カテゴリ:話のネタ( 246 )

前に、狐にだまされて田んぼに埋まっていた親父さんの話をしたが、実際に狐に化かされた人の現場を目撃した人がいる。それは、管理人の実家の近所のおばあさんで次のような話をしてくれた。

おばあさんがまだずっと若かった頃、ご主人と宴会に招かれたことがあった。二人は山道を4kmほど離れた知人の家に歩いて出かけた。宴会が終わり、いささか酔ったご主人と山道を歩いて帰っていたら、ご主人が突然だれかとしゃべりだした。気味が悪いのでご主人の袖を引いたが、一向気にかけてくれない。そのうち、ご主人は、「よいしょ、よいしょ」と言いながら、相撲をとる格好をし始めた。しばらく、そうやって相撲をとっていたが、やがて、相撲をやめて、大きな声で「さようなら、さようなら」と手を振り始めた。

正気に戻ったご主人に何があったのかと聞くと、「若い女の人が現れて、一緒に相撲をとってくれと言った」という。その後、二人は何事もなく家に帰り着いた。

一種の幻覚状態と思われるが、何も刺激のない、暗い夜道が幻覚を誘発させたのかもしれない。狐や狸に化かされた話のある土地は多いが、いずれも、鉄道が通るとその話が無くなってしまう。夜更けに、暗い道をてくてく歩くというのが狐や狸に化かされる現象を引き起こしていたのだろうか。

それにしても、若い女の人が相撲をとってくれるのであれば、管理人も狐に化かされてみたい。
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by tnomura9 | 2005-06-14 07:36 | 話のネタ | Comments(0)

山童(やまわろ)

管理人が小さい頃、父親の仕事の関係で山村に住んでいた。そこは、奥深い山間の村で、村の南側を走る谷川を挟んで両側に山が迫っていた。隣村へ行く山道には両側に杉の並木が聳え立っていて、昼でも暗かった。そこでは、狐や山童(やまわろ、山に棲む河童)が日常的に出没していたのだ。

村には林業に携わっている人も多かった。彼らが、山で木を切ったときに斜面の途中に引っ掛かって谷川に降ろせないときは、酒を材木の側に置いて拍手を打ち、「やまわろさん、よろしくお願いします」と祈った。翌日山へ行ってみると、酒は無くなっており、材木は谷川へ落ちていた。

また、ある日は村の有線放送で「青年団の皆さんは、小学校に急いで来てください。山童(やまわろ)に小学校の生徒が襲われて家に帰れないでいます」という放送が流れた。学校帰りに小さなサルのようなものが道端の石に腰をかけていたので、子供が石を投げたら、そのサルのようなものの姿がすっと消えて、山のほうから雨のように小石が降ってきたため、子供たちが帰れなくなったということだった。

また、別の日は近所の親父さんが隣村の宴会から帰る途中で行方不明になったということで、捜索隊が出た。その親父さんは結局、山の中の棚田の中に裸で首まで埋まっているところを発見された。宴会から帰る途中、女の人に出会ってその人の家に招待された上、風呂に入れてもらったと思っていたらしい。

これらの話は、管理人が子供のときに実際にあった話で、そう昔の事ではない。今は昔話として絵本にしか出てこない狐や狸の話は、昔は、作り話としてではなく、日常的な事件として受け取られていたのではないかと思う。
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by tnomura9 | 2005-06-13 14:01 | 話のネタ | Comments(0)

こんな筈ではなかった

最近の国際情勢をみると、こんな筈ではなかったという結果になっているものが多いような気がする。イラク戦争にしても戦後統治がこんなに大変とは思わなかったろうし、中国の反日デモでも各方面で思わぬ影響に戸惑っている人も多いのではないだろうか。世界の歴史をみてもアメリカの独立戦争についてのイギリス軍や、ロシアに遠征したナポレオン軍についてもこんな筈ではなかったという結果になってしまっている。

未来を予測するのはそれほど難しいのだろうが、調査や状況分析が十分になされていなかった、どこか考えが甘かったということは否定できない。最近の韓国や中国の反日運動の高まりには不快感を持つ人も多いだろうが、両国の徹底的な反日教育の実態を知ればそれらの運動が何故起きてきたのかが理解できるだろう。反日教育を進めてきたのは誰かと言うともちろん当時の両国の政府である。なぜそうしたのかと言うともちろん両国の対外的、対内的な政治的事情からだろう。日本の与論が親米的なのも学校教育のおかげなのである。それも勿論日本の国内外の事情によってそういうふうに行われたのである。

また、靖国神社に祭られている人達は確かに国のために闘った人達であるが、その人達を戦争で死なせ、韓国や中国の人達に苦汁を嘗めさせた判断の誤りの責任は重い。日本も中国も韓国も国民を何処へ連れて行くかということについて指導者達は軽々しく考えてはならないと思う。開戦を決断する人は前線には行かない。前線で泥の中で死んでいくのは我々一般人なのだから。
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by tnomura9 | 2005-06-03 13:59 | 話のネタ | Comments(0)

電気自動車

三菱自動車が電気自動車の開発を公表した。軽自動車クラスで、現段階でも4時間の充電で150km走れるという。最終的には一回の充電で240kmの走行をめざし、販売価格も200万円以下に抑えるということだ。開発費も燃料電池車が1000億円単位なのに対し、電気自動車では100億円単位だという。

電気自動車の実力は慶応大学のELIICAなどで実証済みだ。しかし、自動車メーカーの心臓部であるガソリンエンジンが不要になること、また、ガソリンがいらなくなるので石油業界が大打撃を受ける可能性があることなどから自動車業界では一種のタブーだったようだ。三菱自動車は相継ぐ不祥事による経営困難から掟破りをやってしまったようだが、これを突破口にして一気に電気自動車の開発が進むかもしれない。実際、電気自動車の問題点は、蓄電装置の充電時間と充電容量だけだというところまできている。それについてもEcaSSなど新技術が実用化目前である。ガソリン自動車から電気自動車への流れはもう止められないのではないだろうか。

これからの自動車メーカの対応は、おそらくガソリンエンジンを発電のみに使用するシリアル型のハイブリッド車を普及させるということになるのだろうが、10年後は自動車のほとんどが電気モータで駆動されることになるかもしれない。石油自動車業界も産業構造の転換を避けられなくなるのではないだろうか。ガソリンの需要の減少と電力不足に対応する必要も出てくるかもしれない。

あまり先を見すぎてもうまくいかないだろうが、産業構造の根本的な変化の予兆があるときはそれに対する対応を怠ってはいけないと思う。
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by tnomura9 | 2005-05-12 06:10 | 話のネタ | Comments(0)

リストラ

リストラという言葉は聞くのも嫌な言葉だ。今までの努力で能力も社会的地位も確立したと思っていた中年のサラリーマンが突然退職を勧められたり、出向させられたり、降格されて現場の営業に回されたりする。家のローンは残っているし、子供たちも受験で金がかかる時期だ。経済的にも心理的にも辛いことだと思う。しかし、一番辛いのは会社から自分が要らない人間だと判断されたと感じなければならないことではないだろうか。この会社のためにいろいろと貢献してきた、この会社がここまで大きくなったことに対して自分もいささか貢献してきたつもりだ。それなのに、何故今になって会社からこのような仕打ちを受けなければならないのだろうかという思いである。

身につまされる話であるが、しかし、事実誤認があるような気がする。ひとつは会社を自分の家族か何かのように考えるところである。この会社は自分の会社だ、自分の家族だ、自分の家なんだという気持ちは大切なことで、この気持ちがあるからこそ社員が一丸となって苦難を乗り越えられるのである。年功序列制はこの家族意識を高めるのに重要な役割を果たしてきたのではないだろうか。年功序列制が実行可能だった時代はその家族意識を十分に支える機能があったと思う。しかし今の時代はそれを許さないほど競争が激しくなってきているのである。

家族関係ではその構成員の力よりも、その構成員がどの位置にいるかということが大切である。家長が優秀な人であればそれは幸せなことだが、そうでなくても、周りががんばって盛り立てることができる。しかし、家長以外の人が能力があっても家族内の序列が変わることはないのである。闘争は主に家の外に対して行われる。内部的なごたごたは序列の不変性によって解決されるのである。封建的であるがしかし内部の混乱によって家が機能しなくなって分解してしまうという危険を回避させてくれるのである。

今はいい意味の封建制が崩壊している時代なのである。会社を自分の家族とは考えられなくなっている。会社が自分を守り、自分がその会社に奉仕するという現代的な封建制が機能しなくなってきている。会社が自分の労働力を提供することによって報酬を得る場所というドライな契約関係に変化しつつあるのである。しかし、これは経営者も勤労者の忠誠を期待できない、勤労者も経営者の保護を期待できないという厳しい環境を作り出してしまう。今の時代に蔓延している何ともいえないイライラの原因である。

これからは自分が誰であるかよりも、自分は何ができるのかが問われる時代なのである。リストラは嫌なものであるが現実なのである。現実に不平を言うより現実に対応して自分を変化させなければならない。そのことの重要さは、山一證券の旧社員で再就職の決まった人と決まらなかった人との差をみれば歴然としている。しかし、この状態が続いていくと会社の求心力がなくなり、空中分解していく危険性があることを、経営者は肝に銘じておかなければならない。
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by tnomura9 | 2005-05-11 08:23 | 話のネタ | Comments(0)

ブログ二日目

これが、2回目の投稿だ。一日目の記事を読み返してみたら、ガチガチに緊張していたのがわかる。誰かが読むかもしれない文章を書くのは刺激になる。

本当に、ブログに文章を書いたら誰が読むかわからないのである。どこかの県立病院のお医者さんが、毎日の診察での愚痴などを書いていたら、患者さん本人がその記事を見て病院に抗議したため、病院を辞職したそうだ。そのブログは非公開でおまけに匿名で書いたにもかかわらず、患者さん本人には誰のことを書いているか分かったらしい。気の毒な話だが、ブログに文章を発表する怖さを物語っている。

ブログのうわさが高いので登録してみたが、確かに簡単だ。自分のホームページを見ながら、投稿や編集が簡単にでき、書いた日付まで記録される。スキンはセンスがよくて、自分で作るよりはずっと格好がいい。ブロガーが増えるはずだと思った。

単なる日記ならここまで熱心に記入したりしないのではないか。自分以外の人が読んでくれるかもしれないという気持ちが、書く事の面白さを倍増させる。無名の人の書いた文章でも、誰かに読んでもらえるという所がブログの魅力だろう。

読むほうもそのつもりで読んでいる、作家や芸能人の自分の生活とはかけ離れた体験を読むのも面白いが、自分に身近な事柄で他の人がどんな気持ちや苦労で生活しているかを覗くのもまた一興なのである。服装まで気にしないといけないフランス料理屋で食べるのもいいが、自宅でテレビとビールで焼き魚をつつくのもいいのである。

きょうテレビを見ていたら、アメリカのメトロポリタン美術館の収蔵品で、エジプトの高官の墓から出土した副葬品が写っていた。それは、金銀の財宝ではなく、当時の生活を模した木製のミニチュアなのである。保存状態が良かったためか色も鮮やかで、当時の人々の生活を生き生きと写している。

穀物倉では男が篭に入れた小麦を蔵へ空けている。その蔵の底には当時の本物の麦粒が残っていた。蔵の外では書記がなにやら記録をとっているし。そのとなりの部屋では小麦からパンがこねられて焼かれている。また、サボったりしないように奥では監督が目を光らせているのである。さらに、別の部屋では牛が殺され、捌いた肉が場所ごとに切り分けられて天井から吊るされている。ナイル川では十数人のこぎ手のいる大きな船の編隊が航行しており、その中ほどの船の最後尾には墓の主人が蓮の花のにおいをかぎながら、自分のほうを向いて、両手を胸に当てて歌う、歌手の歌に聞き入っている。

4000年前もやはり、墓の主人のほうではない庶民は、このように生活していたのである。何の変哲もない日常生活で、何の変哲もなく暮らしている人々の気持ちがこのミニチュアに残されている。ブログに書かれていることも何千年も後の人に発見され、今の生活を推測する貴重な資料になる日がくるのだろうか。
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by tnomura9 | 2005-05-01 17:05 | 話のネタ | Comments(1)