カテゴリ:話のネタ( 245 )

楯築遺跡

楯築墳丘墓は岡山県倉敷市矢部にある中期の王墓で、古墳時代の古墳の原型となったと推測されている墳丘墓だ。

不整円形の墳丘の南東と北西の両端に突き出しを持っている。同時期の弥生墳丘墓としては最大規模である。主墳の中央の木棺を取り囲むように5個の巨石が立てられ斜面にも大きな石の列石が見られる。主丘の表面は全面に葺石が施され、特に木棺の上には小石が山積みされその中央に旋帯文石が安置されていた。この石は後にこの部分に立っていた神社の御神体として祀られていた。棺の特徴は木槨をもつ中国式の木棺で、そこに30kgもの朱が敷かれていた。副葬品は簡素で鹿の角の柄をもつ鉄刀子、管玉等の大量の玉だった。人骨はなく歯が2個残されていた。

墳丘の辺縁部には土器の特殊器台・特殊壺を並べて縁取りをされている。時代と形式からみて高台の埴輪の特殊器台の原型となったと考えられる。


弥生中期、後期に列島最大の政治経済の中心が吉備にあったのは確かだろう。また、地理的にも出雲地方との交流も考えられる。宮崎平野との関係を示唆する発掘状況もある。宮崎県で発見された土器の形式の変遷から、宮崎平野から伊予を経由し吉備に至る海上の交易路があったと考えられる。


宮崎の古墳から出土する埴輪には形象埴輪はあまりなく、殆どが円筒形埴輪であるのも吉備地方と宮崎平野のつながりを示しているのだろうか。また、形象埴輪が後代に畿内で発明されたとすると、畿内より先に吉備の影響を受けていたと考えることもできる。

また、楯築墳丘墓に葬られた主が女性ではなかったのかいうことも気になる。平原遺跡のように武具の副葬が少なく、死後も墳丘が宗教的な儀式に使われたと考えられるからだ。

何れにせよ、邪馬台国がどこにあったのかという議論も、遺跡の発掘などの点で考えるだけでなく、国内外の交流を含めて面で考える必要があるのではないだろうか。


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by tnomura9 | 2017-05-20 08:38 | 話のネタ | Comments(0)

伊都国の女王

福岡県糸島市の平原遺跡の古墳からは、日本最大の銅鏡を含む多数の銅鏡が出土している。それだけでなく鉄の大刀一振り、多数のガラス製のビーズ、ガラス製の勾玉などが副葬されていた。その副葬品の多さからこの古墳は王の墓と思われるが、大刀以外の武器は見られなかった。さらに、女性のピアスに特徴的な部品が出土していた。この墓には女性が葬られていたのだ。つまり平原王墓は女王の墓だった。



平原遺跡の王墓が女王の墓だからと言って、これがすなわち天照大神や卑弥呼の墓だという議論にはならないだろうが、弥生時代後期の九州では、この女王のように女性が王として君臨していた可能性があることを示している。

追記

女王が埋葬された古墳が他にないか調べてみたら、山口県熊毛郡平生町の神花山古墳に20代の女王の遺骨が発掘されていた。海沿いの小山の山頂に築造された30mほどの前方後円墳の後円部の石棺から全身の骨格が発掘されていたが戦後の混乱で頭蓋骨だけが残された。それを元に生前の姿が復元されている。5世紀前半のものと推定されている。


これ以外にははっきりとした女王墓の情報を見つけられなかった。邪馬台国の卑弥呼の人気も、それが女王であるという珍しさも手伝っているのだろう。弥生時代や古墳時代の女王の墓の少なさを考えても、南方の民族のような母系社会は弥生時代にはなかったのではないだろうか。魏志倭人伝の風俗が南方の民族のそれを強く連想させると言っても、母系社会だったとは書かれていない。実際、魏志倭人伝に記載された婚姻の形態も一夫多妻であり父系社会のようだ。

女王は王の血脈であるために即位したのか、またはシャーマニズムの巫女としての役割によって王として認められていただけのような気がする。

隼人に関する記録では、日本書紀に明らかに母系社会を示唆する記述があるようだが、その他の地域では長江文明の母系社会ではなく(長江文明が母系社会だと仮定すれば)、黄河文明の父系社会の影響が強いような気がする。あるいは、基本的には長江文明だが支配層は黄河文明であるような河南文化の影響が強い可能性もある。

追記

ネットで調べたら女王の墓は結構あるようだ。古墳9基をまとめたページがあった。場所は、山口県熊毛郡、熊本県宇土市、京都府京丹後市、福島県糸島市、鳥取県湯梨浜町、岐阜県中津川市、奈良県桜井市、兵庫県神戸市だそうだ。王の配偶者や家族かもしれないので断定はできないが、全国に女王の墓は存在するようだ。

女性が埋葬された古墳9基

こうなると邪馬台国論争は銅鏡か金印が見つからない限り決着はつかなそうだ。調べているうちに邪馬台国がどこかという議論よりも、弥生時代が国外や国内との交易や政治的交流という観点からも開放的な時代だったのだというのが面白くなってきた。また、女性の地位も結構高そうだったのが面白い。教科書に書いてあったような大陸からの渡来人の一方的な征服というのではなくて、活力のある面白い時代だったような気がする。御先祖様結構やるじゃんと言いたくなってきた。

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by tnomura9 | 2017-05-17 23:22 | 話のネタ | Comments(0)

串間市、王の山古墳出土の玉壁

宮崎県串間市の王の山古墳から、漢のものと思われる玉壁が出土している。九州の南の端からこのような中国の王侯貴族の持つ玉壁が出土すること自体が場違いだが、次のブログの作者の推論では、東越王の子孫が新(紀元8年~23年)の混乱時に中国を脱出し宮崎に渡来したのだろうということだ。これが邪馬台国になったらしい。

串間市、王の山古墳出土の玉壁

越の国は、長江文明が起源の越人を秦が征服した後、支配層が越人の文化を取り入れ同化したものらしい。文化的には長江文明の特徴をもち、支配体系は中原のそれを継承している。魏志倭人伝の風俗の記述が南方の越人のそれに類似しているのはそのためだろう。ただ、この玉璽の所持者が本当に東越の王族のものであったかどうかは確かめる術がない。王権が滅亡した後人手に渡ったものなのかもしれない。

長江文明起源の越人の文化がどのようなものであったかわからないが、台湾の先住民族の由来は越人らしいので、調べてみた。

アミ族

アミ族の母系社会であること。水辺に住み農業と漁業を生業としていること。呪術が盛んなこと。アルタヤ族の顔に入れ墨をする習慣。タオ族の多数の人が乗るオール式の準構造船、ツオウ族の高床式住居などが魏志倭人伝の記述に適合しているように見える。

弥生時代と南方の海の民の関係を示すような興味深い発掘がある。鳥取県の稲吉角田遺跡という弥生中期の環濠遺跡から出土した弥生式土器の首に書かれていた船の絵だ。舳先がせり上がった船を頭に羽の被り物をつけた人たちがオールで漕いでいる。船は上に述べたタオ族のそれを彷彿させるし。頭の羽飾りは Wikipedia の台湾原住民の記事に乗っているツオウ族の青年の被り物とそっくりだ。

邪馬台国の遥か以前から日本と海の民の交流は活発だったのではないだろうか。

隼人などの南九州の民が長江文明に起源を持つ海の民に親和性があるのは間違いないだろうが、東越という先進国が渡来してきたのか、あるいは小規模な民族集団が移住して土着化した民が発展して建国したのかで邪馬台国のイメージが全く変わってしまう。


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by tnomura9 | 2017-05-15 19:27 | 話のネタ | Comments(0)

宮崎県立西都原考古博物館

国内の考古学博物館のホームページが充実してきているようだ。情報も豊富で写真や図柄もきれいだ。宮崎県立西都原考古博物館へは実際に行ってみたが、ホームページを閲覧していたので分かりやすかった。いながらにして全国の博物館めぐりができるのはありがたい。


宮崎県西都市の西都原古墳群の中にある、県立考古博物館。西都原古墳群の説明を写真入りで見ることができる。また、宮崎県内の出土品の検索ができる。


装飾古墳データベースでは、古墳のVRデータの動画などが見られる。


福岡県糸島市の伊都国関連の出土品の展示がある。伊都国は魏志倭人伝の中でも詳述されており、中国との交流を考える上で比定されている国のうち最も重要な国。動画などがあり楽しい。



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by tnomura9 | 2017-05-12 06:16 | 話のネタ | Comments(0)

地下式横穴墓

宮崎の西都原古墳群には前方後円墳の他に、地下式横穴墓が発掘されている。地下式横穴墓は竪穴を掘り、そこから更に横穴を掘ってその先に玄室を作り被葬者を葬る形式の墓である。この形式の墓は宮崎や鹿児島だけにしか分布しておらず、特に宮崎の西端のえびの市に集中して見られる。

この墓には鉄の大刀や鎧兜など鉄器を主とした副葬品が多量に発見される事が多い。その数と質は前方後円墳のそれを凌駕している。複雑な構造の墳墓と高度な副葬品から日本発祥のものではないのではないかと思っていたら、中国の山東省の春秋戦国時代の盧の国の墓と酷似しているらしい。盧の国は孔子が宰相を務めていた国である。


驚いたことに江戸時代に宮崎県串間市の王の墓古墳から完全な形の玉璧が出土していた。壁は古代中国で祭祀用あるいは威信財としてつかわれたものなので誰でもが所持できるものではない。この串間市出土の玉璧の由来も中国の山東省らしいのだ。

日本への文明の伝来は、朝鮮半島から北九州にもたらされたものだけではなく、大陸から鉄器を含め高度の文化を持った民族が直接南九州に渡来した可能性が見えてきた。東シナ海を渡る航海技術も持ち込まれたに違いない。

西都原古墳群には、前方後円墳型の墳墓と、地下式横穴墓が同時期に造営されているように見える。つまり、ここでは大陸からの文化と北九州の文化が共存していたことになる。そうであれば、先進的なタタラ製鉄による大刀などの鉄製の武器も平和裏に多量に作られていた可能性も出てくる。邪馬台国宮崎説もあながち夢物語とはいえなくなってくる。


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by tnomura9 | 2017-05-11 21:49 | 話のネタ | Comments(0)

弥生ミュージアム

国営吉野ケ里歴史公園で運営されているサイトで弥生時代についてまとめてあるサイトを見つけた。


弥生時代の生活を吉野ケ里遺跡などで発掘された遺物などから解説してあるが、衣、食、住ともに想像以上に高度なものであることが分かる。

魏志倭人伝には女性の衣服が貫頭衣であると書かれており、布に穴を開けた衣装を想像していたが、実際には2枚の布を縫い合わせたものだったらしい。襟のところがVラインになっており、なかなかおしゃれな感じがする。また、透き通る絹地で袖付きの服も発見されているとのことだ。

食事についても魏志倭人伝では高坏から手掴みで食べたと書いてあるが、洗練された木製のスプーンが出土している。魏志倭人伝の視点からみると弥生人は野蛮な民族のような印象を受けるが、野蛮な民族が海を超えて半島南部を支配できただろうか。倭国からの貢物などもわざと粗末に記録されているのではないかという気がしてきた。

邪馬台国についての議論も、弥生人の文化を正当に評価した観点から考える必要があるだろう。

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by tnomura9 | 2017-05-11 06:15 | 話のネタ | Comments(0)

百足塚古墳

宮崎県の新田原古墳群の百足塚古墳から、宮崎県では珍しい形象埴輪が出土したというので探してみたら、ぶっ飛んだ。

新富町総合交流センター「きらり」で百足塚古墳出土埴輪の展示

胸も露わな巫女がスカートをめくって裾を見せている、天鈿女命(あめのうずめのみこと)を思わせるショッキングな埴輪だ。また、百足塚古墳から出土した形象埴輪が今城塚古墳のものと類似しているというので調べてみた。

今城塚古墳

継体天皇の陵墓ともいわれる大阪市高槻市の大規模な前方後円墳だ。なにより、埴輪祭祀場の大規模な埴輪の展示が圧倒的だ。古代の祭祀の様子を活写している。

今城塚古墳を見た人が、百足塚古墳を作ったのかもしれないが、巫女の埴輪一体の自由奔放さが今城塚古墳の壮大な埴輪劇に十分対抗できているように思えた。

これらの埴輪の素朴な造形にも関わらず、見ているとなぜか浮き浮きと気持ちが高まるのはなぜだろう。



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by tnomura9 | 2017-05-09 19:11 | 話のネタ | Comments(0)

褐鉄鉱

管理人が邪馬台国宮崎説について色々ネットを彷徨うようになったのは、「邪馬台国と製鉄」というサイトの記事を見てからだ。特に弥生時代に宮崎で製鉄が行われていたという主張に興味を持った。鉄器を持っていれば地理的には辺境にあるような宮崎でも倭国連合の盟主となれるのではないだろうかと思ったからだ。

しかし、調べてみるとそう簡単ではないようだ。

火山地帯の水に鉄分の多い地域では、葦などの沼に生える植物の根についた細菌が鉄分を沈殿させて、根の周りにスズという褐鉄鉱という鉄の鉄鉱石を作る。まさに宮崎平野だ。すずについては次のサイトの記事が分かりやすかった。

スズ・褐鉄鉱・高師小僧再論

褐鉄鋼は融点が400℃位なので、土器を焼く技術があれば鉄を取り出すことができる。ただ、残念なことにこうして作られた鉄は不純物が多くもろいので、鉄鏃はつくれるが、鉄の太刀を作ることはできない。褐鉄鉱からの製鉄は次のサイトに詳しい。なんと、縄文中期から製鉄が行われていたとのことだ。

縄文中期から、信濃では製鉄が行われていた

上の記事によると、鉄鏃の製法を知っていた縄文人も、青銅器の武器を使う弥生人に敗退していったとのことなので、製鉄によって強大な軍事力を得ることができたわけではないようだ。

したがって、宮崎平野が強大な鉄の軍事力を持っていたことが証明されるためには、砂鉄から精錬するたたら製鉄の証拠が出土しなければならないのではないだろうか。

宮崎平野が邪馬台国でそこでは製鉄が行われていたという魅力的な仮説に刺激されていろいろと調べてみたが、結局はわからなかった。宮崎県に住んでいるので宮崎平野が邪馬台国だったと考えるのは心躍るが、邪馬台国論争はやはり決定的な物証がない限り解決しないのだろう。これからの考古学の成果に期待したい。

というわけで、邪馬台国宮崎説に関する記事はこれで終わりにする。話のネタには充分なるのですごく得した気分だ。

おまけ

宮崎の古墳には人や動物の形の形象埴輪は少なく、圧倒的に円筒埴輪が多い。円筒形の筒の中ほどに丸い穴が開いているもので何に使われるのかよくわからないが、これが明治初期のキューポラ(鋳物炉)にそっくりだそうだ。古墳に鋳物炉の模型をならべたのであれば鉄の国日向といえるのかもしれないが、おそらくは違う用途なのだろう。

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by tnomura9 | 2017-05-07 18:45 | 話のネタ | Comments(0)

貝の道

北九州の弥生時代や古墳時代の遺跡の発掘で貝の腕輪が出土するらしく装飾品として珍重されていたらしいが、材料となる南海産の貝は何と沖縄で採られていたらしい。沖縄から島伝いに薩摩半島西岸に集積され、そこから九州の西岸の沖を北九州まで運ばれていたそうだ。弥生時代に1000kmもの海上の交易路を通って頻繁に船の行き来があったのだ。これを貝の道と呼ぶらしい。

九州西岸の交易路が本流だが、一部大淀川周辺の宮崎平野を中継点とし、香川県や、岡山県の瀬戸内地方に至る東の海の道も提唱されている。ただ、大隅半島を回る経路は海流の関係で航海が難しかったらしいので、西岸の貝の道に比べると流通は多くなかったようだ。むしろ薩摩半島から都城盆地を経て一旦陸路を輸送し、宮崎から瀬戸内地方へ輸送していたらしい。

大淀川周辺の宮崎平野と瀬戸内地方との交流の隆盛は、発掘される土器の種類から分かるらしい。時代が下るに連れ、発掘される土器に瀬戸内地方の土器の影響が強くなり、分布図からは瀬戸内地方から都城盆地への強い関心が推察できる。おそらくは志布志湾の貝の道の集積地を目指していたのではないかということだ。

弥生時代から宮崎平野と瀬戸内地方や沖縄との交易があり、その中心となったのが装飾品用の南海産の貝であったというのが面白い。宮崎平野を交易の中継地点としても見ることができる。

宮崎平野は姶良カルデラの大爆発による火山灰が蓄積したローム層が地下にあり、必ずしも稲作に適していたわけではないようだ。また、文明の中心である北九州にも遠く政治的にも軍事的にもそう影響力を発揮できるような地政学的な利点はない。畿内の政治勢力を征服するような力があるとも思えない。大和朝廷の時代に政治的、軍事的に活躍したという記録もない。

それにもかかわらず、日向から神武東征が行われてそれが成功したのは事実のような気がする。また、もし、邪馬台国が宮崎平野にあり邪馬台国連合の盟主でありえたことが本当だとして、多数の巨大な古墳を造営できるような富を擁する国力の秘密は一体どこにあったのだろうか。

また、大和朝廷は数多くの天皇の后を遠く離れた日向の地から迎えており、大和朝廷における日向の重要性は疑いないだろう。しかし、その理由が分からない。

宮崎平野が邪馬台国であったかどうかも含め、宮崎の数多の古墳群の謎は未だ解けておらず興味が尽きない。

本題とは別だが、在野の研究者たちの大胆な構想と比較して、考古学者たちがどのような仕事をしているかと言うのが興味があるが、次のブログの一連の記事では考古学者の視点からの考え方がわかり面白い。



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by tnomura9 | 2017-05-07 14:03 | 話のネタ | Comments(0)

川床遺跡

邪馬台国宮崎説の弱点は遺跡からの鉄器の出土が少ないことだ。大型の古墳はたくさんあるのに、なぜか鉄器の出土は非常に少ない。

少ない中でも1986年に発掘された新富町の川床遺跡からは、円形、方形周溝墓44基、土壙墓149基で構成される集団墓で、鉄刀、鉄鏃などの鉄製品が91点副葬されていた。弥生時代後期の遺跡らしい。個々の墓の副葬品は少なく各墓で1,2個、殆どの土壙墓では鉄鏃1個が副葬されていた。また、周溝墓では鉄刀などが副葬されているが、宗教的な豪華な副葬品はない。その様式は北九州のものらしい。

発掘のレポートを読んでみたが、延々と土壙墓の計測データが書き並べられていた。素人的に言えば副葬品が鏃1個の代わり映えしない墓を延々と発掘するのは地味な仕事だなと思った。

弥生時代前期の宮崎の墳墓の発掘は少なく、発掘されたものは優れて北部九州、東九州の系統の文化らしい。

土壙墓の被葬者は兵卒なのだろうが、その墓にも鉄の鏃を副葬するほど鉄製品は行き渡っていたのかもしれない。弥生時代末期でも北部九州から遠くはなれた宮崎にも鉄器が浸透していたことを示している。

実際の考古学的な発掘調査はほんとうに地味な作業だ。その成果と邪馬台国が直接的に結びつくことはないだろう。文献から色々と思い巡らすのは楽しいが、地道な発掘調査の集積がなければただの架空の物語になってしまう。邪馬台国をめぐる論争は当分終わることはないだろう。



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by tnomura9 | 2017-05-06 23:39 | 話のネタ | Comments(0)