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カテゴリ:ラッセルのパラドックス( 4 )

自分自身を要素として含む集合と含まない集合

ラッセルのパラドックスを引き起こす集合は、「自分自身を要素として含まない集合の集合」だが、「自分自身を要素として含む集合」という集合もイメージしづらい。ところが、これをソシュールの記号論的に解釈すると意外にすっきりと理解できる。

ソシュールは記号をその記号自体である記号表現とその記号が指し示す記号内容が不可分に結びついたものと定義している。そうして、「集合とは物の集まりという物である」という素朴集合論の定義は、記号論的に解釈することができる。すなわち、ものとしての集合は集合の記号表現であり、その集合の外延である物の集まりは集合の記号内容であると定義できる。

こういう風に考えると、記号表現である集合自体がその外延の要素として含まれていることには問題が起きない。また、集合がその外延に含まれていない場合も可能だ。

記号表現である集合自身がその外延に含まれない集合は、再帰的定義にはならないので確定できると思われる。しかし、その場合記号表現としての集合の性質には「自分自身を要素としては含まない」という属性が発生する。そこで、「自分自身を要素として含まない集合」の集合を考えると、記号内容としての外延の要素には自分自身を要素として含まないが、それゆえに記号表現としての集合は「自分自身を要素として含まない集合」という属性を持つことになる。このようなコンフリクトが発生するのは、集合の定義では集合という記号表現とその外延という記号内容が不可分に結びつくためだ。

また、記号表現である集合自身がその外延に含まれるときは、再帰的な定義となるため、その要素である集合自身を確定することができない。つまり、その集合自身は何かという問いには無限再帰のため永遠に答えられない。

こう考えると、素朴集合論にラッセルのパラドックスが発生する原因は、まさに「集合とは物の集まりという物である」という集合の定義に存在していたことが分かる。また、なぜそういうことが起きてしまうのかは、その集合の定義を記号論的に解釈することによって明確にできる。



What is a set which contains itself as an element

The set that causes Russell's paradox is "a set of sets that does not contain itself as an element", but it is hard to imagine a set of "a set containing itself as an element". However, you can clearly understand it from the point of view of Saussure's semiotics.

Saussure defines a symbol as an indivisible combination of the symbolic expression which is the symbol itself and the symbolic content pointed to by the symbol. Then, the definition of the naive set theory that "a set is an object which is a collection of objects" can be interpreted semiotically. That is, a set itself is a symbolic representation of a set, and a collection of objects that are extensions of the set can be defined as the symbolic content of the set.

Considering this kind of situation, the problem does not arise that the set itself, which is a symbolic representation, is included as an element of its extension. It is also possible if the set is not included in the extension.

A set whose symbol expression is not included in its extension is considered to be definable because it does not become a recursive definition. However, in that case, the property of the set as a symbolic representation has an attribute "not including itself as an element". So, considering the set of "sets that do not include themselves as elements", the set itself (symbolic expression) is not included in its extension (symbolic contents), but the set it self (symbolic expression) is also a set that does not include itself. Such a conflict occurs because of the symbolic expression of a set and the signification it i.e. its extension are inseparably linked.

Conversely, when a set itself, which is a symbolic representation, is included in its extension, it is a recursive definition. So it can not determine its own set itself. In other words, the question of what the group itself is unable to answer forever for infinite recursion.

In this way, it turns out that the cause of Russell's paradox occurring in the naive set theory was exactly in the definition of the set "a set is an object which is a collection of objects". Also, why such a thing happens can be clarified by semiotic interpretation of the definition of that set.


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by tnomura9 | 2016-12-26 12:45 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

ラッセルのパラドックスなんて怖くない

集合について初めて学習し始めたとき、そのわかりやすさがうれしかった。

集合を「ものの集まりというもの」としてとらえることで、いろいろなことが分かりやすくなる。和集合や共通部分の意味もよくわかったし、「xは犬である」という術語を満たす x を集めるとそれは集合になるという内包的定義も納得できた。

しかし、参考書を読み進めていくといきなりラッセルのパラドックスが現れて奈落の底に落されたような気持になった。「自分自身を要素として含まない集合の集合」を考えるとパラドックスになってしまうというのだ。素朴集合論はそのため数学の基礎としては全く使えないことになるというのだ。

便利なものをいろいろ見せられたうえで最後にそれは全部不良品でしたと言われたようで、腹立ちを覚えたことを覚えている。

こう言ってもらえたらよかったのだ。「素朴集合論は有限集合を扱っているうちは矛盾はありません。しかし、無限集合を扱うときと、内包的定義を使って集合を定義するなどの集合の概念の拡張を行うときは注意が必要です。」

これらは有限集合の拡張だ。全く問題のなかった有限集合の集合論を無限集合に拡張したり、内包的定義を導入したときにいろいろと不都合なことが起こる可能性がでてくる。無限集合についてはこの記事では触れない。

また、ラッセルのパラドックスは内包公理の問題であって、無限集合との関係はない。それは、床屋のパラドックスや、図書館目録のパラドックスが有限集合について述べているのにも関わらずパラドックスになってしまうことでもわかる。

ラッセルのパラドックスが発生する原因は、集合がものとしての集合それ自体と集合がさし示す「ものの集まり」としての二つの性質が不可分に結びついているという記号論的な構造にある。

ソシュールの記号論では、記号には記号そのものである記号表現とその記号がさし示す記号の概念である記号内容が不可分に結びついているとする。たとえは交通標識のUターン禁止は標識の図柄としてのUターン禁止の画像とそれがさし示すUターンが禁止されているという記号の意味が不可分に結びついている。

「集合とは物の集まりという物である」という集合の定義も、この記号論的な観点から分析することができる。つまり、集合には物としての記号表現とその集合が指し示す物の集まりとしての記号内容が不可分に結びついているのだ。

犬の集合には犬の集合という物としての記号表現と、その集合がさし示す犬の集まりが不可分に結びついている。この場合犬の集合という物も物の一つだから犬の集合の要素として含まれるかどうかを考えないといけない。犬の集合の場合犬の集合自体は犬ではないので自分自身の要素としては含まれない。

ところで、犬の集合や、猫の集合のような自分自身を要素として含まない集合を集めて集合を作ってみよう。たとえば犬の集合と猫の集合の集合である。この犬の集合と猫の集合の集合は自分自身がその要素として含まれるだろうか。犬の集合と猫の集合を集めたものが犬の集合と猫の集合の集合なので、それ自身は自分の要素としては含まれない。

ここで、犬の集合と、猫の集合を考えてみよう。これらはどちらも「自分自身を要素として含まない集合だ」また、犬の集合と猫の集合の集合もやはり、「自分自身を要素としては含まない集合の集合」だ。すなわち、「自分自身を要素として含まない集合」を集めた集合は、それがどのような集合であっても自分自身を要素としては含まないにも関わらず、「自分自身を要素として含まない集合」になってしまう。

したがって、「自分自身を要素として含まない集合」をどのように集めて集合を作ったとしても、その集合の記号内容としての集合は、自分自身を要素として含まないにも関わらず、その集合の記号表現としての集合は「自分自身を要素として含まない」という術語を充足してしまう。言い換えると、「自分自身を要素として含まない集合」を全てあつめた集合をこの述語では定義できないということだ。

端的に言うと、述語として全てのものがそれを充足するかしないかを判定できたとしても、その述語による内包的定義で定義できない集合があるということだ。それは集合に集合そのものとしての記号表現と、その集合が表す記号内容としての物のあつまりが不可分に結びついているという記号論的な性質から説明できる。

説明がわかりにくくなってしまったが、要するに集合は集合という記号表現とその集合で表される物の集まりという記号内容から構成されていると考えることがポイントだ。

この観点でラッセルの集合を見ると、自分自身を要素としては含んでいないがそれゆえに「自分自身を要素として含まない集合」であるというその構造が見えてくる。したがって、ラッセルのパラドックスを得体の知れない奇妙な集合と神秘的に捉える必要はなく、記号表現は、記号内容である物の集まりの一員ではないが、それゆえに記号表現がそれらと同じ述語を充足するという物の集まりの構造が見えてくる。

集合は物の集まりという物であるという集合の定義や「自分自身を要素として含まない集合の集合」というラッセルの集合の定義は単純である。したがってそこから発生するパラドックスのメカニズムも上に述べたように至極単純なものなのだ。

ラッセルの集合の構造が上に述べたような分かりやすい単純な構造であるのが分かれば、ラッセルのパラドックスを説明が不可能な神秘的な現象であると考える必要がなくなる。安心して集合を扱っていいのだ。



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by tnomura9 | 2016-12-18 23:49 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

数学基礎論講義

『数学基礎論講義 不完全性定理とその発展』田中一之、鹿島亨、角田法也、菊池誠(著)を読んでいる。学部初級から大学院初年度の学生が対象らしいので、素人が読める本ではない。

それでも命題論理、命題論理の完全性の証明、述語論理、述語論理の完全性定理、再帰的関数、不完全性定理、不完全性定理の発展という風に、層状に整然と議論が進められているので、数学基礎論を見通しよく学んでいくための良いガイドになりそうだ。

おそらくこの本を理解するために、色々な本を物色しないといけないだろうし、最終的に理解できるかどうかは疑問だが、ガイドを片手にいろいろな情報を物色するというのは、なかなか楽しそうだ。

また、専門書を読んで素人が考えた(誤解した)ことをブログにまとめてみるのも面白そうなので、しばらく、この本を中心にブログを書いてみることにする。素人というのは専門家が常識として素通りするような事柄につまづいて色々と変なことを考えたりするので、大半は誤解だが、結構面白い視点もあるかもしれない。

しかし、そのために少し工夫することにした。ひとつ目は難解な用語を使わないこと。2つ目はあまり長い議論はしないことだ。どうせ誤解なら、読んだ人がすぐにこれは誤解だと判断できたほうがいい。また、よく考えたことなら、簡潔に表現できるはずだからだ。

どういう記事になるかはわからないが、命題論理の完全性定理まではやってみたいと思う。これがきちんと理解できれば、述語論理の完全性定理や、うまくいけばゲーデルの不完全性定理がわかるようになれるかもしれないからだ。やってみないと分からないのだけれど。

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by tnomura9 | 2016-07-25 23:47 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

ラッセルのパラドックスの記事リスト

1. ラッセルのパラドックスと自己言及

集合の定義からものの集まり {a, b, c, ... } を集合 A と考えることで、それまで想定していた集合の要素以外に新しい「もの」である集合 A が発生してしまう。また、述語 P(x) を充足する要素 {a, b, c, ... } を集めて集合 A であると定義した時に同時にそれらの要素とは異なる集合 A という新しい要素が発生する。

この要素に述語 P(x) を適用(自己言及)した時に A が P(x) を充足する、すなわち、P(A) が真になる場合と、A が P(x) を充足しない場合、すなわち、P(A) が偽になる場合が発生する。

この際に、集合 A が P(x) を充足しない場合は A の外延的定義と P(x) による内包的定義は一致する。しかし、P(x) を充足するどのような要素を集めて集合 A を作っても A が P(x) を充足してしまう場合、集合 A を作ると同時に A には含まれない要素であるが述語 P(x) を充足する集合 A が発生してしまうため、内包的定義では集合を定義することができなくなる。「自分自身を要素として含まない集合」という述語はその典型例だ。

自分自身を要素として含まない集合、例えば「犬の集合」のようなものを適当に集めて集合 R = {a, b, c, ... } を作る。このとき R は R の要素としては含まれない。なぜなら R = {R, a, b, c, ... } としてしまうと、R は自分自身を要素として含む集合になってしまうからだ。したがって、R = {a, b, c, ... } の要素には R は含まれない。しかし、まさにその故に R は自分自身を要素として含まない集合になってしまう。

しかし {a, b, c, ..., } が自分自身を要素として含まない要素「全て」の集合でなければ、このような集合は普通に存在する。自分自身が要素として含まれないにもかかわらず、自分が自分自身を要素として含まない集合という述語を充足するという形は普通にありえる。しかし、どんなに多くの自分自身を要素として含まない集合を集めて集合を作っても、その集合自身は必ず自分自身を要素として含まないにもかかわらず、述語を充足してしまう。したがって、述語を充足する要素「全て」を集めた「集合」はつくることができない。

その場合、P(x) を充足する要素の全体というものを考えることは可能だがそれは「集合」ということはできず「クラス」になってしまう。「クラス」を無理に「集合」と考えるとラッセルのパラドックスが発生してしまう。

2. 素朴集合論の有向グラフモデル

素朴集合論については、集合をノードとし所属関係という有向エッジでノードをつないだ有向グラフとしてモデル化できる。これは集合を集めた集合 A に所属関係という二項関係 Ψ(x, y) を導入したものと捉えることができる。このモデルでは集合 a (∈ A) の外延は {x | Ψ(a, x) = 1} で表すことができる。

この有向グラフによるモデルの最大の特徴は、集合 A の要素数では、集合 A のすべての部分集合を代表させることはできないということだ。すなわち、集合 A の要素の外延として定義できる集合 A の部分集合は、集合 A のべき集合の要素のほんの一部分のみである。すなわち、集合 A は集合を作る操作について自己完結的ではない。

また、この二項関係についての不動点定理 --- f(Ψ(x,x)) = Ψ(a,x) なら f(Ψ(a,a)) = Ψ(a,a) --- により、集合 A には「自分自身を要素として含まない集合の集合」を表す要素を見つけることはできない。

このように、素朴集合論におけるラッセルのパラドックスは有向グラフの性質として捉えることができる。

3. ラッセルのパラドックスの記事リスト

自然数と実数の濃度差

素朴集合論からパラドックスを追い出す

クラス

集合の属性とは何か

図書館の書籍目録と排中律

内包的定義が自己言及しなければ問題は解決するか

図書館目録のパラドックス

素朴集合論の復権

集合の定義の再帰性について

素朴集合論と排中律

素朴集合論の正体

集合と排中律

集合論への疑問

素朴集合論はちっとも素朴ではない

対角線論法を斬る

ラッセルのパラドックスと再帰

ラッセルのパラドックスと排中律

『ラッセルのパラドックス』の要点

ラッセルのパラドックスの謎が解けた

ラッセルのパラドックス 圏論 不動点

自分自身を要素として含む集合

排中律

ラッセルのパラドックスの意味するもの

内包的定義の適用範囲

内包的定義の問題点 自己言及性について

ラッセルのパラドックス

パラドックスのトリック


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by tnomura9 | 2015-07-19 18:37 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)