カテゴリ:話のネタ( 245 )

九州王朝説

九州王朝説とは古田武彦によって提唱された、7世紀末までに九州に日本を代表する王朝があり、太宰府がその首都であったという説だ。

この王朝の版図は朝鮮半島の南部と北九州だったが、663年の白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗戦してから力を失い、畿内の大和朝廷にとって変わられた。大和朝廷はこの王朝の記録を残さないため、日本書紀と古事記にこの王朝の事績を自分の王朝のものとして取り入れたという説だ。

後漢書の東夷伝に「建武中元二年(57年)、倭奴国、貢を奉じて朝賀す。使人自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武賜うに印綬を以てす」という記事があり奴国を倭国の南端と記述しているが、朝鮮半島の南部にも倭国の版図があったからだろう。つまり、倭国を朝鮮半島南部と北九州からなる国だと認識していたことになる。

これは、1世紀に既に朝鮮半島と北九州を頻繁に行き来する高度な航海能力を倭国が持っていたことを示している。おそらく魏志倭人伝の奴国ではなかったのだろうか。

考古学界では認められていないようだが、最近これを支持する考古学的な発見もあるらしい。


この王朝の墳墓が前方後円墳だった。王朝が滅びると同時に朝鮮半島の前方後円墳も北九州のそれも作られなくなった。宮崎の西都原古墳の地下式横穴墓は海の民の文化を示唆するが、前方後円墳は北九州王朝のそれに起因するのだろう。邇邇藝命がこの九州王朝をルーツに持っていたと考えることもできるかもしれない。

九州王朝の大陸文化との密接な交流を見ると、文化レベルの高さを想像できる。宮崎にあってもその恩恵によくさなかったことはないだろうと思う。

魏志倭人伝によって邪馬台国を眺めたときに、文字のない原始的な社会をイメージしてしまうが果たしてそうなのだろうか。

朝鮮半島を通じた大陸の文化との頻繁な交流をしながら原始的な社会のままだったとは考えられない。卑弥呼の鬼道にしても原始的なシャーマニズムというより道教の素養のもとでの呪術だったのではないだろうか。鏡に呪術的な力があると考えるのは道教の考え方らしい。航海技術にしても原始的な社会と考えて連想するより遥かに洗練されていたのだろう。鉄の精錬技術をもち、鉄の武器を作り、絹布を織り、外洋を航海する帆船を持つような社会が未開な社会だろうか。

邪馬台国の位置を論じる場合に大陸に比べ文明が遥かに遅れていたという思い込みが妥当な推論を邪魔するのではないだろうか。

[PR]
by tnomura9 | 2017-05-05 23:44 | 話のネタ | Comments(0)

天孫降臨

邇邇藝命は高天原から筑紫の日向の高千穂の久士布流多気(くじふるたけ)に天降ったと言われている。いわゆる天孫降臨だ。

この時邇邇藝命は「この地は韓国(からくに)に向かい、笠沙(かささ)の岬まで真の道が通じていて、朝日のよく射す国、夕日のよく照る国である。それで、ここはとても良い土地である」(「此地者 向韓國 有真之道通笠紗之御前 又此地者 朝日之直刺國 夕日之日照國也 故 此地甚吉地也」『古事記』)と言ったと古事記には書いてある。

この高千穂が高千穂町であるとすると、笠沙の岬は延岡市の愛宕山に比定できる。愛宕山は邇邇藝命が木花咲耶姫と出会った場所とされている。しかし重要なのは韓國(かんこく)に通じているという言葉だ。邇邇藝命の旅立ちの起点が北九州であることを示唆する言葉だ。邇邇藝命が宮崎に邪馬台国を開いのだとすると、邪馬台国がなぜ伊都国との外交を重視していたのかが分かる。

宮崎の邪馬台国は、魏志倭人伝の記述からは海の民の影響が強いことを示しているが、支配者のルーツは北九州なのかもしれない。しかし、邇邇藝命が邪馬台国の開祖者であれば、天照大神は卑弥呼ではありえないことになる。

宮崎県には天孫降臨の場所の候補としてこの高千穂町とは別に霧島連峰の高千穂の峰がある。しかし、これは邪馬台国が宮崎平野に進出した後、天孫降臨の場所を高千穂の峰に変更したのではないかとも考えられる。

日本書紀には邇邇藝命が崩御したとき筑紫(つくし)の日向(ひむか)の可愛之山(えのやま)の陵(みささぎ)に葬られたという記述がある。延岡市の可愛岳には古墳があり宮内庁の参考地に指定されている。西郷隆盛が軍を解散した地としても有名だ。

魏志倭人伝の邪馬台国が宮崎平野にあったとすると、もともとあった海の民の部族を北九州の勢力が征服統治したということではなかったのだろうか。


[PR]
by tnomura9 | 2017-05-05 22:58 | 話のネタ | Comments(0)

花弁状住居

宮崎では出土するが、他の土地では見つかっていない遺跡に『花弁状住居』がある。竪穴式住居の周囲に複数の小部屋を持ったものだ。


同時期に脚部がエンタシス上に膨らんだ特徴的な『B種高坏』も発見されている。ところが、これが魏志倭人伝の次の記述ともよく当てはまっているのだ。

「家屋があり、寝床は父母兄弟は別である。身体に朱丹を塗っており、あたかも中国で用いる白粉のようである。飲食は高坏(たかつき)を用いて、手づかみで食べる。」

上のリンクの分布図をみると、花弁状住居は圧倒的に宮崎平野に分布している。邪馬台国が宮崎平野にあったという重要な傍証のような気がする。

これをみると宮崎平野の特殊性があるような気がする。北九州や畿内の文化は朝鮮半島との交流を強く感じさせるが、宮崎平野のそれは黒潮に乗って来たのではないかということだ。高度な航海術をもち、青銅器文化の影響をあまり受けていないのもそれを反映しているのではないだろうか。ただ、黒潮に乗ってきたのが大陸のどの文化だったのだろうかというのが分からないが。

邪馬台国に入れ墨の習慣があったこともそれと関係があるのかもしれない。魏志倭人伝では入れ墨の習慣について特記しているが、これは当時の中国や、朝鮮半島ではそのような習慣がなかったことを示しているのだろう。

西都原古墳には、地面に竪穴を掘り、さらにそこから横穴を掘って地中に玄室を作り被葬者を葬る『地下式横穴墓』が多く出土している。これは、日向、大隅、薩摩にまたがっているが、北限は西都原古墳群である。これも同地域の文化が北九州のそれと際立っている点だろう。

ただし、西都原古墳群の古墳から発掘された人骨については下顎のしっかりした人骨と、渡来人系の顎の細い人骨の両方が発見されているので、海の民と北方の民との交流が起こっていた可能性がある。

邪馬台国が北部大陸との交流を重視していたのは魏志倭人伝でも明らかだが、その文化には海の道の影響が色濃かったというのもまた事実だろう。


[PR]
by tnomura9 | 2017-05-05 12:18 | 話のネタ | Comments(0)

生目古墳群

宮崎県の古墳群というと、西都市の西都原古墳群が有名だが、宮崎市内には生目古墳群がある。これは古墳時代早期では九州最大の首長墓群だ。

魏志倭人伝には「南に水行10日と陸行1月で女王の都のある邪馬台国に至る。官に伊支馬(いきま)、弥馬升(みましょう)、弥馬獲支(みまかくき)、奴佳鞮(なかてい)があり、推計7万余戸。」という記述があり、伊支馬という記述が生目という地名と対応しているように見えて興味深い。

[PR]
by tnomura9 | 2017-05-05 02:14 | 話のネタ | Comments(0)

銅鐸と邪馬台国

まず次のサイトの銅剣と銅鐸の分布図を見て欲しい。


銅剣や銅鐸は北九州から近畿にかけて、瀬戸内海沿いに広く分布しているのが分かる。しかし、宮崎県からの出土はほとんど無い。このことが宮崎平野が多くの前方後円墳が存在するにもかかわらず邪馬台国の比定地から全く外されている理由の一つだろう。

しかし、銅鐸は3世紀に忽然と姿を消し、発見されるときも地中に埋められた状態で見つかっている。古墳の副葬品としては発見されていないのだ。つまり、銅鐸は故意にその使用を禁じられたのだと考えられる。銅鐸は宗教的な儀式に用いられたと考えられているので、何らかの外圧がなければ廃棄されるはずのものではない。何かの宗教上の異変がおこったのだ。

銅鐸の用法は長らく謎だった。というのも、古事記や日本書紀には全くその姿を表さないからだ。また、魏志倭人伝の邪馬台国の風俗に関する記述にも銅鐸については述べられていない。つまり、邪馬台国には銅鐸を神事に使うという宗教がなかったのだ。そうであれば、神武東征が邪馬台国から発したのだとすると突然の銅鐸の廃棄についても説明がつく。神武天皇が大和地方を支配したあと、古来の宗教の銅鐸は廃棄させたのだ。

したがって、先に述べた分布図で銅剣や銅鐸が発掘されていない宮崎は、それゆえに邪馬台国の重要な候補地になるといえるのではないだろうか。

[PR]
by tnomura9 | 2017-05-05 01:43 | 話のネタ | Comments(0)

水行10日陸行1月

魏志倭人伝では邪馬台国までの距離は南に水行10日陸行1月と書いてある。しかし、起点がどこかということは文脈で読み解かないとわからない。

陸行1月というと1日に10kmという超スローペースで移動しても 300km になる。これに水行10日を加えると軽く九州から出てしまう。

水行10日がどのくらいの距離であるかは魏志倭人伝を読んでもわからないが、船型埴輪の復元船で大阪から釜山まで渡った実験では34日で到着している(伴走船による2ノットの曳航を含める)。平均速度が3ノットとすると 5.4km/h、1日7時間航海すると37.8km/ 日、10日間で約 380km となる。

したがって、水行10日と陸行1月の到達距離はほぼ同じと考えられないだろうか。つまり、水行10日陸行1月とは、船なら10日、歩けば1月という意味ではないだろうか。

そうであれば、この水行10日と陸行1月の起点を伊都国と考えるとぴったり宮崎平野になる。南にという方位も問題ない。邪馬台国が宮崎にあったのなら、わざわざ船から陸行に乗り継がなくても船でそのまま行けると考えたほうが自然だ。

大陸との交流の中心は糸島市出土の遺物や、魏志倭人伝に「帯方郡の使者の往来では常に駐在するところ」との記載があることから考えても伊都国だったと思われるので、伊都国以降の国の方位と距離は伊都国を起点にしていると考えてもいい。わざわざ邪馬台国まで足を伸ばしたとは考えにくく、邪馬台国までの距離は聞き書きだった可能性が高い。水行10日または陸行1ヶ月といってもかなりアバウトな計算なのだ。

魏志倭人伝にはわざわざ伊都国が邪馬台国の支配下にあったとの記載があるが、邪馬台国が伊都国の支配権まで手中にするためには迅速な軍の移動が欠かせない。1ヶ月もかかって進軍しないといけないとすると九州の南の端の宮崎から北九州の伊都国を傘下に収めることなどできない。神武東征が実際にあったとすると宮崎から近畿へ大量の軍隊を運ぶ水運の技術があったことになる。邪馬台国は強力な水軍を持っていたと考えると辻褄が合うのではないだろうか。西都原遺跡から出土した埴輪の船は大型で多数の漕手を持ち外洋も航行できる準構造船だ。

邪馬台国への起点を伊都国と考えれば、謎は一気に解ける気がする。

追記

西都原遺跡の古墳から出土した舟形埴輪は平成17年に復元され、重さ数トンの石棺をいかだに乗せてこの船で熊本から大阪まで34日で曳航するという実験航海を行いデータを収集した。石棺曳航時の漕行で2ノット、海流に乗った場合5ノットの速度が出たようだ。帆走も試みられている。引き船単独の走行なら平均速度3ノットは実現可能だろう。

miten 宮崎の埴輪(2)舟形埴輪

復元された船の写真は次のページで見ることができる。

古代船の復元|大王のひつぎ実験航海事業

追記その2

潮の流れは潮汐によって方向が反対方向に変わってしまうので、これを利用すれば手漕ぎの船でも行きも帰りも速度を稼ぐことができたのではないだろうか。海上保安庁のウェブサイトでは潮流のシミュレーションができる。


古代でも水行10日というのは結構な距離だったのではないだろうか。

追記その3

古墳時代以前にも日本には帆船があったらしい。魏志倭人伝で「(伊都国から)南へ水行20日で投馬国に至る。」という記述があるが、漕行20日だと外洋の真ん中になってしまうが、帆船なら沖縄に到達できる。


水行10日がどれくらいの距離であるのかは重要なポイントだと思うが、邪馬台国の議論ではあまり検討されていないように思える。


[PR]
by tnomura9 | 2017-04-29 21:45 | 話のネタ | Comments(0)

たたらの話

宮崎市に広い平野部と大きい川と温暖な気候があり農耕に適しているとはいえ、それだけでは邪馬台国が多くの国を従える強国になるのには力が不足するだろう。

強力な武力を支える技術革新がなければならないはずだ。すなわち、製鉄の技術だ。笠置山の周辺にはたたら製鉄に使われる溶鉱炉の破片である炉辺が無数に転がっているらしい。しかし、製鉄所の遺構が発掘されたとの話は聞かない。

それは、たたら製鉄では製造した鉄を取り出すときに、炉を壊してしまうからではないだろうかとおもった。製鉄のために築いた炉を毎回壊してしまうとはどのような方法なのだろうと不思議に思って調べてみたら、日立金属のホームページのきじに「たたらの話」というのがあり詳しく説明してあった。

たたらの話

また、日立金属のトップページのスペシャルコンテンツに「たたら吹きの話」という現代のたたら製鉄の動画があり分かりやすかった。

宮崎平野にあれほどの古墳があるにも関わらず、あまり考古学の表舞台に出てこなかったのは、その後の歴史であまり重要な役割を果たしていないようにみえるからだろう。古代史とその後の歴史の間に断絶があるようにみえる。

しかし神武東征の伝説があり、それに関する史跡も残っているので、古代において宮崎平野が重要な地位にあったことは確かだろう。それにも関わらず歴史の舞台から退場してしまったように見えるのはなぜだろうか。

たとえば、神武東征の伝説も不思議な話だ。肥沃な宮崎平野を抱え、鉄器も製造していたのにどうして東征しなければならなかったのだろうか。また、その後忽然として邪馬台国が消滅してしまったのは何故なのだろうか。それは、もしかすると火山の噴火が関係しているかもしれない。邪馬台国の社会インフラが火山の噴火と火山灰の降灰によって壊滅的な打撃を受けてしまったのではないだろうか。

古代史はいろいろと想像を膨らませることができるところが面白い。

[PR]
by tnomura9 | 2017-04-29 17:42 | 話のネタ | Comments(0)

宮崎市に卑弥呼の墓

何と宮崎市に邪馬台国があったという説がある。さらに、卑弥呼の墓かも知れない笠置山という古墳が簡単な調査だけで道路工事で破壊されているらしい。

まったく荒唐無稽というわけではなく、魏志倭人伝の旅程の説明が宮崎平野に邪馬台国があったと考えると矛盾なく説明できるらしい。

また笠置山という小山の周辺では、タタラという古代の製鉄所の広大な遺跡があるらしい。3世紀に大規模な製鉄所を持っていたとすると、強大な国家が存在していたと考えるのは当然だ。

もともと、宮崎平野には驚くほど多数の古墳が分布しており、その推定建造年代も日本最古と思われるくらい古い。これだけの古墳を擁する平野部に強力な古代国家が存在したというのは疑いないはずだ。しかし邪馬台国と関連付けてその国家が論ぜられることは殆ど無い。あまりに重要な国家が全く無視されている。

笠置山がもし卑弥呼の墓であるなら、宮崎県の観光に重大なインパクトが有るはずなのに、宮崎県はなんの手も打っていないようだ。もったいない話だ。

詳しくは「邪馬台国と製鉄」というサイトに書いてある。

[PR]
by tnomura9 | 2017-04-28 08:27 | 話のネタ | Comments(0)

You'd be nice to come home to

カラオケで歌いたい。
[PR]
by tnomura9 | 2017-04-16 11:07 | 話のネタ | Comments(0)

エクソソーム (exosome)

エクソソーム (exosome) というのは耳慣れない言葉だが、細胞が細胞質の物質を脂質膜に包んで放出したものだ。基本的には脂質膜に覆われた細胞質の一部だが、中にRNAの断片などを含んでいるらしい。30年前に発見されたが、以前は細胞が不要なものを輩出したものだと考えられて重要視されていなかった。

ところが近年このエクソソームに含まれる RNA が他の細胞に伝達され、その細胞の働きに影響することが分かり、細胞と細胞の間の情報伝達の機能をはたしていることが分かってきた。

特に注目されるのが癌とのかかわりだ。エクソソームには癌特有の RNA が含まれるため、早期の癌を血液検査で調べることができるかもしれないと期待されている。また、癌は生存するために必要な微小循環を作り出さなければならないが、癌細胞から分泌されるエクソソームが周囲の正常細胞を刺激し血管新生を誘発していることがわかり、癌の治療の面からも注目されている。

ポリペプチド、機能性脂質、神経伝達物質、サイトカイン、ホルモン以外にもエキソソームによるRNAの伝達で細胞間の情報伝達が行われているようだ。

[PR]
by tnomura9 | 2017-02-14 11:24 | 話のネタ | Comments(0)