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自然数とそのべき集合 対角線論法の秘密

自然数の集合と、自然数の集合のべき集合との全単射ができないのは、カントールの定理で証明されている。しかし、この記事では、カントールの証明がどのような意味を持つのかを考えてみたい。

自然数のべき集合の要素は自然数の集合だ。たとえば A = {2, 4, 7} は自然数のべき集合の要素だ。これらが規則的に列挙できれば自然数のべき集合は自然数と全単射を作ることができるといえる。

これはべき集合の要素を2進数に置き換えることで簡単に列挙することができるように見える。自然数の集合が自然数の1を含んでいれば2進数の1桁目が1含んでいなければ0、同じように自然数の集合が自然数の2を含んでいれば2進数の2桁目が1、含んでいなければ0とする。こうするとべき集合を表す2進数と自然数の間に自然な全単射ができる。

しかし、そううまくはいかない。これは自然数の集合のうちで要素数が有限な集合にしか当てはまらないのだ。要素数が無限な集合の場合は、2進数も無限大になってしまう。

これは無限大という実体が存在するという実無限の考え方からは不都合になるが、自然数はどれだけでも大きくとることができるという可能無限の立場からは不都合ではない。この方法では無限要素の集合を捕まえることはできないが、自然数をどんどん大きくとっていくことによって、どれだけでも無限要素の集合に近いものは作り出すことができるからである。

しかしそう都合よくはいかないことをカントールの定理が証明している。自然数と自然数のべき集合との間に全単射が存在すると仮定すると、a が f(a) の要素として含まれないような自然数 a 全てを集めた集合を B とすると B = f(b) となるような自然数 b が存在する。ところが b が B の要素であれば b は B に含まれないはずなので矛盾するし、b が B の要素ではないと仮定してもやはり矛盾する。したがって、自然数と自然数のべき集合の間には全単射は存在しないことが証明される。


確かに、対角線論法を用いた鮮やかな証明だが、しかし、なぜここで対角線論法を持ち出さなければならなかったのかがよくわからない。また、対角線論法では自然数とべき集合の間にどんな問題があるのかも判然としない。

ここで対角線論法の意義を明らかにするために、有限の自然数とそのべき集合をどのように表現するかを考えてみよう。これは、次のような表を作るのが一番だ。例えば自然数 {1,2,3} の部分集合を次のような表に表してみよう。

* 1 2 3
a 0 0 0
b 1 0 0
c 0 1 0
d 1 1 0
e 0 0 1
f 1 0 1
g 0 1 1
h 1 1 1

表の列の数字はその列の自然数が部分集合に含まれているかどうかを示している。1ならばその列の自然数が含まれており、0ならば含まれていない。

各行の数列は部分集合を表している。部分集合 a は {1,2,3} のどの要素も含んでいないので a = {} である。同様に d の行は 1 と 2 を含むので、部分集合 d = {1,2} である。これらの集合 a, b, ... h を自然数に対応させた表を作ると次のようになる。

* * 1 2 3
1 a 0 0 0
2 b 1 0 0
3 c 0 1 0
4 d 1 1 0
5 e 0 0 1
6 f 1 0 1
7 g 0 1 1
8 h 1 1 1

この場合 a = f(1), b = f(2), c = f(3), ..., h = f(8) である。

ところで x が f(x) に含まれないような x の集合Bはどのような集合になるだろうか。上の演算表で 4 .. 8 は集合 {1,2,3} の要素ではないので、x が f(x) に含まれるかどうかの議論はできない。明らかに含まれないからだ。したがって x が f(x) に含まれるかどうかというのは上の3行までの a, b, c つまり 1, 2, 3 の正方行列でしか判断できない。

そこで、上の表の3行までをみると1も2も3もそれぞれに対応するa, b, c に含まれないから B = {1,2,3} すなわち上の表の行で表すと 1 1 1 なので B = h である。これに対応する自然数は 8 であるから、{1,2,3} のうちには存在しない。すなわち B = f(y) となるような自然数は {1,2,3} のうちには存在しないのだ。なぜなら B(=h) の行の数は、a, b, c の対角線部分のどれとも異なっているからだ。これを無理に {1,2,3} の中に求めてしまうとカントールの定理のようなパラドックスが発生してしまう。

自然数とそのべき集合の議論を上の表の 3 × 3 の正方行列の部分に限定する限り、自然数の集合とその部分集合との対応関係には、自然数に対応できない部分集合が発生するのが分かる。

この関係は自然数 {1,2,3} の要素を増やして自然数全体の集合を拡充していくことができる。しかし、表の上部の正方行列の部分の性質についての議論は変わらないので無限に自然数を増やしても必ず正方行列の縦の自然数に対応できない部分集合が発生する。

ただし、これは表の冒頭の正方行列に限って議論しているからだ。カントールの対角線論法では暗黙にこの正方行列を仮定しているようだ。

したがって、カントールの定理にも関わらず、長方形の対応表を作っていけば、どれだけでも自然数のべき集合に全単射を作っていくことができる。ただし、自然数を無限大にまで拡張したときにそのような全単射が作れるかどうかは不定である。どちらも無限大になってしまうからだ。

実無限の観点からは、自然数の全体を仮定するので、演算表の横の自然数と縦の自然数の数は一致しなければならないので必然的に正方行列の議論になる。したがって、自然数とそのべき集合の全単射は不可能である。しかし、可能無限の立場からは、全ての自然数が縦と横で一致する必要はないので、長方形の演算表を縦方向にどんどん長くしていくことで、限りなく全単射の範囲を広げてていくことができるのである。

カントールの定理では自然数と自然数のべき集合の全単射を考えると矛盾すると証明するだけで、自然数と自然数のべき集合の濃度がどれくらい違うのかを示してはくれない。可能無限の立場をとっても、縦方向と横方向も無限に大きくしても完全な全単射になるとは論証できないが、可能無限の立場からは実用的にはどれだけでも全単射の範囲を広げることができる。コンピュータで真の実数を扱うことはできないが、どれだけでも精度を上げることができるのと同じだ。もともと、可能無限の考え方からは無限集合の全ての要素という考え方はない。

追記

上の説明ではカントールの定理でなぜパラドックスが発生するかは説明できていないので追加する。自然数の集合 A = (1,2,3} について自然数と A の部分集合の対応関係の関数 g の演算表を次のように定義してみる。3行目が空白なのは理由がある。x には対応する集合に含まれない自然数の集合を作りたいからだ。

この演算表からは c = g(1), d = g(2) であることが分かる。問題は x = g(3) としたときに x が対応する集合に属さない自然数を集めた集合になるように演算表を定めることができるかどうかだ。

* * 1 2 3
1 c 0 1 0
2 d 1 1 0
3 x * * *

この表で対角線の成分に注意するとそれは各行の自然数が対応する集合の要素として含まれているかを示している。この場合 c の対角線部分は 0 だから 1 は c に含まれていない。また、d の対角線部分は 1 だから 2 は対応する d の要素として含まれている。そこで対応する集合に含まれない自然数は 1 で対応する集合に含まれる自然数は 2 である。したがって、x の行の数列は次のようになる

3 x 1 0 *

xの 1 列目と 2 列目は上の2つの業の対角線部部分を反転したものになる。ところで、x の3列目の値は * になっているが、これを完成させれば 3 は自分自身が対応する集合に含まれない自然数の集合に対応することになる。ところが、3 が 1 であるとすると x は 3 を含むことになり定義からこれは 0 でなければならないし、x の3列目が 0 であるとするとそれは 1 でなければならないことになる。つまり、カントールの定理のパラドックスになっている。

このようにカントールの定理が証明したのは、自然数と自然数の部分集合の対応関係が正方行列になるという仮定の上での議論であったことが分かる。つまり、べき集合を作成するための自然数の集合と、べき集合に対応させるための自然数の集合の数が同じであるはずだという暗黙の過程がある。しかし、可能無限の立場からは両者の拡大速度が異なっていても問題ないのである。

無限集合にすべての要素を考えることができないといったのはこの理由からだ。無限集合とは要素を次々に生成していく集合のことであり、要素が生成される速度については制限がない。全単射は、単にある範囲までの要素同士の間で1対1対応が見られるという意味でしかない。そのため自然数とその部分集合である偶数との全単射が可能になるのだ。

カントールの定理には実無限の立場から、この無限集合の拡大の速度が同じになる正方行列を仮定してしまったための推論ではないのだろうか。無限集合にすべての要素を仮定する実無限の考え方は便利な道具ではあるが、可能無限からの無限に全てはないという見方からの検討も必要なのではないだろうか。

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by tnomura9 | 2017-06-12 18:55 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

無限集合の全単射

無限集合では集合とその部分集合の全単射を作ることができる。例えば自然数の集合は、その部分集合の偶数の集合と関数 y=2x で全単射となる。どのような偶数2n に対しても自然数 n が対応するから全射で、自然数 n と m が異なるときは偶数 2n と 2m は異なるので単射になるからだ。

しかし、この自分自身の部分集合との全単射が可能であるという無限集合の性質は、満室の無限ホテルに新規の客を受け入れる話と同じで少々胡散臭い感じがする。

例えば、1から10までの整数を考えたときそこに含まれる偶数 2 .. 10 と上の関数で対応するのは 1 .. 5 だけで、6 .. 10 には対応する偶数はない。

n 以下の自然数について言えばそこに含まれる偶数との全単射を作ることができないので、任意の自然数 n 以下の自然数の集合についてはその部分集合である偶数の集合との全単射はない。これは n がどのように大きくなっても成立するから自然数全体の集合について、その部分集合との全単射は作ることができないといえないだろうか。

しかし残念ながらそれは、最大数を持つ自然数の集合については常に成立するが、最大数を持たない自然数全体の集合についても成り立つとは言えない。無限が入り込んだ段階で、おかしなことが起き始めるのだ。

偶数を自然数の部分集合と考えると、自然数と偶数の全単射に疑問を感じる。だが、偶数を自然数の部分集合と考えず、これは自然数とは別の集合だと考えれば、自然数と偶数の全単射は自然にイメージすることができる。自然数 1, 2 ... と偶数 2, 4, ... を並べて列挙すれば自然に 1 -> 2, 2 -> 4, ... という対応関係を理解できるからだ。

つまり、自然数と同じように列挙できる集合については、自然に自然数との全単射を考えることができる。偶数は自然数の部分集合ではあるが、それは無限に列挙できるという性質から自然数との全単射が可能である。この無限に列挙できるという性質は、自然数の再帰的な定義の再帰部分から発生する。自然数と偶数はその再帰的定義に整合が見られるのだ。

前回の記事で、無限集合には全てという概念を当てはめるのには少々問題があると言ったが、それは無限集合の定義が生成的な定義であるということから来ている。無限集合の全単射は有限集合の全単射とは異なり、無限集合どうしの生成規則の整合性を利用しているからだ。

無限集合の不可解な性質が、その生成的な定義からくると考えれば、自分の部分集合と自分自身との全単射が存在するなどという納得できない性質も理解できるが、それであれば、無限集合とその冪集合の全単射がどうしてできないのかという次の疑問が湧いてくる。しかし、それは次の記事で議論することにする。


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by tnomura9 | 2017-06-11 21:16 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

無限集合ではすべての要素を考えることはできない

無限集合に関してヒルベルトの無限ホテルのパラドックスというものがある。

無限に部屋を持つホテルが満室の時、新たな客を受け入れられるというパラドックスだ。新たな客を1号室にいれ、1号室の客を2号室に、2号室の客を3号室にという操作を無限に行えば新たな客を受け入れることができる。満室(これ以上は客を受け入れられない)にも関わらず、上の手順で新規の客を受け入れることができる。これが満室なら新たな客は受け入れられないという直感に反するためパラドックスと呼ばれている。

これについては、しかし、無限に部屋を持つホテルは決して満室にならないという解釈もできる。

満室にはならないのなら、新たな客を受け入れてもパラドックスにはならない。ところが、そうなると、無限集合の全ての要素についてという議論ができなくなってしまう。つまり無限集合では、有限集合と異なりその集合の全てのメンバーに関する議論ができなくなってしまう。自然数の要素全てについてこうこうこういう性質があるという議論をしたいのに、自然数の全てなんてないよと言ってしまうと甚だ具合が悪い。それで、無限に部屋を持つホテルには無限集合独特の性質があるのだ、それが単にパラドックスに見えているだけだという議論になるのだろう。

ペアノの公理では、

1)0は自然数である。
2)a が自然数ならその後者(a+1のこと)も自然数である。

という再帰的定義で自然数を定義しているが、これは全ての自然数を定義してはいない。荒っぽい議論になるが、仮にすべての自然数を要素とする集合があったとする。自然数には大小関係があるから、その中で最大の自然数が存在するはずだ。すべての自然数を集めたのだから。しかしその最大数を m とするとベアノの定義で m+1 も自然数でなければならないはずで、これは矛盾となる。したがって上の定義による自然数全てからなる集合は存在しない。

推論が間違っているのかもしれないが、無限集合にはそれに含まれるすべての要素の集合を考えることはできないと考えるほうが自然なような気がする。

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by tnomura9 | 2017-06-05 13:41 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

素朴集合論の限界

いま、集合 a1, a2, a3 のみからなる集合の集合 A = {a1, a2, a3} を考える。すると A のすべての部分集合は、P(A) = {{}, {a1}, {a2}, {a3}, {a1, a2}, {a1, a3}, {a2, a3}} となる。ここで A -> P(A) の関数 Ψ を考える。すると Ψ(a1), Ψ(a2), Ψ(a3) はそれぞれ集合 a1, a2, a3 の外延になる。例えば Ψ(a1) = {a1, a2}, Ψ(a2) = {a2, a3}, Ψ(a3) = {a1} のように Ψ を定める事ができる。

しかし、A の要素だけでは、Aの冪集合の全てに対応させることができない。そこで A を拡張して A' = {a1,a2,...,a5, a6} を考えるとこれは A = {a1,a2,a3} の全ての部分集合を A' の要素で表すことができる。だが、この場合にも A' の要素だけでは A' の全ての部分集合に対応させることができない。

それでは A の要素を無限集合にまで拡張したらどうだろうか。A の要素は無限にあるのだから、A のどんな集合も表すことができるようになるのではないだろうか。しかし残念ながらそうはならない。Aは加算な無限集合であるが、Aの冪集合 P(A) の濃度は非可算である。したがって、AとP(A)の全単射をつくることは不可能だ。

ゆえに、素朴集合論では全ての集合を記述することは不可能なのだ。

なぜ A が加算無限になってしまうかというと、上のやりかたでは A の要素数を増やすときにシステム的に段階的に網羅していけるからだ。しかし、同時に、このときシステム的に A の冪集合の要素数は A の要素数より必ず大きくなる。従って A の要素数を無限に多くしていっても。どの段階でも A と P(A) の全単射をつくることはできない。

無限集合とは無限にある要素の全体というよりは、要素を無限に作り出す時のルールが一定であるということだ。整数と偶数がどちらも加算無限集合なのは、整数を 0, 1, 2, ... と並べていくルールがあるのと、偶数を 0, 2, 4, ,., と並べていくルールが呼応しているからだ。

無限集合を有限集合の意味の集合と考えることはできない。無限集合を規定するものはその要素を規定するルールであって、その集合の要素全体ではないからだ。

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by tnomura9 | 2017-05-22 07:31 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

オブジェクトモデルと無限集合

オブジェクトモデルでは集合や個体を表すオブジェクトを全て集めたもの(の候補) Uc (a candidate for the universe) は常に有限集合だ。しかし、Uc のオブジェクトとして無限集合を考えることはできる。

無限集合の要素は無限にあるので、無限集合を表すオブジェクト A の外延は無限に要素を含むことになり、Uc には含まれない要素もその外延は含むことになる。しかし、Uc はいつでも拡張可能なので、A の外延の要素のうち Uc に存在しないものが必要になったときは、その要素を含む新しい Uc に拡張することができる。

このようにオブジェクトモデルにおける無限集合では無限を可能無限の立場から捉える。無限集合のオブジェクトを Uc に含ませることはできるが、それは外延の要素が常に不確定な特殊なオブジェクト(集合)として扱われる。その外延の要素には常に Uc には含まれていないものがあるが、必要に応じてそのようなオブジェクトを含んだ Uc に拡張することは可能だ。

無限集合の要素は無限だが、それらの全てを考えることができるという立場には矛盾が潜んでいる。要素が無限に存在するということは、それらを全て並べてみせることは不可能であるにもかかわらず、それら全てを集めることができるとして、それらの集合を考えるからだ。数えきることはできないにも関わらず、数えきってしまうと考えるのは明らかな矛盾だ。

可能無限の場合には無限は単に拡張可能性を示しているに過ぎない。1から100までの整数の集合を考えることできるが、これにさらに101を加えて整数の集合を拡張することができる。また、10000でも100000でも大きな数が必要になったときにはいつでも整数の集合を拡張することができる。それらの操作を延々と続けることのできるものを整数全体の集合(の候補)と考えるのだ。この考え方では捉えることのできるのは常に整数全体の集合の部分集合である有限集合だ。しかし、それはいつでもどんな大きな数についても拡張可能である。

したがって、無限集合を表すオブジェクトの外延にはつねに Uc に含まれないものがあるが、それは必要に応じて Uc を拡張することによって Uc に含まれるようにできる。無限集合の外延とは、その外延に含まれる要素を決定するためのルールである。

このようにオブジェクトモデルでは、無限集合は外延の要素が Uc に含まれないものがある特殊なオブジェクトとして Uc の中で取り扱うことができる。

たとえば、Uc のオブジェクトとして自然数のオブジェクトという無限集合と、1から100までの自然数というオブジェクトが含まれていたとしよう。この中には101というオブジェクトは存在しないが、議論の中で必要になってきたときは 101 をオブジェクトとして含む Uc に拡張すれば良い。拡張した Uc の中に矛盾が存在しなければ、自然数の集合という無限集合を考える事ができる。

しかし、ラッセルの集合は Uc の要素として考えることはできない。Uc のオブジェクトのうち自分自身を要素として含まない集合のクラス Rc を考えることはできる。しかし Rc を外延とするオブジェクト Rc を Uc の中に見出すことはできない。かりにそのようなオブジェクトを考えるとラッセルのパラドックスが発生するからだ。

ところが Uc の外には Rc クラスを外延とするようなオブジェクト Rc' を考えることができる。そこで Rc' を要素として含むような Uc の拡張を考えてみる。すると Rc' の外延はたしかに Rc ではあるが、Uc の拡張における自分自身を要素として含まない集合のクラスは Rc' を含まないといけないのでこれを表す Rc'' は Uc の拡張には存在しない。

つまり Uc の拡張によってラッセルの集合 R を捉えようとしてもどのような拡張を行っても R を外延とするオブジェクトを Uc の要素として含むことはできない。このようなものは無限集合ではないといえる。

このように可能無限から無限集合をとらえると、Uc の中で無限集合というオブジェクトを含む事ができて、同時に無限の要素を含む集合というものを明確に定義できる。このような立場からは Uc は常に有限集合なので、その部分集合であるクラス全体に対して矛盾なく排中律を適用することができる。

この無限集合に対する取り扱い方は、普段コンピュータのプログラムをするときに普通にやっていることだ。コンピュータのメモリは有限なので、無限の数を取り込むことはできないが、どんな大きな数もそれが有限な数なら計算することができる。どんな数でもいいという点で有限のメモリの中に無限の自然数を閉じ込めることができるのだ。

全てのオブジェクトを含む Uc は存在しないが、どのような要素でも必要なときに Uc を拡張して取り入れることができれば 、Uc が有限集合であっても、無限集合という仮想的な集合を集合の仲間として取り扱う事ができる。

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by tnomura9 | 2017-02-01 00:36 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

オブジェクトモデルと論理

前回、集合をオブジェクトと考えることで、自分自身を要素として含む集合のような怪しい集合も含めて素朴集合論の世界をオブジェクトモデルとしてモデル化することができることを述べた。

そこで、そのような素朴集合論のモデルであるオブジェクトモデルと論理との関係を考えてみた。

オブジェクトモデルのオブジェクト全体を集めたものを Uc としたが、Ucはあくまでも当面関心のあるオブジェクトを集めた有限集合である。しかし、この有限集合は必要に応じて新しいオブジェクトを取り込んで自由に拡張できる。その場合新しい Uc について考えることになるが、その場合も Uc の要素は有限個である。

オブジェクトモデルにおける集合とは、その外延というオブジェクトの属性が、Uc の部分集合を表しているオブジェクトである。Uc のオブジェクトの数が N であるとすると、Uc の冪集合の要素の数は 2 ^ N であるから、Uc のオブジェクトでは表せない Uc の部分集合が必ず存在する。そのような集合はオブジェクトモデルでは「集合」とは呼ばれず「クラス」になる。「クラス」を「集合」とよぶ事ができないのは、その「クラス」を外延に持つオブジェクトが Uc の要素であるオブジェクトのうちには見つけられないからだ。

あるオブジェクトの集まりに論理学が適用できるかどうかは、排中律がその集まりに適用できるかどうかによって決まる。Uc の任意の部分集合について、排中律が成立すれば Uc には論理が適用できる。そして、Uc の「クラス」については明らかに論理が適用できることが分かる。つまり、Uc の任意の「クラス」についてその補集合が存在することは明らかだからだ。

このように、Uc の「クラス」については論理法則が適用できるが、Uc の集合については論理が適用できない場合がある。それは Uc のオブジェクトでは「クラス」の全てに対応させることができないからだ。

この観点からラッセルのパラドックスについて考えてみよう。Uc のオブジェクトの中には明らかに自分自身を含むオブジェクトと自分自身を含まないオブジェクトがある。また、これらのオブジェクトは自分自身を含まない集合からなるクラスと自分自身を含む集合からなるクラスが存在する。この意味で集合は自分自身を要素として含むか含まないかのいずれかであるという排中律は成立する。

ところが自分自身を要素として含む集合のクラスを外延として持つオブジェクト R を Uc の中に求めようとすると、R が自分自身を含めば、R は自分自身を含まない集合となりラッセルのパラドックスが発生する。このため、R は Uc の中に見つけることはできない。

一方自分自身を要素として含む集合の集合 ¬R の場合は ¬R は自分自身を要素として含んでもよいし、含まなくても良い。¬R が自分自身を含まない場合は ¬R は自分自身を含まない集合のクラスの要素となってしまうが、それでも Uc のクラスにおける排中律は保たれる。

自分自身を要素として含む集合の集合が、自分自身を要素として含まない集合のクラスの要素であるというのは抵抗があるが、自分自身を要素として含まない集合のクラスは存在してもそのような集合は存在しないのだから論理は破綻しない。

要するに素朴集合論の集合を集めた Uc について、その部分集合であるクラスについては論理は適用できるが、Uc の要素であるオブジェクトとしての集合の数は、Uc のクラスの数に比べて少ないために、全てのクラスを集合として表すことができず、論理が集合については適用できない場合があるということだ。

この困難は、集合を「物の集まりという物」すなわちオブジェクトとして定義することによって発生する。そのため、集合に論理すなわち排中律を持ち込むためには、特別に選び出された集合からなる Uc を想定する必要がある。

素朴集合論のオブジェクトモデルでは、オブジェクト全体を表す Uc は有限集合だが、Uc のオブジェクトの中に無限集合を含むように拡張することは可能だ。Uc は有限集合だが無限集合を含むように拡張できるというのは素朴集合論の世界をコンピュータ上に構築できることを意味している。オブジェクトはコンピュータプログラムの実態として容易にプログラムできる上、コンピュータは有限のメモリ上で作動しているにもかかわらず無限集合のいくらでも拡張できる近似として動作させることができるからだ。

素朴集合論の世界をオブジェクトモデルとして、コンピュータ上に実現することができれば、ラッセルのパラドックスや集合ではないクラスの存在も包含した集合論的なプログラム言語を記述できるだろう。

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by tnomura9 | 2017-01-30 23:03 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

素朴集合論のオブジェクトモデル

素朴集合論の世界を集合というオブジェクトの集まりと考えると、素朴集合論をモデル化できる。これを仮に素朴集合論のオブジェクトモデルと呼ぶことにする。

オブジェクトモデルでは素朴集合論の集合や、集合ではない対象(個体)も含めて一括してオブジェクト(対象)としてとらえる。1個のオブジェクトは複数の属性 (property) をもつ。属性の一つはそのオブジェクトの外延であるオブジェクトの集まりだ。集合は、その要素の集まりという外延を持つ。集合オブジェクトは外延にオブジェクトの集まりを持つ。空集合の外延は要素を一つも含まない集合だ。個体の外延は何もない。しかし、空集合と区別するために何もないという nil という値をもつと考えてもよい。

オブジェクトモデルのオブジェクトの集まり全体を Uc (candidate for universe) と呼ぶことにする。Uc は有限のオブジェクトの集まりだ。しかし、オブジェクトはいつでも拡張可能なので、無限集合の任意の要素を扱うことができる。また、無限集合のオブジェクトも考えることができる。この場合無限集合の外延は無限集合なので、Ucに含まれないオブジェクトを含んでいる。

オブジェクトの属性には、外延以外にもいろいろなものを与えることができる。偶数であるとか犬であるとか自分自身を要素として含むとか自由に考えることができる。また、Uc の任意のオブジェクトはこの属性に従って、述語を充足するかどうかで2分できる。x は犬であるという述語に対し、その述語を充足するオブジェクトの集まりと、その述語を充足しないオブジェクトの集まりを、オブジェクトの持つ属性に従って分けることができる。この意味で Uc では排中律が成立する。

オブジェクトモデルでは集合について制限をつける。集合とは Uc の中のオブジェクトの一つでなければならないという制限だ。Uc のオブジェクトが N 個であるとすると、オブジェクトの考えられる集まりの数は 2 ^ N だから N 個のオブジェクトでは Uc の部分集合を全て表現することはできない。Uc のオブジェクトの外延として表現できない Uc の部分集合は集合ではなくクラスと考える。ただし、あるクラスを集合として取り扱いたい場合は、そのクラスを外延とするオブジェクトを Uc に追加して Uc を拡張すればよい。

この集合についての制限は、集合を物の集まりという物(対象)として考える定義からくる。集合を個体と同列に物(オブジェクト)として考えるためには、対象の集まりとは別にそれを表すオブジェクトが必要なためだ。

Uc の要素のオブジェクトについては排中律が成立する。つまり、制限されない内包的定義でオブジェクトの集まりを定義できる。しかしながら、それらの全てが Uc のオブジェクトである集合の外延になるわけではない。Uc には常に集合と定義できないオブジェクトの集まりが存在する。

このモデルの特徴は、オブジェクト指向言語のオブジェクトとして、集合と個体のオブジェクトをプログラム化できることだ。ラッセルのパラドックスをはじめとする、素朴集合論の様々な性質をこのモデルの振る舞いとして表現することができる。また、それをプログラムとして記述することも可能だ。

ラッセルのパラドックスという矛盾を含む素朴集合論はその実体的なモデルを使うことで、なぜそのような矛盾が生じるのか、また、このモデルにどのような制限をつけると数学の基礎となるような集合論を構築できるのかが分かる。

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by tnomura9 | 2017-01-15 13:15 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

自分自身を要素として含む集合と含まない集合

ラッセルのパラドックスを引き起こす集合は、「自分自身を要素として含まない集合の集合」だが、「自分自身を要素として含む集合」という集合もイメージしづらい。ところが、これをソシュールの記号論的に解釈すると意外にすっきりと理解できる。

ソシュールは記号をその記号自体である記号表現とその記号が指し示す記号内容が不可分に結びついたものと定義している。そうして、「集合とは物の集まりという物である」という素朴集合論の定義は、記号論的に解釈することができる。すなわち、ものとしての集合は集合の記号表現であり、その集合の外延である物の集まりは集合の記号内容であると定義できる。

こういう風に考えると、記号表現である集合自体がその外延の要素として含まれていることには問題が起きない。また、集合がその外延に含まれていない場合も可能だ。

記号表現である集合自身がその外延に含まれない集合は、再帰的定義にはならないので確定できると思われる。しかし、その場合記号表現としての集合の性質には「自分自身を要素としては含まない」という属性が発生する。そこで、「自分自身を要素として含まない集合」の集合を考えると、記号内容としての外延の要素には自分自身を要素として含まないが、それゆえに記号表現としての集合は「自分自身を要素として含まない集合」という属性を持つことになる。このようなコンフリクトが発生するのは、集合の定義では集合という記号表現とその外延という記号内容が不可分に結びつくためだ。

また、記号表現である集合自身がその外延に含まれるときは、再帰的な定義となるため、その要素である集合自身を確定することができない。つまり、その集合自身は何かという問いには無限再帰のため永遠に答えられない。

こう考えると、素朴集合論にラッセルのパラドックスが発生する原因は、まさに「集合とは物の集まりという物である」という集合の定義に存在していたことが分かる。また、なぜそういうことが起きてしまうのかは、その集合の定義を記号論的に解釈することによって明確にできる。



What is a set which contains itself as an element

The set that causes Russell's paradox is "a set of sets that does not contain itself as an element", but it is hard to imagine a set of "a set containing itself as an element". However, you can clearly understand it from the point of view of Saussure's semiotics.

Saussure defines a symbol as an indivisible combination of the symbolic expression which is the symbol itself and the symbolic content pointed to by the symbol. Then, the definition of the naive set theory that "a set is an object which is a collection of objects" can be interpreted semiotically. That is, a set itself is a symbolic representation of a set, and a collection of objects that are extensions of the set can be defined as the symbolic content of the set.

Considering this kind of situation, the problem does not arise that the set itself, which is a symbolic representation, is included as an element of its extension. It is also possible if the set is not included in the extension.

A set whose symbol expression is not included in its extension is considered to be definable because it does not become a recursive definition. However, in that case, the property of the set as a symbolic representation has an attribute "not including itself as an element". So, considering the set of "sets that do not include themselves as elements", the set itself (symbolic expression) is not included in its extension (symbolic contents), but the set it self (symbolic expression) is also a set that does not include itself. Such a conflict occurs because of the symbolic expression of a set and the signification it i.e. its extension are inseparably linked.

Conversely, when a set itself, which is a symbolic representation, is included in its extension, it is a recursive definition. So it can not determine its own set itself. In other words, the question of what the group itself is unable to answer forever for infinite recursion.

In this way, it turns out that the cause of Russell's paradox occurring in the naive set theory was exactly in the definition of the set "a set is an object which is a collection of objects". Also, why such a thing happens can be clarified by semiotic interpretation of the definition of that set.


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by tnomura9 | 2016-12-26 12:45 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

ラッセルのパラドックスなんて怖くない

集合について初めて学習し始めたとき、そのわかりやすさがうれしかった。

集合を「ものの集まりというもの」としてとらえることで、いろいろなことが分かりやすくなる。和集合や共通部分の意味もよくわかったし、「xは犬である」という術語を満たす x を集めるとそれは集合になるという内包的定義も納得できた。

しかし、参考書を読み進めていくといきなりラッセルのパラドックスが現れて奈落の底に落されたような気持になった。「自分自身を要素として含まない集合の集合」を考えるとパラドックスになってしまうというのだ。素朴集合論はそのため数学の基礎としては全く使えないことになるというのだ。

便利なものをいろいろ見せられたうえで最後にそれは全部不良品でしたと言われたようで、腹立ちを覚えたことを覚えている。

こう言ってもらえたらよかったのだ。「素朴集合論は有限集合を扱っているうちは矛盾はありません。しかし、無限集合を扱うときと、内包的定義を使って集合を定義するなどの集合の概念の拡張を行うときは注意が必要です。」

これらは有限集合の拡張だ。全く問題のなかった有限集合の集合論を無限集合に拡張したり、内包的定義を導入したときにいろいろと不都合なことが起こる可能性がでてくる。無限集合についてはこの記事では触れない。

また、ラッセルのパラドックスは内包公理の問題であって、無限集合との関係はない。それは、床屋のパラドックスや、図書館目録のパラドックスが有限集合について述べているのにも関わらずパラドックスになってしまうことでもわかる。

ラッセルのパラドックスが発生する原因は、集合がものとしての集合それ自体と集合がさし示す「ものの集まり」としての二つの性質が不可分に結びついているという記号論的な構造にある。

ソシュールの記号論では、記号には記号そのものである記号表現とその記号がさし示す記号の概念である記号内容が不可分に結びついているとする。たとえは交通標識のUターン禁止は標識の図柄としてのUターン禁止の画像とそれがさし示すUターンが禁止されているという記号の意味が不可分に結びついている。

「集合とは物の集まりという物である」という集合の定義も、この記号論的な観点から分析することができる。つまり、集合には物としての記号表現とその集合が指し示す物の集まりとしての記号内容が不可分に結びついているのだ。

犬の集合には犬の集合という物としての記号表現と、その集合がさし示す犬の集まりが不可分に結びついている。この場合犬の集合という物も物の一つだから犬の集合の要素として含まれるかどうかを考えないといけない。犬の集合の場合犬の集合自体は犬ではないので自分自身の要素としては含まれない。

ところで、犬の集合や、猫の集合のような自分自身を要素として含まない集合を集めて集合を作ってみよう。たとえば犬の集合と猫の集合の集合である。この犬の集合と猫の集合の集合は自分自身がその要素として含まれるだろうか。犬の集合と猫の集合を集めたものが犬の集合と猫の集合の集合なので、それ自身は自分の要素としては含まれない。

ここで、犬の集合と、猫の集合を考えてみよう。これらはどちらも「自分自身を要素として含まない集合だ」また、犬の集合と猫の集合の集合もやはり、「自分自身を要素としては含まない集合の集合」だ。すなわち、「自分自身を要素として含まない集合」を集めた集合は、それがどのような集合であっても自分自身を要素としては含まないにも関わらず、「自分自身を要素として含まない集合」になってしまう。

したがって、「自分自身を要素として含まない集合」をどのように集めて集合を作ったとしても、その集合の記号内容としての集合は、自分自身を要素として含まないにも関わらず、その集合の記号表現としての集合は「自分自身を要素として含まない」という術語を充足してしまう。言い換えると、「自分自身を要素として含まない集合」を全てあつめた集合をこの述語では定義できないということだ。

端的に言うと、述語として全てのものがそれを充足するかしないかを判定できたとしても、その述語による内包的定義で定義できない集合があるということだ。それは集合に集合そのものとしての記号表現と、その集合が表す記号内容としての物のあつまりが不可分に結びついているという記号論的な性質から説明できる。

説明がわかりにくくなってしまったが、要するに集合は集合という記号表現とその集合で表される物の集まりという記号内容から構成されていると考えることがポイントだ。

この観点でラッセルの集合を見ると、自分自身を要素としては含んでいないがそれゆえに「自分自身を要素として含まない集合」であるというその構造が見えてくる。したがって、ラッセルのパラドックスを得体の知れない奇妙な集合と神秘的に捉える必要はなく、記号表現は、記号内容である物の集まりの一員ではないが、それゆえに記号表現がそれらと同じ述語を充足するという物の集まりの構造が見えてくる。

集合は物の集まりという物であるという集合の定義や「自分自身を要素として含まない集合の集合」というラッセルの集合の定義は単純である。したがってそこから発生するパラドックスのメカニズムも上に述べたように至極単純なものなのだ。

ラッセルの集合の構造が上に述べたような分かりやすい単純な構造であるのが分かれば、ラッセルのパラドックスを説明が不可能な神秘的な現象であると考える必要がなくなる。安心して集合を扱っていいのだ。



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by tnomura9 | 2016-12-18 23:49 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

Russell's Paradox

1. Russell's Paradox

The paradox of Russell is a paradox about naive set theory discovered by UK philosopher and mathematician Bertrand Russell. that is,

"The set of all sets that are not members of themselves can neither be a member of itself nor be not."

Consider this set as R, if R does not contain itself, R must be a member of R as R is "a set that is not a member of itself". On the other hand, if R contains R as an element, this must satisfy the intensional definition "a set that is not a member of itself", so R must not contain R as an element. In either case a paradox will occur.

Since sets should be divided into either sets that contain themselves or sets that do not contain themselves, if a paradox occurs in one of them, the method of defining a set with an intensional definition can not be used. Furthermore, since most of the sets seems not to contain themselves, the occurrence of a paradox in the collection of them will shake the foundation of set theory.

By definition that "a set" is considered as "an object" of collections of objects. And according to the comprehension axiom, a set can be defined by collecting objects that satisfy the predicate. But, the unmistakable paradox is hidden under these definition. You can imagine the hurdles of logic scholars and mathematicians. Even so, what is the secret mechanism of the paradox?

2. Mechanism of Russell's paradox

Let's see what mechanism causes Russell's paradox.

Russell's set is "a collection of all the sets that do not contain themselves". But before collect all of such sets, let's consider collect a suitable number of "sets that do not contain themselves" rather than all, and name the set R ' . For example, "the collection of dogs" is not a member of the collection of dogs, therefore, "the set of dogs" is "a set that does not contain itself". You can easily compose R' with those sets like "a set of dogs" if you do not consider collection of all of them.

And then, let us consider whether R ' itself is contained R'. From the intensional definition it is clear that R ' is not a member of R'. This is because if R' is contained in R' as an element, R' as an element becomes a set that contains itself. Therefore, R' never contains R' itself. However, for that matter, R' satisfies the predicate "a set that does not contain itself".

In the case of such a set, however, it is not a problem because the intensional definition is a collection of "suitable number of the sets which do not contain themselves". This set can exist stably. However, no matter what kind of R' is made, R' satisfies the predicate "a set that does not contain itself" in spite of R' does not contain R'. Therefore, we can not make the set that collects ALL the sets that do not contain themselves such as Russell's set. That means Russell's set cannot exist as "a set". Such collection should be thought as "a class".

In Russell's paradox it happened because such a collection was thought as a set. From that point of view, it is not permissible to have a collection that collects sets that do not contain themselves and not a member of itself at the same time. However, paradoxes will not occur if such a collection is classified as a class and distinguished from a set.

The point is, considering a set as an object is the essential cause of paradox. If you think about a set is an object, collection of objects it denotes must be distinguished from itself. In Saussure's semiotics, the sign is the inseparable combination of the signifier and the signified, and a set itself is apparently a signifier and its extension is a signified. From this point of view, you can easily imagine what is a set that contain itself and what is a set that does not contain itself. Both case can be occur in that model, although, any set which collect the sets that does not contain themselves never be a member of itself.


前回の記事で Google 翻訳で英作文したのが面白かったのでもう1回やってみた。元の原稿は過去記事の「ラッセルのパラドックスの謎が解けた」から取ったが、最後の結論の部分は Google 翻訳に対話的に日本語の文章を入力しながら作成した。その際、意味のある英文が出てくるまで日本語の文章の方を修正した。日本語の文章を短い明確な表現に変えると、翻訳された文章も英文らしい表現になっていくのが面白かった。

アイディアを英文でアップすれば、海外の人も読んでくれるかもしれない。機械翻訳が発展すれば、そんな夢のような時代がやってくるのだろう。

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by tnomura9 | 2016-12-09 02:16 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)