カテゴリ:キリスト教( 13 )

あなたがたの間では、そうであってはならない。

イエスたちは弟子たちを次のように諭している。

あなたがたも知っているように、異邦人の間では支配者たちが民を支配し、偉い人たちが権力を振るっている。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならない。あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい。

もし、社会の指導者がこのような考えを持っていたら、とても居心地がいいだろう。しかし、現実にはこのような指導者はいないだろう。いたとしても、謙虚さは弱さとみなされ、その地位を狙うこれとは違った考えを持つメンバーにとって代わられるかもしれない。人間や社会の力学がこのような理想社会を作らせない方向に働くからだ。

「キリスト教は良いが、キリスト教徒は悪い。」というガンジーの言葉があるが、何もキリスト教徒が悪人であるという訳ではなくて、人間の本性がキリスト教の理想とは相容れない行動をとらせるのだ。自然界は弱肉強食の法則で成立しているように見える。

しかし、以前のテレビ番組でニホンザルの観察を紹介していたものが面白かった。落ち着いた性格の年老いたボス猿が、乱暴な若いオスとの闘争に負け若い猿が群れのボスになった。しかし、あまりの我儘と粗暴さにメスの支持が得られず、最後にはおとなしい性格の No.2 を皆が後押しする形で群れから追い出されてしまう。

どうやら自然の法則も弱肉強食一辺倒ではないのだろう。

脳は先走りして現実を法則化しやすいが、現実はそうやって造られた法則よりははるかに複雑で豊かなのかもしれない。

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by tnomura9 | 2016-04-26 08:21 | キリスト教 | Comments(0)

持っている者はさらに与えられ

イエスの「持っている者はさらに与えられ、持っていない者は持っている物までも奪われる」という言葉は比較的有名だろう。経済学ではマタイの法則(この言葉が書かれたマタイの福音書に由来する)と言われている。

お金の世界ではほぼ当たり前の法則だ。お金から距離を置きたい宗教家の方では、宗教的な恩寵について述べてあると解釈するようだ。しかし、不公平さはどちらの場合も共通している。

要するに経済であれ、宗教体験であれ、リアリティでは不公平さは厳然として存在しているのだ。この不公平さが現実の社会を動かす動力となっている。

不公平さが厳として存在するからと言って、希望がないと考える必要はない。不公平さという荒波を乗りこなすサーフボードを手にするためには何を工夫していったらいいのかを考えるのが、人間として生まれてきた醍醐味というものだ。さらに、不公平さからくる弊害を防ぐ方法を実現できたらもっと良い。

不公平さが悪なのではなく、不公平さを悪に変える人間の業の深さが問題なのだ。

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by tnomura9 | 2016-04-22 17:44 | キリスト教 | Comments(0)

なくてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。

聖書のなかに「なくてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」というイエスの言葉がある。実はこの言葉が発せられたエピソードがとても家庭的で愛らしいのだが、ここではこの言葉だけを切り出してみる。

普通に生活していて、「なくてはならぬ一つのもの」だけで過ごしている人はいないだろう。仕事にしても、家庭にしても、その他の付き合いにしてもいろいろなところに首をつっこんでいるだろう。さらにその様々なコミュニティにはそれぞれの独自な価値体系がある。その価値体系の中でうまくいくときはうれしいし、うまくいかないときは自分の居場所がないような疎外感を感じることになる。

成功には報酬が、失敗には罰がというのが価値体系の法則だ。しかし、いろいろなところで失敗をしたりすると、その価値体系の中だけでの失敗であるにも関わらず、自分の根本的な存在意義が問われるような気持になってしまう。

いろんなところで小さな失敗を重ねて、自分なんかだめな人間だと思ってしまうときに、「なくてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである。」という言葉は大きな慰めになる。だめな人間かもしれないが、「なくてはならないもの」に立ち返って、もう一度やり直そうと思うことができるのだ。

なくてはならないものではない多くのものに押しつぶされると感じるときに、なくてはならない一つのものに立ち返ることは大きな慰めと希望を生み出してくれる。

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by tnomura9 | 2016-04-21 18:07 | キリスト教 | Comments(0)

聖書の逆説

聖書の有名な山上の垂訓の冒頭に次のような言葉がある。

あなたがた貧しい人たちは、さいわいだ。
神の国はあなたがたのものである。

貧しいことがいいわけがないので逆説だ。自分の経験からも貧しいのが幸いだとは思えない。貧しさを経験したものとしては、上の言葉は単なる気休めにしか聞こえない。しかし、これを次のように言い換えたらどうだろうか。

あなたがた貧しい人たちは、わざわいだ。
あなたがたは神の国へは入れない。

もしこのような世界があったとしたら、それは地獄のような世界だろう。日本の社会は数々の福祉制度によって、上のような地獄にならないようなセーフティーネットが作られていると言える。

また、聖書には次のようなたとえ話がある。ぶどう畑の主人が労働者を雇いに朝早く市場へ出かけて行って数人の労働者を雇った。朝9時に市場へ行くとまだ雇われていない人がいたのでそれも雇った。また、12時頃と午後3時頃に出かけて行って人を雇った。ところが、夕方になって仕事が終わると、主人は最後に来たものから順に同じ金額の賃金を払ったというものだ。

なんと理不尽な話のように思えるが、かといって、多くを働いたものは必ず多くの報酬を受け、あまり働けなかったものは少しの報酬しか得られないという社会が住みよいかというと何とも言えない。

もちろん頑張った人は多くの報酬を得られるし、少ししか働かないものはあまり報酬が得られないというのは公平だし当然のことだが、それを突き詰めていくと何とも住み心地の悪い社会が出来上がってしまう。聖書の逆説は逆説ではあるが、自分たちが当然と思っていることの思わぬ落とし穴を教えてくれているような気がする。


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by tnomura9 | 2016-04-15 08:16 | キリスト教 | Comments(0)

欲がない

管理人は、キリストが(キリスト教ではないよ)大好きだ。しかし、なぜ好きなのかはよく分からなかった。それが、今朝、ふと思いついた。

聖書に記されたキリストの言動には、全く欲がないのだ。かけらも感じられない。

まねはできないが、なんとも気持ちがいい。
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by tnomura9 | 2006-09-20 08:29 | キリスト教 | Comments(0)

一神教と多神教

9.11のテロ事件以来、イラク戦争や中東問題などが宗教戦争の色合いを見せてきているせいか、一神教=不寛容、多神教=寛容の図式で議論されることが多い。

そういう議論の根拠は、おおまかに、「一神教は自分の神が唯一正当だと思っている、したがって、一神教を信じている信者は自分の言うことが正しくてほかの人の言うことは誤りだと思っているから不寛容になる。多神教の場合は八百万の神がいるので、どの神が正当だという考えは無いから平和だ」、というものだが本当にそうだろうか。

一神教の国と多神教の国を比べても、不正や、犯罪や暴力の頻度にあまり差は見られないのではないだろうか。一神教も多神教も人間社会の必要から生まれたもので、人間の社会的な営みの歯車のひとつに過ぎない気がする。信者の内面的な問題とは別に、宗教の外面的な性質を見ると、相互扶助や、集団の団結力を増すなど、社会を安定させる役目を果たしているような気がするのだ。権力は、心の中まで支配することができないが、宗教は個人の内面から集団の構成員としての役割を果たさせるからだ。しかし、個人の心を完全に支配することができないのは、一神教だろうが多神教だろうが変わらないのではないだろうか。

宗教は社会的な面でも機能を果たしているが、個人の心の問題にも力を発揮する。管理人が思うに、個人の不幸のかなりの部分は、人間の心の闇とでもいえるものから発生するのではないだろうか。差別やいじめや、不寛容などあらゆる悪をそれぞれが心の中に持って、自分自身も他人も傷つけ続けているのだ。宗教の力を借りて、かろうじてそういう心の中の獣をコントロールしているということも多いのではないかと思う。

科学万能の時代だといっても、人間に心というものがある限り宗教は大きな力を持つし、それが誤った方向に行かないように気をつけておかなければならない。自分の考えを神が助けてくれるように祈るのではなく、自分の考えが本当に神の意思であるのかを常に考えていなければならないのだ。
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by tnomura9 | 2006-01-11 05:37 | キリスト教 | Comments(0)

聖書

聖書は一字一句間違いのない神の言葉だと信じようとしている人もいるし、聖書の記事の中のさまざまな矛盾を取り上げて聖書は神の言葉なんかではないと断定する人もいる。

しかし、本当に大切なのは、聖書に登場した人物や預言や教えのもつ意味を考え、それが、人間の本質についてどういう光を投げかけているのかを熟考することだ。聖書には5000年も前の記事から始まって何世紀にもわたる文書が混じっているので、その表現するものの意味が現代からは推測すらできない場合もある。しかし、そのなかに織り込まれているのは何千年にもわたる人間の営みの中で記録され、選別されてきた知恵や、知識や、感情の宝庫なのだ。

そうして、それらの記録を前にして、一回きりしかない自分の人生をどう生きていこうかと深く考えることにこそ意味がある。自分の決断の根拠を安易に聖書の字句に求めるのでなく、聖書の精神とでも言えるものに対峙することが大切なのだ。
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by tnomura9 | 2005-12-31 10:45 | キリスト教 | Comments(0)

持ち物

人はいったいどれほどの持ち物を持っていたら幸福になるのだろうか。

答えは、

「少なければ、少ないほど良い。」

である。

マザーテレサは自分のお金を全く持たないので、お金がなくなることを心配する必要がない。着物も2枚のサリーしか持っていないので、他の人がきれいな服を着ていても羨む必要がない。名誉欲もないので、人々が自分をどう評価しようと平気でいられる。寝るときは床に転がって寝るので、貧しい人々の中の最も貧しい人の世話をするときも、相手の人格を傷つけることがない。

あれはマザーや彼女のシスターたちだからできることで、異常な生活なのだと思うこともできる。しかし、そのような異常な生活のなかで、彼女たちは生き生きと楽しそうに、貧しい人たちに仕えている。持ち物を多く持たなくても幸せな人間がいるのだという証拠を見せてくれているのだ。
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by tnomura9 | 2005-12-16 06:59 | キリスト教 | Comments(0)

聞くこと

自分のすぐそばにいる人を愛するためには、相手の話をよく聞かなくてはならない。

語られる言葉が自分の気に入らないものであっても、注意深く聞く必要がある。気に入らないからといって心を閉じてしまっては相手の心を知る手立てがなくなってしまう。自分のすぐそばにいる人が自分とは異なる、かけがえのない人だと気づくまで、よく話に耳を傾ける必要がある。

しかし、もっと大事なのは、神が語る言葉を聞き取るということだ。神は人には直接には語らないから、ひとの言葉を通じて聞き取らなくてはならない。自分のすぐそばにいる人の言葉は、同時に、神からの言葉かも知れないのだ。

神は在ると思っている人には在るし、ないと思っている人にはない。しかし、神を信じている人も、自分の願いを神が聞き遂げてくれるように祈ることはあっても、神の言葉を聞こうと願う人は少ない。

ともあれ、神は愛だから、自分のすぐそばにいる人を愛さなければ、神を知ることはできない。自分のすぐそばにいる人を愛すれば愛するほど、神が自分のことをどんなに愛しているのかを実感することができる。そうして、神に愛されていることを知れば知るほど、よりよく自分のすぐそばにいる人のことを愛することができるようになる。

愛は実践しなければ理解することができない。自分のすぐそばにいる人の言葉を注意深く聞くことはその第一歩なのだ。
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by tnomura9 | 2005-12-15 07:13 | キリスト教 | Comments(0)

神と富

愛の目的は分かち与えること。経済活動の目的は独占することだ。

キリストが、

「人は神と富に兼ね使えることはできない」

と言ったのは、この基本的なベクトルの方向の違いに気がついていたからかもしれない。

現在の日本は明らかにマモン(金)の神の支配の下にある。そのため、子供たちは、小さいときから他より秀でること、競争に勝ち抜くことのみを求められ、その結果、耐えられない孤独に悩んでいる。大人は大人で、非情な競争に駆り立てられ、家庭生活を楽しむ時間すらない。

競争社会で犠牲にされるのは時間である。家族で楽しんだり、友人と語り合ったりする時間は極力節約され、利益を生んだり、「有益な」知識を得るための時間に振り替えられる。時には、睡眠時間すら奪われてしまうのだ。

だからといって、今の日本人が走り続けるのを簡単に止めるわけにはいかないだろうが、「時間泥棒」に盗まれた時間をどこかで取り返さないと、心が滅びてしまう。
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by tnomura9 | 2005-12-14 06:53 | キリスト教 | Comments(0)