カテゴリ:ラッセルのパラドックス( 34 )

ラッセルの集合(クラス)の存在証明

素朴集合論の世界を「帰属関係の定義された対象のあつまり」と捉える方法では、ラッセルのパラドックスによって「自分自身を要素として含まない集合の集合」が矛盾を起こすことを示す。

いま、「帰属関係の定義された対象」a, b, c, ..., が無限に存在するとする。そこで、a, b, c, ..., を縦横に並べて行の対象が列の対象を要素として含まないときに 0, 行の対象が列の対象を要素として含むときに1となるような演算表を考える。すると、この演算表の行に現れる数列、たとえば 0, 1, 1, .., などは対象 a, b, c, ... の集合の部分集合を表している。すなわち、各行の a, b, c, ..., の外延である a, b, c, の集まりは、演算表の行の数列で表されることが分かる。

このとき、演算表の対角線部分はある対象が自分自身を要素として含むか含まないかを表す。対角線部分の数が 0 であればそれは対応する対象が自分自身を要素として含まないことを示し、1 であれば対応する対象が自分自身を要素として含むことを示す。そこで、対角線部分が0であれば1、1であれば0となるような数列を考えると、これは a, b, c, ..., の集まりの部分集合である。また、これは「自分自身を要素として含まない集合の集合」を表している。しかし、この集合は演算表の中に現れることはない。それは、対角線部分で演算表のどの行の集合とも異なるからだ。

このことをラッセルのパラドックス風に表現することもできる。そのような集合に対応する対象を r とする。この r の対角線部分の値は 0 とも 1 とも言うことができない。なぜならば、r の対角線部分が 0 であれば、r は自分自身を要素として含まない集合であるので、r に含まれるすなわち r の対角線部分は 1 でなければならないので矛盾するし、r の対角線部分が 1 であると仮定してもやはり矛盾するからである。従って、このような r は演算表に現れる事はできない。

以上の議論は、しかし、自分自身を要素として含まない集合の集合が存在しないことを意味しない。なぜなら、対角線部分を反転させてできる数列は明らかに a, b, c, ... の部分集合を表しているからだ。ただし、この部分集合は「帰属関係を定義された対象の集まり」の中に含まれることはない。すなわち、a, b, c, ... からなる集合全てを表現するには「帰属関係を定義された対象の集まり」では表現力が不足していることを示している。「自分自身を要素として含まない集合の集合」はこのような対象の内部には見つけられないが、このような対象の集まりの外部には表現可能なのである。

実際、a, b, c, ... の一つの部分集合は 0.0101.. のような0以上1未満の2進数の無限小数との全単射を作ることができる。この全単射関係によって a, b, c, ... の全ての部分集合の集合演算を0以上1未満の実数軸の上で考えることができる。ただし、上に述べた演算表ではその全てを表現することができない。ラッセルのパラドックスはこの穴ぼこだらけの演算表に現れた現象を示しているにすぎないのだ。

このような演算表に現れない a, b, c, ... の部分集合を集合ではなくクラスと呼ぶことにすると、演算表上の部分集合と演算表には現れない部分集合であるクラスとで a, b, c, ... の全ての部分集合をカバーすることができるため、集合の世界に矛盾なく論理を導入することができる。「帰属関係の定義された対象のあつまり」は表現力の不足から論理が構築できないが、集合というものの集まりをクラスにまで拡張することで全ての集合演算を行うことができる。

集合の世界に論理を持ち込むには、集合とクラスをあわせた広義のクラスが必要なのだ。

追記

「自分自身を要素として含む集合」や「自分自身を要素として含まない集合」は集合本来の概念とは異なるのではないだろうか。それは集合の世界を「帰属関係の定義された対象の集まり」という対象のネットワークで表現した方法による副産物のような気がする。そのため、上で議論したような表現力の不足する集合の世界が生まれてしまったのではないだろうか。だから、公理的集合論のような複雑な規則で縛られた公理体系よりもっとシンプルで論理とも相性の良い集合論があるような気がする。単なる直感的な印象だが。

追記その2

集合 a, b, c, ... の全ての部分集合を表すのに「帰属関係の定義された対象の集まり」では表現力不足であることは分かったが、それではそのような集合のネットワークから漏れた a, b, c, ... の部分集合は一体どれほどあるのだろうか。これは a, b, c, ... の部分集合が0以上1未満の実数と全単射で対応することを利用すると分かる。a, b, c, ... の外延に対応する a, b, c, ... の部分集合をそれぞれ 0 以上 1 未満の実数に対応させると、それは小さい方から整列させることができる。もちろん、a, b, c, ... は無限にあるのでこの操作は無限に終わらない。しかし無限に整列操作が行われていてもその整列された無限集合の隣り合う2つの実数は異なる実数である。ところが、実数の性質から相異なる2つの実数の間にはその2つの実数と異なる実数が存在する。つまり、「帰属関係の定義された対象のあつまり」で表現できない a, b, c, ... の部分集合は無限に存在することがわかる。

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by tnomura9 | 2017-07-08 06:10 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

集合の表現力とラッセルのパラドックス

集合 a, b, c を集めた集合の集合 A = {a, b, c} を考えてみる。素朴集合論では集合の世界は「帰属関係の定義された対象の集まり」と考えるから、a, b, c の間には帰属関係があると考える。たとえば、a = {}, b = {a}, c = {b} であるとする。この場合の a, b, c の帰属関係を演算表にすると次のようになる。

** a b c
a 0 0 0
b 1 0 0
c 0 1 0

ところで、A = {a, b, c} の全ての部分集合を集めた A のべき集合 B は、B = {{}, {a}, {b}, {c}, {a, b}, {a, c}, {b, c}, {a, b, c}} である。したがって、A = {a, b, c} に帰属関係を定義することによっては、A において発生可能な集合全てを表現するには圧倒的に表現力が不足してしまうのだ。したがって、集合 A は集合演算に対して閉じていない。たとえば b ∩ c = {a, b} であるが、この集合は上の演算表には現れない。

集合についての集合演算とは集合の論理であるから、上の例は、集合 A の要素には論理を適用することができないことを意味している。集合 A に論理を適用するためには、その冪集合 B を作り、B の要素のうち A に現れないものは集合ではなくクラスとして取り扱う事によって、集合Aの表現不足を補わなくてはならない。

例えば上の演算表の対角線部分は、a, b, c が自分自身を要素として含むかどうかを示している。上の演算表では対角線部分は全て0だから、a, b, c は全て自分自身を要素として含まない集合である。従って、この「自分自身を要素として含まない集合」の集合は {a, b, c} であるが、上の演算表では {a, b, c} を表現することはできない。これをクラスとして集合ではない集合として取り扱うのだ。

「集合とは帰属関係の定義された対象である」という素朴集合論の定義では、このように集合についての表現力が不足している。したがって、素朴集合論の世界に論理を適用することはできないのである。素朴集合論の世界に論理を適用できるようにするためには、その冪集合を考え、素朴集合論の世界に現れない冪集合の要素はクラスとして補う事によって、論理を適用させなければならない。

この方法なら、「自分自身を要素として含まない集合の集合」は存在しないが、「自分自身を要素として含まない集合のクラス」は存在しそれは {a, b, c} であるということができる。

素朴集合論に現れるラッセルのパラドックスのような矛盾は、集合の世界を「帰属関係の定義された対象の集まり」と定義することによる本質的な表現力不足が原因だったのだ。

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by tnomura9 | 2017-07-07 05:58 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

冪集合と論理

ある集合の部分集合を全て集めたものがその集合の冪集合だ。例えば A = {a, b, c} の全ての部分集合の集合 B は、B = {{}, {a}, {b}, {c}, {a, b}, {a, c}, {b, c}, {a, b, c}} である。

あたりまえのことだが、この冪集合は集合演算について閉じている。B の任意の2つの要素の和集合は A の部分集合なので和集合の演算は B について閉じている。同様のことが、共通部分や、差集合や、補集合についても言うことができる。

このように冪集合は集合の演算に親和性が高い。また、同時に冪集合の要素は論理とも整合性がある。論理とは表現を変えた集合演算であるので、集合演算について閉じている冪集合については、常に破綻なく論理を適用することができる。冪集合は集合の考え方と論理との理想的なペアを体現している。

上の例では有限集合の冪集合について考えたが、無限集合についてもその冪集合は有限集合と同じように論理演算について閉じている。

したがって、数学のある分野について、それを記述する冪集合を考えることができれば、その数学的対象は論理的に考察できることが保証される。

ところが、集合の考え方にはもう一つの特徴がある。それは、集合を一つの対象と考えて集合の集合を考えることができるということだ。残念ながら、冪集合には集合の集合は存在しない。

集合の集合を考えるためには「帰属関係の導入された対象の集まり」を考える必要がある。しかし、これは本質的にラッセルのパラドックスを抱えているので、論理とのすり合わせができない。

この「帰属関係の導入された対象の集まり」を冪集合に変換することができれば、論理と破綻なく整合性があり、かつ、集合の集合のような高階の集合も扱える集合論を構築できる。.... 筈だ。

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by tnomura9 | 2017-07-05 02:32 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

集合 論理 クラス

素朴集合論の世界は「帰属関係が導入された対象の集まり」としてモデル化できる。しかし、このモデルには残念ながら論理は適用できない。ここでいう論理とは、排中律(補集合)を含む集合演算のことである。

素朴集合のモデルである「帰属関係が導入された対象の集まり」では、帰属関係から、対象にその外延という対象の集まりを定義できるが、対象の集まりの部分集合を全て表現するためには対象の数が足りない。これは対象の集まりが有限のときは自明である。N個の対象に対し、その冪集合の要素は2^N個あるからだ。

たとえば {a, b, c} という集合の部分集合を全て挙げると次のようになる。

** a b c
a 0 0 0
b 1 0 0
c 0 1 0
d 1 1 0
e 0 0 1
f 1 0 1
g 0 1 1
h 1 1 1

この演算表の各行の数列は、その対象が各列の対象を要素として含んでいるかどうかを表している。たとえば、対象 c では 0 1 0 だから、c は対象 b だけを要素として含んでいる。すなわち c = {b} である。

{a, b c} の考え得る全ての部分集合は各行の a, b, ..., h という対象で表されている。たとえば {a, b, c} の対象全てを要素とする対象は h である。

ところが、この演算表の行に現れる対象は {a, b, c} の中には現れないものがある。すなわち、c, d, ..., h は {a, b, c} の中には現れない。素朴集合の世界を「帰属関係を導入された対象の集まり」と捉えると、上の演算表で言えば、{a, b, c} の素朴集合の世界は次のような対称な演算表で表される。これには c, d, ..., h は含まれない。

** a b c
a 0 0 0
b 1 0 0
c 0 1 0

この場合 a = {}, b = {a}, c = {b} だが、素朴集合の世界を「帰属関係の定義された対象の集まり」で表す対称な演算表はこれに限らない。次のようなものでもいいのだ。

** a b c
a 1 0 1
b 0 1 1
c 1 0 0

この場合は a = {a, c}, b = {b, c}, c = {a} である。どのような対称な演算表にするかは、どのような集合を扱いたいかによって選択すればいいのだ。

ただ、対称な演算表は {a, b, c} の全ての部分集合を表す事ができないので、この演算表では集合演算を定義できない。たとえば上の演算表で言えば a ∩ b = {c} であるが {c} を表す対象はこの演算表には存在しない。

しかし {a, b, c} に加えて d, e, .., h という対象を加えると {a, b, c} の全ての部分集合について集合演算を定義することができる。上の演算では a ∩ b は存在しなかったが、拡張された対象では a ∩ b = e となる。ただし e は {a, b, c} には含まれないので e を集合と呼ぶわけにはいかない。e は集合ではないが集合に準じるものなのでクラスと呼ばれる。

論理とは集合演算のことである。しかし集合の世界を「帰属関係の導入された対象の集まり」と定義すると、その定義の表現力不足から集合演算を適用できない場合がでてくる。この困難は集合に加えてクラスという拡張を行い、集合演算はクラスをふくむ対象の集まりに適用することで論理(集合演算)との整合性をもたせることができる。集合とクラスを含めて広義のクラスという対象と考えると広義のクラスの集まりには論理(集合演算)を定義できるのだ。

例えば集合の演算表が次のような場合、

** a b c
a 1 0 1
b 0 1 1
c 1 0 0

自分を要素として含まない集合の集合は 0, 0, 1 であってこの対照な演算表による集合の世界には現れないがクラスの世界では e = {c} として表現できる。

素朴集合論の世界を「帰属関係の導入された対象の集まり」として定義すると、それに論理(集合演算)を適用するためには、それをクラスの世界に拡張する必要があるのだ。

ここで述べたのは有限集合についての議論だったが、無限集合についても基本的には成り立ちそうなのは、無限の対称な演算表についても対角線論法によってラッセルのパラドックスが発生することからも分かる。

素朴集合論の最大の困難はその世界に論理が適用できないということだった。しかし素朴集合論の世界を広義のクラスに拡張すればそこには論理(集合演算)が適用できることが分かる。

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by tnomura9 | 2017-07-04 06:25 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

実数と自然数の冪集合

素朴集合論の世界を「帰属関係の定義された対照の集まり」と考えると、不動点定理からラッセルのパラドックスが発生することを前回の記事で述べた。したがって、このモデルでは対象の全ての帰属関係を表現できないので、集合の演算を定義できない。集合の演算が定義できない集合が発生してしまうからだ。

しかしながら、「帰属関係の定義された対象の集まり」というモデルは、集合の集合のようなものもうまく表現できるので捨てがたいものがある。また、自分自身を要素として含む集合や、自分自身を要素として含まない集合のようなものの対角線部分の値として表現できる。なんとかこれに集合の演算を導入できないものだろうかと考えてみた。

たとえば、集合 {a, b, c} の全ての部分集合を集めると次のようになる。

** a b c
0 0 0 0
1 1 0 0
2 0 1 0
3 1 1 0
4 0 0 1
5 1 0 1
6 0 1 1
7 1 1 1

各行の 0 1 0 などの数列はそれぞれ {a, b, c} の部分集合をあらわしている。たとえば 0 1 0 は対象 b だけが含まれるので {b} である。また、6行目の 0 1 1 は対象 b, c が含まれるので {b, c} である。これらの部分集合を対象 a, b, c の外延として考えると次のような対照な演算表を作ることができる。

** a b c
a 1 0 0
b 0 1 1
c 0 1 0

ただし、{a, b, c} の部分集合は8個あるのに、この演算表ではそのうちの3個しか a, b, c という対照の外延として表現できないのでこの演算表では全ての {a, b, c} の部分集合を表すことはできない。したがって、この演算表の対角線部分を反転させた、0 0 1 すなわち {c} はこの演算表にはどうしても現れない。対角線部分で a, b, c のどの外延とも一致しないからだ。また、この集合はあきらかに「自分自身を要素として含まない集合の集合」である。

ここで、上の演算表とは異なるつぎのような演算表も考えてみる。

** a b c
a 0 1 0
b 1 1 0
c 1 0 1

この場合は対角線を反転させた部分集合は 1 0 0 すなわち {a} である。これは、この演算表における「自分自身を要素として含まない集合の集合」であるが、先程の演算表の {c} とは異なっている。つまり、「自分自身を要素として含まない集合の集合」とは {a, b, c} の特定の部分集合ではなく、演算表の内容によって変化する。「自分自身を要素として含まない集合の集合」という定義は演算表に依存し、特定の集合を定義するものではないのだ。このようなモデルに集合演算が定義できないのは明らかだ。

ところで、最初に挙げた 3 列 8 行の演算表を眺めてみよう。演算表の縦の自然数 0 .. 7 は {a, b, c} の部分集合と全単射で対応しているのは明らかだ。したがって、{a, b, c} の集合演算は {0, 1, .. , 7} の中で完全に定義できる。例えば {a, b} ∩ {b, c} = {b} は 3 ∩ 6 = 2 と表現できる。

このように、{a, b, c} の部分集合を a, b, c で表すことはその一部分しか表現できないが、{a, b, c} の部分集合を 0 .. 7 に全単射で対応付けることによってその集合演算を過不足なく表現することができる。

同じようなことが自然数の部分集合についてもできないだろうか。

たとえば自然数 1, 2, ... に対してその自然数が要素として含まれていれば 1 含まれていなければ 0 となるような無限数列 0 1 0 1 1 ... のようなものを考えてみる。そうしてこれを2進数の小数に対応づけてみる。すると 0 1 0 1 1 ... は 0.01011 ... のような無限少数に対応する。この方法をつかうと自然数の部分集合はこの無限小数の一つと全単射で対応することが分かる。この無限小数の小数点下を調べれば、自然数の部分集合にどの自然数が含まれているかを知ることができるし、自然数の部分集合が異なっていれば、それに対応する無限少数も異なるからである。

つまり、自然数の部分集合は0以上1未満の全ての実数に全単射で対応していることが分かる。従って自然数と0以上1未満の実数との対照表を作れば、自然数の全ての部分集合の演算を実数の演算として表現することができる。

それでは、そのような演算表に「自分自身を要素として含まない集合の集合」は表現できるのだろうか。残念ながらこれはできない。演算表の各行は 0以上1未満の数なのでその中には自然数は1つも含まれていないからだ。

このように、「帰属関係の定義された対象のあつまり」としての対象的な演算表では全ての部分集合を表現できないし、対象の全ての部分集合と実数との対照表を作っても今度は、自分自身を要素として含まない集合などの情報が抜け落ちてしまう。素朴集合論の定義で集合の世界を閉じ込めようとしてもなかなか悩ましい問題がある。

素朴集合論の世界に論理を導入しようとしても、帰属関係による演算表では全ての部分集合を表現できないし、対象の全ての部分集合を実数に閉じ込めると、論理との整合性は取れるが、今度は「自分自身を要素とする集合の集合」というような情報が抜け落ちてしまう。集合と論理の関係を取り持つのはなかなか難しい。



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by tnomura9 | 2017-07-03 04:43 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

帰属関係と素朴集合論

前回の記事は、「集合とは対象の集まりという対象である」という定義から素朴集合論の世界を眺めてみたが、今回はもう一つ別の観点から素朴集合論の世界を眺めてみたい。それは対象と対象の帰属関係という観点から素朴集合の世界を考える方法だ。

集合の世界の対象の間には帰属関係という二項関係が存在する。a ∈ B は対象 a が集合 B に属するという帰属関係を表している。しかし、素朴集合論の世界では集合も一つの対象として扱われるからこの帰属関係は a ∈ b というような対象と対象の間の二項関係と考えることができる。従って素朴集合の世界は対象と対象の間に帰属関係が存在するような対象の集まりと考えられる。

対象 a は b に属するか、属さないかのどちらかなので、帰属関係は2変数関数で {0, 1} の2値をとると考えられる。すなわち、∈ :: {a, b, c, ... } x {a, b, c, ... } -> {0, 1} という型の関数である。この2変数関数の値は次のような演算表で計算することができる。記述を簡単にするために対象が {a, b, c} であるような集まりを考える。

** a b c
a 0 0 0
b 1 0 0
c 0 1 0

このとき帰属関係を表す関数を ψとおくと。ψ(a, a) = 0, ψ(a, b) = 0, ψ(a, c) = 0, ψ(b, a) = 1, ... となる。この表で行の対象が列の対象を含んでいるときに 1, 含んでいないときに 0 であるとすると、a の行の数列 0 0 0 は一つの集合を表す、すなわち a = {} である。また、b = {a} であることも分かる。

ここで、この行の対象を固定すると g(x) = ψ(a, x) という対象の1変数の関数を考えることができる。このとき、g(a) = ψ(a, a) = 0, g(b) = ψ(a, b) = 0, g(c) = ψ(a, c) = 0 である。すなわち g(x) は集合 a がどの対象を含んでいるかを示しているのでこれを ga(x) と書くことにする。同様に gb(x) = ψ(b, x), gc(x) = ψ(c, x) も考えることができる。ga(x) = ψ(a, x) のとき a は ga(x) のインデックスであるという。ga(x) が集合を表しているとして、a はその集合のラベルになっているからだ。

さらに対角関数というものも考える ⊿(x) = ψ(x, x) だ。これは上の演算表の対角成分を表すから、⊿(a) = 0, ⊿(b) = 0, ⊿(c) = 0 である。

最後にこの⊿関数と適当な関数 f(x) を使って関数 h(x) を定義する例えば f(0) = 0, f(1) = 1 を使うことにすると、h(x) = f(⊿(x)) = f(ψ(x,x)) だから、h(a) = f(ψ(a,a)) = f(0) = 0。同様に h(b) = 0, h(c) = 0 になる。このとき、h(x) の振る舞いをみると h(x) = ga(x) になることが分かる。

同様に j(0) = 1, j(1) = 0 を使って i(x) = j(⊿(x)) と定義すると i(a) = 1, i(b) = 1, i(c) = 1 となって演算表から作った ga(x), gb(x), gc(x) のどれとも一致しない。

ところで、素朴集合論の世界で対象が全て集合であるものを考える。このとき、全ての対象は他の対象との間の帰属関係があるのでこれを ψ(x, y) とする。ここで f(0) = 1, f(1) = 0 という関数をつかって g0(x) = f(⊿(x)) = f(ψ(x,x)) という関数を定義する。g0 は対象についての1変数関数であるから、インデックスとなる対象 a0 を持っているはずである。すなわち g0(x) = ψ(a0, x) である。このとき次の等式が成立する。

f(ψ(a0, a0)) = g0(a0) = ψ(a0,a0)

これは、ψ(a0, a0) が 関数 f の不動点となり、f を関数適用しても値が変化しないことを示している。

ところが、ψ(a0, a0) は 1 か 0 の値をとるが、f(1) = 0, f(0) = 1 のはずなのでこれは上の結論と矛盾する。なにが行けなかったのかというと、対象の1変数関数に全てインデックスが存在するという仮定が間違っていたのだ。上の具体例でも i(x) と同じ振る舞いをする ga(x), gb(x), gc(x) は存在しない。

実際集合 {a, b, c} とその冪集合との対応表は次のように対称行列にはならない。

** a b c
a 0 0 0
b 1 0 0
c 0 1 0
d 1 1 0
e 0 0 1
f 1 0 1
g 0 1 1
h 1 1 1

素朴集合論の世界が帰属関係という対称な演算表で表現できる場合、不動点定理は成立しなくてはならない。従って素朴集合論の世界はこのような対称的な演算表では表現できない事がわかる。対象の集合とその冪集合とのボタンの掛け違いは対象の数を無限に増やしたとしても解消できないのだ。

素朴集合論の世界のモデルを対称な演算表ではなく上のような縦長の表を使って構築したとき、論理との整合性を取っていけるのかどうかは興味のあるところだ。




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by tnomura9 | 2017-06-30 01:20 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

ラッセルのパラドックスと素朴集合論の世界

素朴集合論の定義では「集合とは物のあつまりという物である」として集合を一種の物として扱う。そこで、物としての集合を集めて A としてみる。Aの要素である集合はなにかの物の集まりを代表しているが、それは、他でもない A の部分集合である。これが、素朴集合論の世界である。

有限集合の場合について言えば、N個の物の集合Aがあるとき、その部分集合の数は2^N個ある。したがってA の要素でAの部分集合を代表させようとすると個数が必ず不足するので、Aの部分集合の一部しかAの要素で代表させることはできない。

例えば {a, b, c} の部分集合は {}, {a}, {b}, {c}, {a, b}, {a, c}, {b, c}, {a, b, c} の8個だ。これらは次のような表に表すこともできる。各行は {a, b, c} の部分集合で、列の 1 と 0 はその列の要素が部分集合に含まれているかどうかを表す。

** a b c
0 0 0 0
1 1 0 0
2 0 1 0
3 0 0 1
4 1 1 0
5 1 0 1
6 0 1 1
7 1 1 1

これらの集合を {a, b, c} の要素に対応させると次のような正方行列になる。

** a b c
a 0 0 0
b 1 0 0
c 0 1 0

a, b, c に対応させる集合はなんでもいいので、

** a b c
a 0 1 1
b 1 0 0
c 1 0 1

のようなものも考えられる。いずれにせよ {a, b, c} で代表できる部分集合は8個あるうちの、上のような正方行列に収まる3個しかない。{a, b, c} の部分集合を a, b, c で代表させようとしても正方行列の窓から見える3個の部分集合しか扱えないのだ。

これは物の集合の要素数がどのように大きくなっても変わらない。「集合とは物の集まりという物である」という素朴集合論の集合の定義では、集合を表す「もの」の数をどのように大きくとっても、その冪集合の一部分としか対応させることができないのだ。

このような状況で、「自分自身を要素として含まない集合の集合」のような自己言及的な定義で集合を定義しようとすると、その集合はうえに述べた正方行列の対応表に載せることができない。対応表の集合をどのように選んでもその集合は対応表の外にしか見つけられないからだ。

たとえば、対応表が

** a b c
a 0 1 1
b 1 0 0
c 1 0 1

の場合「自分自身を要素として含まない集合の集合」は対角線部分を反転させた 1 1 0 すなわち {a, b} になるがこれはどの行の集合とも対角線で異なっている。このような集合はどのような場合も正規行列の対照表からははずれることになる。これが対角線論法の本質なのだ。

集合を物として表現したとき、必然的にその物をふくむ冪集合が発生するが、その量は常に集合の物全体よりは大きいのだ。この関係は集合を1個の「もの」と考える素朴集合論では必ず発生する現象だ。そうして、それは不可解なラッセルのパラドックスが発生する母体になっている。

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by tnomura9 | 2017-06-29 13:57 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

素朴集合論と図書館のパラドックス

素朴集合論でラッセルのパラドックスが起きるのを不思議に感じるのは、素朴集合論の視覚的なイメージがないからだ。しかし、素朴集合論はよく知られた図書館のパラドックスによってうまくイメージ化することができる。

図書館のパラドックスとはラッセルによって発見されたパラドックスだ。図書館の本には自分自身に言及したものとそうでないものがある。ところが、自分自身に言及しない本の目録を作るとその目録自体は目録の内容に含まれるとも含まれないとも言えないというものだ。

もし目録に自分自身が言及されているとその目録は自分自身に言及しているので、目録には記載できないはずだ。また、目録に自分自身が言及されていない場合、目録の性質から目録は自分自身に記載されなくてはならないことになりこれも矛盾する。

この図書館のパラドックスを少し変えると、素朴集合論の端的なイメージモデルになる。そのために少し工夫をする。この図書館の本は全て目録でできているとするのだ。この場合、図書館の1冊の本は1つの集合を表す。1冊の本は集合を表し、その本の中の目録はその集合の外延を表している。これは集合を要素とする有限集合についての、素朴集合論のイメージモデルとなる。

このイメージモデルからいろいろな素朴集合の性質を調べる事ができる。まず集合を一つの「もの」と考えて他の集合の要素とすることができるということだ。つまり、1冊の本は「もの」であり、他の集合の目録に記載できる。すなわち、集合は他の集合の要素となる事ができる。これは「集合とはものの集まりという『もの』である」という素朴集合論の集合の定義をイメージ化したものになる。

この図書館の本には、自分自身の内容に自分自身を登録できる。素朴集合論の集合の定義からは、「自分自身を要素として含む集合」を考えることができる。したがって、図書館の本の中には「自分自身を要素として含む集合」と「自分自身を要素として含まない集合」が存在することが分かる。

しかしながら「自分自身を要素として含まない集合の集合」という本は図書館のパラドックスからこの図書館の蔵書としては作ることができない。図書館の本には明らかに「自分自身を要素として含まない集合」である本のグループがあるのに、それを集めた目録ができないのは不思議に感じるが、しかし、それは図書館の蔵書のなかで完結させようとしたために起こる不都合で、図書館の外にそのような目録を作ることは可能だ。

実は、図書館の蔵書の数を N とすると、図書館の本の集まり(集合)の種類は 2^N となり、到底図書館の本の可能な集合全てを図書館の本として作成するのは不可能なのだ。図書館の蔵書には図書館の本を要素とする集合のごく一部しか目録として作成できない。

しかし、図書館の蔵書の可能な集合の目録を別の図書館につくればそのような制限はない。ただし、その目録は図書館の蔵書ではないためその目録を要素とする集合は作ることができなくなる。

このように、ものの集まりを「もの」として扱うという素朴集合論のアイディアは必然的に自己言及性を免れない。ラッセルのパラドックスはこの自己言及性が集合の定義に使われたためにおきる矛盾なのだ。

たしかに 2^N ある図書館の蔵書の集合を N 冊の本で表現はできないだろうが、組み合わせ次第では「自分自身を要素として含まない集合の集合」を作れるのではないか。なぜそれができないのだろうか。それは、自分自身を要素として含まない集合の集合は、図書館の蔵書の内容によって変化してしまうからだ。

2^N の集合のうち N 個を選んで図書館の蔵書としたとする。そのときには明らかに「自分を要素として含まない集合」の集合はあるが、しかし、その内容は N 個の蔵書の選び方によって変化してしまう。「自分自身を要素として含まない集合の集合」は固定的な集合ではなく、図書館の蔵書として選び出す N 個の蔵書の種類によって常に変化する。つまり集合の定義の自己言及性のため、どの集合を図書館の蔵書として選定しても、そのなかには「自分自身を要素として含まない集合の集合」は作れない仕組みになっている。これがラッセルのパラドックスの正体だ。問題は集合にではなく、集合の定義の仕方にあったのだ。

これらの集合の性質は、図書館の蔵書が有限だから起きるとしても、どのように図書館の蔵書を増やしても成立するので無限の集合の集まりを考えても、ラッセルのパラドックスを解消することはできない。再帰的定義によって無限を捉えるやり方は、その根拠は必ず有限の論議に基づくため、有限集合で論じられる性質は無限集合についても保存される。

素朴集合論は目録を集めた図書館としてイメージ化することができる。また、ラッセルのパラドックスのメカニズムをこのイメージ化によって理解することができる。

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by tnomura9 | 2017-06-28 07:21 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

自然数の冪集合と連続性

自然数を1から初めて順に右に並べてみると次のようになるだろう。

1,2,3,4,5, ...

この自然数の列の下に適当に 0 と 1 を並べると次のようになる。

1,2,3,4,5, ...,
0,0,1,0,1, ....

上の数列のうち下の列は自然数の冪集合の一つの要素と全単射の関係にある。すなわち、この数列で表される自然数の部分集合は、0がついている列の自然数を含まず、1 がついている列の自然数を含んでいると考えることができる。つまり、この方法で自然数の部分集合をタグづけできることになる。

たとえば集合 {2, 3} については、

0,1,1,0,0,0, ....

という無限数列で表すことができる。また、この数列のタグを左右をひっくり返して2進数 110 (=6) に自然に対応させることもできるのが分かる。

ところが、少し考えると、この無限数列を個として取り出すことは不可能である事がわかる。たとえば、

0.1,1,0,0,0, ...

と4列目からの数が全て 0 の数列は一つの無限数列として特定できて、それを 110 (=6) と対応づけることは自明のように思えるが、この数列と100万桁目が1になる数列と区別するのは数列の100万桁目を見ないと分からない。さらに言うと無限遠で数列の値が 1 にならないという保証はないのだ。つまり、{2, 3} という明らかな有限部分集合も、その他の集合との区別が不可能であることがわかる。無限遠まで 0 が続くというのはあくまでも観察者の仮定が混じっているからいえるのだ。

すなわち、1, 2, 3 のような自然数の要素は個体として認識できるが、自然数の部分集合についてはある仮定を導入しないとそれを個として認めることができない。つまり、自然数の冪集合とは連続体なのである。有限集合はそれを表すある桁数からは全て0であるという仮定においてのみ個として認める事ができるが、その場合においても無限遠で1が出現する集合との差を見つけることはできない。

このように自然数の要素は個として認めることができるが、自然数の冪集合の要素は個として認めることが本質的に不可能であるという定性的な性質が、自然数の集合とその冪集合との全単射ができない本当の理由なのだ。

自然数の部分集合のうち有限集合の全てについては、それに対応する自然数を割り当てる事ができる。それは、有限集合については、上で述べたような仮定によって個として認めることができるからだ。しかし、このような自然数と自然数の有限部分集合との対応関係の表は対称行列にはならない。この対応表の一部の対称な部分についてはどの部分をとってもカントールの定理のような対角線部分を反転させた数列は含まれない。この対応表を無限の対照表について拡大してもこの関係は変わらない。

カントールの定理は、このように有限部分集合と自然数の対応表についての議論から自然数と自然数の冪集合の全単射ができないことを証明するが、自然数の集合と自然集合の冪集合との本当の違いに光をあててはくれない。自然数の全単射が不可能なことは冪集合の性質のごく一部分に光を当てることで証明できるが、自然数の集合の要素には個体が存在し、自然数の冪集合の要素には個体と言えるものが無いという本質的な違いを照らし出してはくれない。

以上の説明で有理数の稠密性にもかかわらず、自然数とその冪集合の全単射ができないことをイメージすることができるのではないかと思う。自然数と実数の違いは、自然数の個体性と実数の連続性という定性的な違いだったのだ。

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by tnomura9 | 2017-06-21 00:30 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

無限集合とは何か

自然数の集合は無限集合だ。つまり、自然数の集合の要素数は無限だ。しかし、その要素はどれも有限の値をとる。自然数の集合の要素に無限大はない。

それでは、自然数の集合の冪集合についてはどうだろうか。次のようにすれば自然数のべき集合を網羅的に作ることができる。自然数の数列 1, 2, 3, ... を2進数の1桁目、2桁目、3桁目に対応させる。そうして自然数の部分集合が 1 を要素として含んでいれば2進数の1桁目を 1 とし、含んでいなければ 0 とする。同様に 2 が含まれていれば2桁目の値が1に、2が含まれていなければ2桁目が0というように、2進数の無限桁にいたるまで各桁に0または1を割り当てると、その2進数は任意の自然数のべき集合と全単射の関係になる。ただしべき集合が無限集合の場合2進数も無限になってしまう。

自然数のべき集合についても、自然数の場合と同じように無限の要素を含むがその要素自体は有限集合だと考えることができれば、上のべき集合の列挙の仕方は成り立つ。任意の有限のべき集合はそれに対応する2進数を持ち、任意の2進数が異なっていればそれに対応するべき集合の要素も異なるからだ。

ところが、自然数のべき集合の要素の中には無限集合も存在すると考えられる。たとえば、1を含まず他の全ての自然数を含む集合は無限集合だ。この場合はこの集合に対応する2進数を求めようとするとそれは無限大になってしまう。

しかし、この1を含まず他の全ての自然数を含む集合について考えてみると奇妙な現象に気がつく。1を含まず他の全ての自然数を含む集合を同定してみよう。つまり、1を含まず無限にいたるどこかの自然数を含んでいない集合との区別ができるかどうかである。つまり、ある集合が1と100万を含んでいなければ、これは1を含まず他の自然数を全て含む集合との区別ができる。しかし、自然数を100万まで数え上げないとその差を知ることができない。それでは1と無限大を含まない集合はどうだろうか。無限大とは数ではなく、自然数が次々に拡大していく運動のようなものだから1と無限大を含まない集合と1以外の全ての自然数を含む集合との区別ができない。

つまり1を含まずそれ以外の全ての自然数を含む集合とは、個体として識別することが不可能な集合なのだ。{1}は明らかに他と区別することのできる集合だ。しかし、1を含まずその他の全ての自然数を含む集合とは実は個体として取り出すことが不可能なのである。

1を含まずその他の全ての自然数を含む集合とは、自然数の集合に集合演算である補集合を適用したために発生する集合だ。しかし、自然数の集合に補集合の演算を適用するのは不適切な場合、1を含まずその他の自然数を全て含む集合を考えることはできない。このような集合を自然数のべき集合の要素として認めたうえで自然数の集合との全単射を考えるというのははたして適切な議論だろうかという疑問が沸いてくる。何か大切な要点を無視しているのではないかという印象だ。

数学者ではないので見当はずれな議論かもしれないが、何となく無限集合についての納得がいかない感じが残る。



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by tnomura9 | 2017-06-17 15:29 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)