮質をはじめ脳全体に軸索を送っているのだ。また、このニューロンはトリプトファンという必須アミノ酸からセロトニンという神経伝達物質を合成するので、縫線核から脳全体へセロトニンが送られることになる。また、セロトニンの神経伝達物質としての働きも特異で、それはシナプス後神経を発火させるというより、その発火のしやすさを調節するような働きをするのだ。

正確に書こうとすると却って分かりづらくなってしまうが、要するに、脳のごく一部のニューロンが脳全体にセロトニンを送って脳全体の活動をコントロールしているということなのだ。そして、脳全体にどう影響しているかというと、不安感などのストレス反応を緩和し、痛みの感覚を減少させ、快・不快の感情を沈静化させるのである。つまり、縫線核のセロトニン神経は、心を平静にさせる「不動心」の中心なのだ。

セロトニン神経は、目が覚めているときは活動し、寝ているときは活動しない。また、目が覚めているときも2Hzの規則正しいインパルスを発生している。さらに、セロトニン神経は痛みなどのストレス刺激には全く反応しない。その興奮を強めるのは、咀嚼、呼吸、歩行などの規則的なリズム運動と、2400ルクス以上の明るい光である。

したがって、セロトニン神経の活動を高めることができれば、脳の不動心を鍛えることができる可能性がある。科学的な精神修養だ。座禅の科学的な根拠でもある。座禅の規則的な呼吸法がセロトニン神経の活動を高めていたのである。

また、念仏やロザリオの祈りで悟りを開く人があるのも理解できる。それらの祈りの規則的なリズムがセロトニン神経を賦活化したのだ。

しかし、座禅のような特別な方法を用いなくても、セロトニン神経を賦活する方法がある。明るい光の中でリズム運動をすればよいのだ。朝、屋外を20分くらい散歩するだけでいいのだ。あるいはもっと簡単にチューインガムをかむだけでも良いのだ。

セロトニン神経についての詳しい説明は東邦大学医学部生理学第一講座のホームページに載っている。また、関西テレビの「発掘!あるある大辞典」にもとりあげられているようだ。

科学的に平常心を養う時代がやって来たのかもしれない。
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by tnomura9 | 2005-05-26 22:33 | 幸福論 | Comments(0)

快刀乱麻

いろいろなものが複雑に絡み合った現代社会で物事を単純に捉えるということは、事情にそぐわないように思えるかもしれない。しかし、単純さというのは意外に快刀乱麻の働きをするのだ。

たとえば、ひとつ嘘をつくと次々に嘘を重ねていかなければならない。嘘をつかなければそういう複雑さはまったく必要ないのだ。また、知識を得るためにはコツコツと勉強しなければならないという単純な信念より優れた勉強法はない。肝心のところで間違った方針を持っていなければ、不必要な複雑さは発生しない。単純なものは管理しやすく、事故も起こりにくいのだ。

レーガン大統領は官僚が分厚い政策の資料を持ってきたとき、一枚のカードに要約するように要求したそうだ。政策がもたらす意味を要約から判断できれば、細かいことは専門家に任せたほうが良い。その専門家がきちんと仕事をこなす誠実さと能力を持っているかを判断する能力があればこのシステムは非常にうまくいく。指導者が全てを把握する必要はないのである。

イワンの単純さは「人間がどう生きるべきか」についての単純さであり、ここさえしっかりしていればどんな複雑な状況でもあまり誤った判断をすることはないのだ。
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by tnomura9 | 2005-05-23 07:39 | 幸福論 | Comments(0)

イワンのばか

トルストイの「イワンのばか」は誰でも一度は読んだことがあるだろう。頭のいい兄さんたちが頭のよさのために悪魔に誘惑されて破滅していくところや。悪魔の親玉が、イワンの国の住人があまりに頭を使わないので誘惑がことごとく失敗したため、高い櫓のうえから何時間も頭の使い方を講演していたら、ふらふらになって頭を柱にぶっつけるのを見て、「頭を使うというのは痛いものだ」と皆が感心するところなど子供心にも変な話だなと思ったのを覚えている。

イワンはばかなのであまり兄さん達ほどに複雑な考え方をしない。彼が考えるのはたった二つ。「生きるためには働かなくてはならない。」ということと、「周りの皆を悲しませるようなことをしてはいけない。」ということだけだ。この単純さがあれば、普通に暮らしていけているのに自分は不幸だと思ったり、できもしないことに挑戦して破滅していったりはしないだろう。自分たちが感じている不満や不幸感というのも案外そんなものなのかもしれない。

しかしイワンの単純さは大きな仕事を達成するのに邪魔にはならない。実際、兄弟3人とも一度は王国を支配するまでになったのだ。そうして兄二人の王国が滅亡していったのに対し、イワンの王国はあらゆる障害にもかかわらず生き残った。

もともと複雑な考え方をするのに慣れている人間がそう単純になる訳にも行かないだろうが、ほんとうに大切なことはイワンでも考えられる二つのことに尽きているのかもしれないのだ。単純になって幸せになるのもいいかもしれない。
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by tnomura9 | 2005-05-22 18:56 | 幸福論 | Comments(0)

幸福の技術

何度も言うように幸福とは「自分が幸福である」と感じることである。したがって幸福を得る技術とは自分の脳が幸福感を感じるように鍛錬することだ。

最近、認知心理学と行動療法が結びついた認知行動療法という心理療法が効果を上げているようだ。詳しいことを説明できるほど調べていないが、印象としては古来の哲学者や宗教家が経験的にやっていたことを、経験科学的にシステム化した方法のようだ。これが、神経生理学や神経解剖学、神経活動のコンピュータシミュレーションなどの知見と結びついてくれば、将来は科学的に幸福の達人となる方法が解明されるかもしれない。

そういう技術が発達すれば、神経症やうつ病の治療が効果的に行われるようになるだろう。それだけでなく、普通に生活している人でもその技法によってさらに自由な判断力や行動力、幸福感を持つことができるようになるかもしれない。しかしながら、その場合でも幸福を得る技術とはスポーツの技術と同じような性質のものとなるのではないだろうか。つまり、スキルの上達度の個人差がかなり残るということだ。

抗生物質を飲んで感染症を治療する場合、薬を服用する人の技術は必要ない。薬を飲みさえすれば病気は治ってしまう。しかし、幸福感を得るための技術は基本的に指導者によるクライアントの訓練という形になり、指導者やクライアントの技量が関係してくるのだ。

おまけに技術の向上のためには、訓練のために使う時間が必要になる。幸福の達人になるためにはほとんどの時間を心の訓練に使わなくてはならなくなるかもしれない。プロのスポーツ選手のように、プロの幸福な人が出現するかもしれないのだ。こういう人たちの役目は、心の訓練によって到達できる境地を皆に示すということになるだろう。幸福の達人でかつ科学技術に通暁しているという人もないではなかろうが、おそらく幸福の達人の知識はどうやって幸福になるかということに限定されてしまうのではないだろうか。古来の聖人とはそういう人たちであったように見える。

そうはいっても、幸福の技術が発達すれば、闇雲に不幸になる人の数は減少してくるかもしれない。国民の平均的な幸福感のレベルが上昇するかもしれない。認知行動療法の発達を大いに期待したい。

しかしながら、確かに幸福なことは良いことであるが、不幸はだめだという訳でもないのだ。芸術家の一生は不幸な人が多い。どうもその不幸な人生がかれらの創作意欲の糧になっているようにも見える。ゴッホの伝記を読んでゴッホに代わりたいと思う人は誰もいないだろう。しかし、その作品は年月を経て多くの人に感動を与え続けている。

幸福になりたいとは思うが、不幸なまま立派な仕事を成し遂げていく自由も人間は持っているのだ。
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by tnomura9 | 2005-05-22 09:04 | 幸福論 | Comments(0)

幸福の条件

幸福とは心が「幸福だ」と感じることだ。どのような外的条件でも幸福感を感じることができれば、幸福のプロになることができる。結局のところ自分の体を幸福感の達人にしてしまえば、外的条件や幸運不運に影響されずに幸福になることができるのだ。

しかし、スポーツ選手のことを考えればわかるように、基本的には誰でもスポーツを始めることができるが、プロのスポーツ選手になることができるのはごく限られた人たちだけなのだ。外的条件のいかんに関わらず幸福になる技術についても、それは一種の自己鍛錬の成果だ。たとえ心理学や生理学が進歩したとしても、おそらく幸福の達人になることができるのは一部の人で、大多数の人はそううまくはいかないだろう。

ゴルフのスウィングのようにやり方が研究し尽くされているようなものでも、実際にできる人は限られているのだ。熱心に練習しても、できないひとはできないのだ。

運にも不公平があり、不運にも負けない幸福感を持つ能力にも不公平があるのでは、現在不幸を感じている人は救われないではないかと言うかもしれない。確かにその通りだ、しかしやってみなくては自分が幸福の達人になれないかどうかは分からないのだ。宝くじを絶対当たると思って買う人はいないだろう。しかし、買わない人には絶対に当たらない。

自分が不幸だと嘆いているだけでは絶対に幸福にはなれない。幸福になりたいのなら何かを始めないといけないのだ。しかし、慎重でなくてはならない、幸福になろうとはじめたことで逆にもっと不幸になってしまう可能性だってあるのだから。

「期待させたかと思うとすぐに失望させる。何を言ってやがるんだこの野郎。」と思った人もいるかもしれない。申し訳ないがそれが現実なのだ。実は、幸福になるための鍵はそこにあるのだ。現実をしっかりと見極めることである。不幸と感じていることが現実にそうなのか。日本人の不幸は他の国の人から見たら信じられないくらい幸福であるかもしれないのだ。逆にバブル経済に踊らされた人たちのように自分で幸運だと思っていたことが、実はそうではなかったかもしれない。自分の人生の現実あるいは真実はどこにあるのか。それを見極めようとすることが、現在や未来の幸福や不幸にかかわらず、重要なことなのだ。

不幸を幸福に変える錬金術はないかと思っていろいろと考えてみたが、結局これといった答えは見つからなかった。ただその過程で、なぜソクラテスが皆の固定観念を産婆法で粉砕しながらそれに代わる答えをださなかったのか分かったような気がした。徳にしても、美にしても、幸福にしてもそれはこれだという答えがあるのではなく、一生の間追い求め続けることが大切なのだということだ。それはこれではない、あれでもないということは分かる、しかしその本体を捕まえることは不可能なのかもしれない。真理というのは永遠に問いを発し続ける過程そのものかもしれないのだ。
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by tnomura9 | 2005-05-21 16:39 | 幸福論 | Comments(0)