カテゴリ:話のネタ( 245 )

歳をとると

歳をとると環境設定がどうでもよくなる現象

しみじみと同感。思わずリンクしてしまった。
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by tnomura9 | 2007-03-31 07:29 | 話のネタ | Comments(0)

書評 - 「複雑ネットワーク」とは何か

『「複雑ネットワーク」とは何か』 増田直樹、今野紀雄著 講談社ブルーバックス を読んだ。

複雑ネットワーク(complex networks) についての優れた入門書だ。ネットで書評を検索しても大体同じ意見のようだ。前半でスモールワールドやスケールフリーネットーワークの理論的な解説がされている。明快な文章で、数式がなくても複雑ネットワークの特徴を解析するときのアイディアが直感的に分かるように書いてある。後半はスモールワールドやスケールフリーを現実の伝染病や通信ネットワークやニューロンやたんぱく質のネットワークに適用した応用例が解説してある。

コンピュータネットワークや、人間関係のネットワークなどを抽象化していくと、結局は頂点と枝を結んだ網の目になってしまう。その網の目も頂点の位置や枝の長さには本質的な意味はなく、頂点と頂点が結ばれているかどうかだけが問題になる。したがって、空間的な頂点の位置は勝手に変更しても網の目であるグラフの意味は変わらない。つまり、どんなネットワークでも、グラフの性質を変えずに頂点を全てひとつの円の上に並べてしまうことができる。

このように、ネットワークの頂点をひとつの円の上に並べてしまうことによって、グラフの一般的な性質を数学的に扱うことができる。別に円に固執する必要はないのだが、円に並べることで視覚的に直感的な理解ができる。

そうすると、複雑ネットワークの性質の指標として、2頂点間の距離、頂点のクラスタ性、頂点の次数などを考えることができる。

2頂点間の距離とは、ある頂点とある頂点が最少何本の枝を介して結合しているかということだ、枝の長さにはまったく考慮が払われない。また、クラスターとは3つの頂点が枝で結ばれて三角形をなしていることを言う。これは枝で結ばれたどの二つの頂点もそれ以外の頂点と結ばれていることを示し、内輪のつながりが強いことを示している。複雑ネットワークのうちクラスターが多く存在するものをクラスター性が高いという。クラスター係数は個々のネットワークの全ての頂点で作成可能な三角形の数を分母として、実際にそのネットワークに現れた三角形の数を割ったもので1から0までの値をとる。このクラスター係数を、ネットのクラスター性の指標とすることができる。

このクラスター性が適度に高く、かつ、2頂点間の平均距離が小さいものをスモールワールドと呼ぶ。このスモールワールドが現実のネットワークの性質に当てはまることが多いので、最近マーケティングなどでよく取りざたされている。実際、俳優が映画で共演したという関係で俳優のネットワークを調べると、最大6の距離(最小の繋がり)で全ての俳優と俳優が関係付けられてしまう。これは、クラスター主体のネットワークにわずかなショートカットの枝ができるだけで2頂点間の平均距離が激減するためだ。スモールワールドの平均距離が意外に小さいという性質を考えてみると、ブログなどの口コミ情報の伝播が思ったよりも速く広いことに説明がつく。

スモールワールドの頂点から出る枝の数を次数というが、この次数の分布についてそれが、ベキ分布であると考えたものがスケールフリーネットワークだ。スケールフリーとは統計的な平均や分散などが計測できない分布のことを言う。このようなスケールフリーの複雑ネットワークは、頂点の数が増殖していく場合にみられる。その際、次数の多い頂点には新しい枝ができやすく、次数の少ない頂点には枝がつきにくいと仮定したものがスケールフリーネットワークだ。実際の例としては、ホームページへのリンクを考えるとよい、人気の高いホームページには次々にリンクが増えていくが、不人気なホームページにはいつまでもリンクがつかない。

スケールフリーネットワークの一番の特徴は非常にたくさんの枝がつながるハブという頂点が出現することだ。コンピュータネットワークもスケールフリーネットワークだ。したがって、コンピュータネットワークが、ランダムに攻撃を受けてもあまり被害はないが、ハブを集中的に攻撃されると非常な混乱が起きる。伝染病の感染が広がる場合も似た性質があり、スーパースプレッダーというとくに広い範囲に病原体を感染させる個人がいることがある。

このように、ネットワークの性質を、スモールワールドやスケールフリーネットワークと考えることでその特徴を把握し、対策をとることができるのだ。たとえば伝染病の防疫の場合、ある人をランダムに取り出して免疫し、その友人を選んで免疫するというやり方でやがてハブとなる個人を免疫することができるようになる。この方法はリング接種とよばれ、実際に行われている。

通信や人間関係や伝染病の経路などさまざまなネットワークを頂点と枝のネットワークとして抽象化して把握することによっていろいろ面白いことが分かってきているようだ。
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by tnomura9 | 2007-03-30 22:59 | 話のネタ | Comments(3)

教育基本法

フィンランドでは、教育費は鉛筆から消しゴムにいたるまで無料だそうだ。教育費をとらないのではなく「とってはいけない。」そうなのである。

習熟度別クラス編成は廃止され、「様々な個性の生徒集団」を同じ教室で教えている。授業に参加しない子供がいても、ひどく叱られる事はない。先生は子供の特性に応じて、最も効果的な方法をとる。

他人と点数を比較するようなテストはなく、成績はあくまでも個人の習熟度に対してつけられる。また、個人の知識を増やすだけの教育を目指すのではなく、問題を解決する能力を育てる。それも、他とのコミュニケーションや共同作業をつうじて、個人の能力も伸ばしていくのである。

知識は中立のものではなく、ただひとつというものでもなく、しかも、社会的な脈絡の中で作られるものだという「社会構成主義」の考え方だ。個性は尊重され、しかも、他の個性との調和を図りながら、問題解決の能力が育てられていく。

こんなうそのような教育がフィンランドでは行われ、OECDの学習到達度テストで世界一の成績を納めているのである。フィンランドの教育関係者がしばしば語る言葉は、「教育というボートに乗った子どもは一人たりともボートから落とせない。」というものだそうだ。

福田誠治著、『競争しなくても世界一 フィンランドの教育』を読むと、フィンランドの教育法に触れた日本の教育現場の衝撃と日本の教育を変えていきたいという情熱が感じられる。

騒がれている教育基本法の改正のニュースを聞くと、愛国心ばかりが報道され、世界の教育の進歩がどのようなものか、日本の教育をどうすればよりよいものにすることができるのだろうかという現場サイドの話が全く見えてこない。有識者による教育審議会というものの実力を疑いたくなってしまう。高度に専門性の必要な教育という分野に、知識も経験もない素人が思いつきで発言しているようにしか見えないのである。

行政は現場の実態や意欲を無視して、机上の空論を現場に押し付けるのではなく、むしろ、日本の教育を、子どもたちをよりよく育てることのできるものに変えていきたいという、現場の情熱を援助する立場に立つ必要がある。

子供たちから夢を奪い、大量の自殺者や、不登校や、ニートを作り出す今の教育制度は、市民フォーラムでやらせの質問を仕組む文部科学省を含めてシステム疲労の状態にある。自立的に学習する子供を育てることや、親の経済状況に関係なく能力に応じて高度な教育をうける機会を平等に与えることは、強要された見せ掛けの愛国心より、ずっと国の安全保障に繋がるのではないだろうか。
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by tnomura9 | 2006-11-13 23:10 | 話のネタ | Comments(0)

新国(にいこく)

管理人のお役所にたいするイメージは、なんとなく、硬直した組織、非効率、融通が利かない、現場とズレているといったマイナスイメージがあるがそうではないところもあるようだ。

国土交通省北陸地方整備局新潟国道事務所

サイボウズの導入事例のページから引っ張ってきた記事ではあるが、それを割り引いても、全員で情報を共有して、臨機応変に仕事が行われている様子が分かる。

上海の汚職事件など、官僚組織の強い所では、汚職の発生が必須のようだが、それは、情報の共有が行われていないからだろう。グループウェアの利用で管理者サイドからの情報だけでなく、現場からの情報が迅速に届くようになったら、そういうシステム的な欠陥も防ぐことができるのではないだろうか。

ITが真に有益な技術となるキーポイントは、「情報の共有」だろう。オーウェルの『1984』では、情報化が進むことで個人が完全に管理される社会が描かれているが、オープンソース活動の隆盛を見ると、そうではない方向に進んでいるようにも見える。ITの発明が人間をどちらの方向に引っ張っていくのか興味深い。
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by tnomura9 | 2006-11-03 17:46 | 話のネタ | Comments(0)

博覧強記

今日は管理人は一日中誰一人とも会っていない。人と対面する商売なので、こういう日は日ごろの疲れがとれてほっとする。

昨日、だらだらと日本酒を飲みながら文庫本を読んでいたら、朝の4時になっていたので、それから寝て起きたのが12時近かった。

何を読んでいたかというと、田辺聖子の『人生は、だまし だまし』という著者の警句集だ。実は、『芋たこなんきん』を見て以来、田辺聖子氏の夫である「かもかのおっちゃん」が気になってしかたがなかったので、書店で文庫本を買ってきていたのだ。本のほうにもどるが、著者と、フィフティちゃん(五十女)と、イチブン氏(男の一分)とちょっと言葉が不自由になったかもかのおっちゃんの酒を飲みながらの会話のなかで警句が生まれていく。たとえば、
女は愛されていると確信したときに別れられる種族である。

などには、そういうものなのかとひどく感心させられた。

だが、管理人がひっかかったのは、話の端々に出てくる著者の古典の素養だ。源氏物語の中で、紫式部が理想の女性像である紫の上にどうして子供を生ませなかったのかの説明などは、そういうことだったのかという目から鱗の思いがした。

それで、2時過ぎにごそごそとおきだしてモスバーガーで昼飯を済ませた管理人は、書店で著者の『百人一首』を買い、喫茶店でカプチーノを啜りながら読み始めた。そして、納得した。

博覧強記、古典を読み込むというのはこういうことなのだ。時を超えて愛読される古典は、これに魅了された数え切れない人たちの研究が残されている。それらでイメージを膨らませながら原典を読んでいくと、人間というものの喜びや悲しみ、執念といった一言では言い表しがたい変わらない真実がひしひしと伝わってくるのだ。

単細胞の管理人にとっては、恋などというものは所詮、胸の谷間なので、運命に翻弄されながらその中で必死に恋していかなければならなかった王朝の人々の人生に圧倒されてしまった。

博覧強記というと時代遅れのイメージがあるが、このスパイスがないと、味気ない人生になってしまうかもしれない。

しかし、管理人の器ではせいぜい錯乱狂気になるのが関の山だろうから、やめとこ。
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by tnomura9 | 2006-10-22 18:41 | 話のネタ | Comments(0)

結局は人

フォーディズムもセムラーイズムもどちらも有効な組織法なのだが、結局どちらもターゲットとしているのは人なのだ。

フォーディズムは、個人の能力の一部分を利用することで、個人の能力のばらつきの影響を抑えようとしているし、セムラーイズムのほうは、人と人とのコミュニケーションに工夫をすることで、個人の持つ多様な能力をできるだけ活用できるようにしている。

その結果、フォーディズムでは組織としての安定性は保てるが、組織のパフォーマンスを自在に変更したり、組織そのものの欠陥を修正することが難しくなる。

一方、セムラーイズムでは、組織は柔軟に行動を変えることができるが、その能力は組織の要員の個人の能力に強く左右されることとなる。また、組織内のコミュニケーションがうまくいかないと組織自体の崩壊の恐れもある。

結局のところ、どちらの方式をとるにしろ、組織全体の舵を取る経営者は、人間というものをよく知ってないといけない。人間の強さや弱さ、向上心と堕落にむかう気持ちのように、両極に揺れる人間の心理を理解できていないといけないのだ。

数学の公式のように組織を作ればそれで問題は解決だということにはならない。昨今のリストラのように数字だけで機械的に判断し行動するのなら、組織をどう変えようといい結果は生まないだろう。本当に役立つ人材は報酬だけでは動かないものだ。報酬ではない何かを皆に与えることのできない指導者のひきいる組織では、この変化の多い現代の荒波を乗り越えることは無理だろう。
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by tnomura9 | 2006-10-04 21:24 | 話のネタ | Comments(0)

現場主義か、管理主義か

『セムラーイズム』の本を読んで以来、軽い興奮状態が続いている。それは、長年興味があった組織の最適化という問題に、セムラーイズムが光を投げかけてくれるような気がするからだ。

組織はどうして有効なのか、また、有効なはずの組織の行動にどうして不都合が生じてくるのか。本当に問題解決力のある組織を作るのにはどうすればよいのか、つまりは、組織の本質とは何なのかという疑問に、セムラーイズムとフォーディズム(フォード社方式の生産形態)を対比することで答えることができるような気がするのだ。

セムラーイズムとフォーディズムの情報の流れを見てみると、前者は情報がボトムアップで上昇していくが、後者はトップダウンで下降するという違いがある。しかし、全く反対方向の情報の流れを持ちながら、両者とも有効な組織なのだ。

最近のフォード社やGM社の凋落をみると、フォーディズムの官僚的な組織の硬直化がいかにも悪者のように思われ、日本は現場を大切にしたから頭角を現してきたのだという意見に傾きやすい。しかし、昨今のなりふりかまわないリストラぶりをみるとその目指しているところは全くアメリカ型の官僚主義だ。どうして、そんなことになってしまったのだろうか。間違ってはいけないのは、フォーディズムは有効であったからこそ世界を席巻したのだということだ。

フォードの工場というと、ベルトコンベア式の大量生産を思い浮かべるだろう。そこで働く人は、モダンタイムスに見られるように定型的な作業を強制され、非人間的な工具に貶められていると考えるかもしれない。しかし、フォード式の生産の大きな利点は、流れ作業による大量生産ではなくて、労働者の技術の平準化なのである。

自動車という複雑な製品を一人の職人で組み立てるためには、大変な技術と知識を要求される。したがって、そういう職人を育てるためには多大な時間が必要となる。また、職人の腕によって、出来上がった製品の品質はばらつきが大きくなるだろう。そこで、フォードは工員の関与する工程を制限することで、工員の育成時間を短縮し、技術のばらつきを小さくしたのだ。

デトロイトの巨大な工場は、自動車という製品の複雑さを、二次元に展開したものだったのだ。フォードは高度な技術を持った職人によって作られていた自動車の製造を、それほど技術力を持ち合わせていない工員の単純な作業に分割し、それを巨大な工場によって組織化することによって高品質にすばやく施行することができるようにしたのだ。

フォード型の生産方式では、基本的に現場からのフィードバックは必要ではない。現場の工員は限られた能力しか持っていないし、製品の品質を決めるのはむしろそのような労働を組織化する側つまり設計者にあるからだ。したがって、このシステムでは現場からのフィードバックは設計者に届きにくい。新製品を製造する際に、思わぬ製品トラブルや品質の劣化が起こりやすい可能性は否定できないのだ。

しかし、それにも関わらずフォード型の生産方式は強力だ。非熟練者の安い労働力を利用して、高品質の製品を速く作ることができるからだ。

一方、セムラー型の生産現場では、ひとつのグループにひとつの製品が割り当てられる。ただし、その中には多様な能力を持った要員がいる。工場現場要員、エンジニア、事務員、営業部員、それに管理職者だ、これらには正式な上下関係はなく、リーダーシップを誰が取るかはグループ内で自然に決まる。現場要員がリーダーシップをとった例もある。情報は全員で共有され、問題解決もグループで行う。製品の製造も流れ作業ではなく、製品が完成するまでひとつのフロアで行うセル型になることが多い。工場現場要員も単純作業をひとつだけ受け持つのではなく、交代にさまざまな工程を受け持つのだ。したがって、例えば、設計の問題で加工にトラブルが起きた場合それは設計者にすぐにフィードバックされ迅速に解決される。

セムラー型の生産現場では、製造の上流下流の間でのフィードバックが非常にはやく、製品のトラブル処理や改良が迅速に行えるという特徴がある。しかし、その利点を発揮するには、個々のメンバーの能力が高く、またお互いに十分にコミュニケーションが取れていなければならない。また、全員がある程度製品の概要を把握しておく必要もある。グループのメンバーにかなり高い能力を要求するシステムなのだ。逆に言えば、グループの要員は自分の能力の一部だけを使って仕事をするのではなく、自分の中にある広汎な能力をフル活用しているともいえる。

セムラー型の生産方式の経済性は、フィードバックの速さを武器に、高品質や改良をすばやく行うということで、製品価値を高めながら生産の速度を上げるという二重の要求に答えることで発揮される。しかし、要員を簡単に促成することはできない。要員の養成にはコストがかかるのである。

したがって、セムラー型の組織は、定型的な製品を作るのには少々オーバースペックになってしまう。むしろ、3ヶ月に一度新製品を出さないといけないような変化の早い製品の現場に向いたシステムではないだろうか。冒頭に上げたGMの例は、フォード型の大量生産が現代の製品の変化の速さについていけなくなったことを示しているのかもしれない。

以上のことから、フォード型の生産では、製品の複雑さに製造方法の組織化で対応したが、セムラー型の生産では製品の複雑さと変化の速さに、製造に携わる要員の能力の複雑さで対応したといえる。いずれにしても、製品の生産の為に組織(システム)が必要とされるのは、製品そのものの複雑さ故なのである。また、フォード型も、セムラー型も方式は全く異なっていても、目的とするところは、高品質の製品をいかに経済的に製造するかということなのである。

最近、医療事故や、医療行政による患者の追い出しや医師不足などの問題などが新聞をにぎわしているが、これは、対象とする医療や介護の問題の構造が複雑なため、現在の医療のシステムでは十分に対応できないからではないだろうか。経済的な面からのみ一律に在院日数を制限したため、長期のリハビリの人が切り捨てられたり、医療の機能そのものに齟齬をきたしてきているような気がする。いたずらに個人の能力や制度を維持する費用を問題にする前に、医療というもののもつ内部構造の複雑さを分析し、その品質と経済性を両立させるための組織(システム)の最適化を考えるべきではないのだろうか。
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by tnomura9 | 2006-10-02 19:28 | 話のネタ | Comments(0)

セムラーイズム 全員参加の経営革命

先日、本屋で、ビジネスコーナーの辺りをぶらぶらしていたら、平積みしてあった黄色の表紙の文庫本が目に留まった。

『セムラーイズム 全員参加の経営革命』というタイトルだったが、表題だけでは内容の見当がつかなかった。ぱらぱらと、ページをめくったら、従業員参加型の経営の本らしい。著者が、ブラジルの実業家で、リカルド・セムラーという人だった。著者がプラジル人というのが珍しかったので買うことにした。

読み始めてあっけにとられてしまった。内容は著者が21歳のときに、倒産寸前だった父の会社「セムコ」を引き継いでから、ブラジルで就職希望ランキング・トップの会社にまで育て上げた経営改革の道のりを記録した自伝だったが、その改革の内容が尋常ではないのだ。

従業員を小グループにわけ、資材の調達、ラインの設計、営業計画などの経営を積極的に委譲する。会社の財務内容その他の情報を閲覧自由にし可能な限り情報の透明性を高め、利益の配分や自分の給与まで従業員が決めることができる。縦割りのピラミッド型組織を廃止し、中間管理職を極力減らし、また、管理職間の水平的な交流を密にする。職階の階層は3層だけで、管理職同士の交流はもとより、上級管理職と一般職員との交流も容易に行うことができる。というより、管理職は必要に応じて新たに作ったり、廃止したり、他の職種に異動したり、流動的なのだ。また、従業員には、会社の経営に参画させるためにバランスシートの読み方などの経営知識を教育するが、必要な場合、従業員や管理職の独立開業を積極的に支援する。従業員が独立することによって、会社は人員削減と、信頼できるアウトソーシング先を手に入れることができる。厳格なピラミッド構造と比べると、とらえどころのないアメーバのような構造なのだ。もちろん、組織図などはどこにもない。

その改革の内容はここで一口にいえないほど多様で急進的だ。同心円型組織、サラリー自主決定制、部下による上司のパフォーマンス査定、社員の企業家としての独立を助けるサテライト・プログラムといった制度をみただけでもどうしてそんな会社がやっていけるのだろうと不思議な気持ちになる。

一言で言うと、徹底的に「非官僚的な」組織なのだ。

ほんとうにこんな会社があるのだろうかと「セムコ」のホームページを検索したらあった

セムコは確かに民主主義的な会社だ。経営方針や、管理職や、給与まで従業員の意向を反映できる。しかしながら、それは甘い職場ではない。能力のない従業員や管理職は自然に排除されるシステムになっている。また、このシステムの目指すところは、高度の効率化だ、現場からの要求に、すばやく、無駄なく応じることが要求される。人員削減を行い、情報機器を駆使した管理を行い、経営トップの意向が迅速に伝達されるピラミッド型の組織以上に、効率的なのである。

従来の会社が形だけのカンパニー制をとり、結局、同じ市場を会社内で取り合うことになったような権限委譲とは違っている。一見非常識なアメーバ型の組織は、徹底して効率的に会社内で情報を共有するように最適化されているのだ。ピラミッド型の組織では、異なった部署の間で連絡を取ろうとすると洪水のような文書と時間が発生するが、「セムコ」型の組織では、担当者が会って連絡を取ればそれで済んでしまう。文書の発行など必要がない。また、経営方針の決定なども上意下達ではないので、上級管理職の思い込みで誤った判断をしてしまうことが非常に少なくなる。

管理人が、最近の医療行政の混乱にみられるような、巨大な組織の抱える問題解決力のほころびを見るにつけ、組織の大きさや複雑さの適正度や、現場の実情にそった適切な経営判断や、情報の共有化や、人的資源の活用や、組織の硬直化を防ぐ方法について漠然と考えていたことが、20代の天才経営者によって既に見事に実現されていたのには驚いた。

そうはいっても「セムコ」の成功が、リカルド・セムラーという天才の舵取りがなかったら実現しなかっただろうということは間違いない。民主的な組織にすれば全ては解決するというような問題ではないのだ。民主的な組織が、適切な経営を行えるためには、微妙な舵取りが必要なのである。「セムコ」が、リカルドの手を離れて存続できるのか。アメーバ型の経営方式が、はたして、これからも増殖していき、21世紀型の経営の型のひとつとして確立されていくのかどうか興味のあるところである。
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by tnomura9 | 2006-10-01 17:43 | 話のネタ | Comments(1)

生命の起源

生命の起源を考えたときに、その原動力となったものは何かというと、それは自己組織化ではないだろうか。自己組織化を直感的に理解するには、ライフゲームを思い出すと良い。個々の粒子の間に相互作用があると、個々の粒子がランダムに活動しているにもかかわらず、全体としては、ある秩序や、パターンが現れてくるのだ。

細胞膜を構成している脂質二重層がいい例だ。親水基と疎水基を持つ脂質を水中に入れると、親水基同士は外側に、疎水基同士は内側に並んで脂質の二重層を自動的に形作っていく。この場合も、個々の脂質分子はランダムに運動しているにもかかわらず、それらの相互作用のために全体としてはきれいに整列した脂質膜を形成するのだ。

生命体の単位としての細胞は細胞膜よりはるかに複雑な組織化が行われているが、自己組織化という観点からは共通の性質がみられる。それは、その構成分子の相互作用のために、個々の分子のランダムな運動が全体としては組織化されていくということだ。

自己組織化は何も生物に見られるだけではない。社会や、国家といったものも国民が自己組織化したものなのだ。これも社会制度や、経済活動や、教育などといった個人と個人の間の相互作用が総体としてまとまりのある国家を形作っている。

安定した国家も、内戦で分裂した国家も基本的には個人の間の相互作用が全体として形作る自己組織化の現われなのだ。したがって、イラクの混乱も単に制度を作ったり、軍隊を投入したりしても収拾できないかもしれない。逆に個人と個人のあいだのミクロの相互作用をかえることで思いもかけない安定を導き出すことができるかもしれないのだ。

企業の運命も似たようなものがあるのではないだろうか。壮大なマクロな経営方針が意外に役に立たず、社員の間の交流の性質を少し変化させることで飛躍的な発展をするということもあるような気がする。企業の再建の名人たちは一様に現場の意見を聞くことが好きである。

自己組織化の難しいところは、要素間の相互作用が非線形であるため、理論的に大域のパターンを予見できないことだ。しかし、年々コンピュータの性能も上がっているし、シミュレーションという手法でそれを解決できるようになるかもしれない。いずれにしても大事なことはシステムの振る舞いを自己組織化という観点から見直してみることなのだ。
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by tnomura9 | 2006-09-29 01:53 | 話のネタ | Comments(0)

TOC(制約理論)の事例

TOC(制約理論)の日本における事例を見つけた。日本総研がコンサルタントをした、グンゼの子会社のタッチパネル製造のエルマ株式会社の事例だ。なんと製品製造のリードタイムが5分の1になってしまった。

小説「ザ・ゴール」が現実に
グンゼ株式会社電子部品事業部様/エルマ株式会社様 TOC適用による新生産システム構築プロジェクト

TOCの面白いところは、トヨタの看板方式のように現場のノウハウの集積や、理想を掲げてそれを追及していくという経験主義ではなく、現場の観察をもとに、生産ラインのシステムとしての振る舞いをモデル化して、そのモデルを最適化するためにはどうすればいいのかというトップダウンの考え方をしているところだ。

もちろん、そのモデルが現実のラインの振る舞いの本質を表していなければこの方法は机上の空論となるが、しかし、そのモデルがしっかりしていて、汎用性のあるものであるなら、同じような手法をいろいろな種類の生産ラインに当てはめることが出来る。汎用性において看板方式をはるかに凌ぐ可能性があるのである。

抽象的なモデルの振る舞いを、はっきりと制御できれば、様々な現場への応用が容易で、迅速になる。同じようなことは、論理学の形式的体系とモデルとの関係にも言える。形式的体系の定理はどのようなモデルに対しても定理であるので、いったん形式的体系とモデルとの対応関係が確立されれば、モデルのさまざまな振る舞いを予測することが出来るのだ。統語論が確立している形式的体系では、それに意味づけをするモデルの振る舞いを完全に予測できる。

プログラム開発の場合も、Racc の例でも分かるように、統語論的な構造が十分に研究されていれば、実用的なプログラムの開発もスピーディに行われるのだ。現実に起きるいろいろな現象を統語論的構造と意味論的現実主義にわけて考えてみることは大切なことのような気がする。
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by tnomura9 | 2006-04-10 19:39 | 話のネタ | Comments(0)