カテゴリ:ラッセルのパラドックス( 8 )

ラッセルのパラドックスと素朴集合論の世界

素朴集合論の定義では「集合とは物のあつまりという物である」として集合を一種の物として扱う。そこで、物としての集合を集めて A としてみる。Aの要素である集合はなにかの物の集まりを代表しているが、それは、他でもない A の部分集合である。これが、素朴集合論の世界である。

有限集合の場合について言えば、N個の物の集合Aがあるとき、その部分集合の数は2^N個ある。したがってA の要素でAの部分集合を代表させようとすると個数が必ず不足するので、Aの部分集合の一部しかAの要素で代表させることはできない。

例えば {a, b, c} の部分集合は {}, {a}, {b}, {c}, {a, b}, {a, c}, {b, c}, {a, b, c} の8個だ。これらは次のような表に表すこともできる。各行は {a, b, c} の部分集合で、列の 1 と 0 はその列の要素が部分集合に含まれているかどうかを表す。

** a b c
0 0 0 0
1 1 0 0
2 0 1 0
3 0 0 1
4 1 1 0
5 1 0 1
6 0 1 1
7 1 1 1

これらの集合を {a, b, c} の要素に対応させると次のような正方行列になる。

** a b c
a 0 0 0
b 1 0 0
c 0 1 0

a, b, c に対応させる集合はなんでもいいので、

** a b c
a 0 1 1
b 1 0 0
c 1 0 1

のようなものも考えられる。いずれにせよ {a, b, c} で代表できる部分集合は8個あるうちの、上のような正方行列に収まる3個しかない。{a, b, c} の部分集合を a, b, c で代表させようとしても正方行列の窓から見える3個の部分集合しか扱えないのだ。

これは物の集合の要素数がどのように大きくなっても変わらない。「集合とは物の集まりという物である」という素朴集合論の集合の定義では、集合を表す「もの」の数をどのように大きくとっても、その冪集合の一部分としか対応させることができないのだ。

このような状況で、「自分自身を要素として含まない集合の集合」のような自己言及的な定義で集合を定義しようとすると、その集合はうえに述べた正方行列の対応表に載せることができない。対応表の集合をどのように選んでもその集合は対応表の外にしか見つけられないからだ。

たとえば、対応表が

** a b c
a 0 1 1
b 1 0 0
c 1 0 1

の場合「自分自身を要素として含まない集合の集合」は対角線部分を反転させた 1 1 0 すなわち {a, b} になるがこれはどの行の集合とも対角線で異なっている。このような集合はどのような場合も正規行列の対照表からははずれることになる。これが対角線論法の本質なのだ。

集合を物として表現したとき、必然的にその物をふくむ冪集合が発生するが、その量は常に集合の物全体よりは大きいのだ。この関係は集合を1個の「もの」と考える素朴集合論では必ず発生する現象だ。そうして、それは不可解なラッセルのパラドックスが発生する母体になっている。

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by tnomura9 | 2017-06-29 13:57 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

素朴集合論と図書館のパラドックス

素朴集合論でラッセルのパラドックスが起きるのを不思議に感じるのは、素朴集合論の視覚的なイメージがないからだ。しかし、素朴集合論はよく知られた図書館のパラドックスによってうまくイメージ化することができる。

図書館のパラドックスとはラッセルによって発見されたパラドックスだ。図書館の本には自分自身に言及したものとそうでないものがある。ところが、自分自身に言及しない本の目録を作るとその目録自体は目録の内容に含まれるとも含まれないとも言えないというものだ。

もし目録に自分自身が言及されているとその目録は自分自身に言及しているので、目録には記載できないはずだ。また、目録に自分自身が言及されていない場合、目録の性質から目録は自分自身に記載されなくてはならないことになりこれも矛盾する。

この図書館のパラドックスを少し変えると、素朴集合論の端的なイメージモデルになる。そのために少し工夫をする。この図書館の本は全て目録でできているとするのだ。この場合、図書館の1冊の本は1つの集合を表す。1冊の本は集合を表し、その本の中の目録はその集合の外延を表している。これは集合を要素とする有限集合についての、素朴集合論のイメージモデルとなる。

このイメージモデルからいろいろな素朴集合の性質を調べる事ができる。まず集合を一つの「もの」と考えて他の集合の要素とすることができるということだ。つまり、1冊の本は「もの」であり、他の集合の目録に記載できる。すなわち、集合は他の集合の要素となる事ができる。これは「集合とはものの集まりという『もの』である」という素朴集合論の集合の定義をイメージ化したものになる。

この図書館の本には、自分自身の内容に自分自身を登録できる。素朴集合論の集合の定義からは、「自分自身を要素として含む集合」を考えることができる。したがって、図書館の本の中には「自分自身を要素として含む集合」と「自分自身を要素として含まない集合」が存在することが分かる。

しかしながら「自分自身を要素として含まない集合の集合」という本は図書館のパラドックスからこの図書館の蔵書としては作ることができない。図書館の本には明らかに「自分自身を要素として含まない集合」である本のグループがあるのに、それを集めた目録ができないのは不思議に感じるが、しかし、それは図書館の蔵書のなかで完結させようとしたために起こる不都合で、図書館の外にそのような目録を作ることは可能だ。

実は、図書館の蔵書の数を N とすると、図書館の本の集まり(集合)の種類は 2^N となり、到底図書館の本の可能な集合全てを図書館の本として作成するのは不可能なのだ。図書館の蔵書には図書館の本を要素とする集合のごく一部しか目録として作成できない。

しかし、図書館の蔵書の可能な集合の目録を別の図書館につくればそのような制限はない。ただし、その目録は図書館の蔵書ではないためその目録を要素とする集合は作ることができなくなる。

このように、ものの集まりを「もの」として扱うという素朴集合論のアイディアは必然的に自己言及性を免れない。ラッセルのパラドックスはこの自己言及性が集合の定義に使われたためにおきる矛盾なのだ。

たしかに 2^N ある図書館の蔵書の集合を N 冊の本で表現はできないだろうが、組み合わせ次第では「自分自身を要素として含まない集合の集合」を作れるのではないか。なぜそれができないのだろうか。それは、自分自身を要素として含まない集合の集合は、図書館の蔵書の内容によって変化してしまうからだ。

2^N の集合のうち N 個を選んで図書館の蔵書としたとする。そのときには明らかに「自分を要素として含まない集合」の集合はあるが、しかし、その内容は N 個の蔵書の選び方によって変化してしまう。「自分自身を要素として含まない集合の集合」は固定的な集合ではなく、図書館の蔵書として選び出す N 個の蔵書の種類によって常に変化する。つまり集合の定義の自己言及性のため、どの集合を図書館の蔵書として選定しても、そのなかには「自分自身を要素として含まない集合の集合」は作れない仕組みになっている。これがラッセルのパラドックスの正体だ。問題は集合にではなく、集合の定義の仕方にあったのだ。

これらの集合の性質は、図書館の蔵書が有限だから起きるとしても、どのように図書館の蔵書を増やしても成立するので無限の集合の集まりを考えても、ラッセルのパラドックスを解消することはできない。再帰的定義によって無限を捉えるやり方は、その根拠は必ず有限の論議に基づくため、有限集合で論じられる性質は無限集合についても保存される。

素朴集合論は目録を集めた図書館としてイメージ化することができる。また、ラッセルのパラドックスのメカニズムをこのイメージ化によって理解することができる。

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by tnomura9 | 2017-06-28 07:21 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

自然数の冪集合と連続性

自然数を1から初めて順に右に並べてみると次のようになるだろう。

1,2,3,4,5, ...

この自然数の列の下に適当に 0 と 1 を並べると次のようになる。

1,2,3,4,5, ...,
0,0,1,0,1, ....

上の数列のうち下の列は自然数の冪集合の一つの要素と全単射の関係にある。すなわち、この数列で表される自然数の部分集合は、0がついている列の自然数を含まず、1 がついている列の自然数を含んでいると考えることができる。つまり、この方法で自然数の部分集合をタグづけできることになる。

たとえば集合 {2, 3} については、

0,1,1,0,0,0, ....

という無限数列で表すことができる。また、この数列のタグを左右をひっくり返して2進数 110 (=6) に自然に対応させることもできるのが分かる。

ところが、少し考えると、この無限数列を個として取り出すことは不可能である事がわかる。たとえば、

0.1,1,0,0,0, ...

と4列目からの数が全て 0 の数列は一つの無限数列として特定できて、それを 110 (=6) と対応づけることは自明のように思えるが、この数列と100万桁目が1になる数列と区別するのは数列の100万桁目を見ないと分からない。さらに言うと無限遠で数列の値が 1 にならないという保証はないのだ。つまり、{2, 3} という明らかな有限部分集合も、その他の集合との区別が不可能であることがわかる。無限遠まで 0 が続くというのはあくまでも観察者の仮定が混じっているからいえるのだ。

すなわち、1, 2, 3 のような自然数の要素は個体として認識できるが、自然数の部分集合についてはある仮定を導入しないとそれを個として認めることができない。つまり、自然数の冪集合とは連続体なのである。有限集合はそれを表すある桁数からは全て0であるという仮定においてのみ個として認める事ができるが、その場合においても無限遠で1が出現する集合との差を見つけることはできない。

このように自然数の要素は個として認めることができるが、自然数の冪集合の要素は個として認めることが本質的に不可能であるという定性的な性質が、自然数の集合とその冪集合との全単射ができない本当の理由なのだ。

自然数の部分集合のうち有限集合の全てについては、それに対応する自然数を割り当てる事ができる。それは、有限集合については、上で述べたような仮定によって個として認めることができるからだ。しかし、このような自然数と自然数の有限部分集合との対応関係の表は対称行列にはならない。この対応表の一部の対称な部分についてはどの部分をとってもカントールの定理のような対角線部分を反転させた数列は含まれない。この対応表を無限の対照表について拡大してもこの関係は変わらない。

カントールの定理は、このように有限部分集合と自然数の対応表についての議論から自然数と自然数の冪集合の全単射ができないことを証明するが、自然数の集合と自然集合の冪集合との本当の違いに光をあててはくれない。自然数の全単射が不可能なことは冪集合の性質のごく一部分に光を当てることで証明できるが、自然数の集合の要素には個体が存在し、自然数の冪集合の要素には個体と言えるものが無いという本質的な違いを照らし出してはくれない。

以上の説明で有理数の稠密性にもかかわらず、自然数とその冪集合の全単射ができないことをイメージすることができるのではないかと思う。自然数と実数の違いは、自然数の個体性と実数の連続性という定性的な違いだったのだ。

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by tnomura9 | 2017-06-21 00:30 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

自分自身を要素として含む集合と含まない集合

ラッセルのパラドックスを引き起こす集合は、「自分自身を要素として含まない集合の集合」だが、「自分自身を要素として含む集合」という集合もイメージしづらい。ところが、これをソシュールの記号論的に解釈すると意外にすっきりと理解できる。

ソシュールは記号をその記号自体である記号表現とその記号が指し示す記号内容が不可分に結びついたものと定義している。そうして、「集合とは物の集まりという物である」という素朴集合論の定義は、記号論的に解釈することができる。すなわち、ものとしての集合は集合の記号表現であり、その集合の外延である物の集まりは集合の記号内容であると定義できる。

こういう風に考えると、記号表現である集合自体がその外延の要素として含まれていることには問題が起きない。また、集合がその外延に含まれていない場合も可能だ。

記号表現である集合自身がその外延に含まれない集合は、再帰的定義にはならないので確定できると思われる。しかし、その場合記号表現としての集合の性質には「自分自身を要素としては含まない」という属性が発生する。そこで、「自分自身を要素として含まない集合」の集合を考えると、記号内容としての外延の要素には自分自身を要素として含まないが、それゆえに記号表現としての集合は「自分自身を要素として含まない集合」という属性を持つことになる。このようなコンフリクトが発生するのは、集合の定義では集合という記号表現とその外延という記号内容が不可分に結びつくためだ。

また、記号表現である集合自身がその外延に含まれるときは、再帰的な定義となるため、その要素である集合自身を確定することができない。つまり、その集合自身は何かという問いには無限再帰のため永遠に答えられない。

こう考えると、素朴集合論にラッセルのパラドックスが発生する原因は、まさに「集合とは物の集まりという物である」という集合の定義に存在していたことが分かる。また、なぜそういうことが起きてしまうのかは、その集合の定義を記号論的に解釈することによって明確にできる。



What is a set which contains itself as an element

The set that causes Russell's paradox is "a set of sets that does not contain itself as an element", but it is hard to imagine a set of "a set containing itself as an element". However, you can clearly understand it from the point of view of Saussure's semiotics.

Saussure defines a symbol as an indivisible combination of the symbolic expression which is the symbol itself and the symbolic content pointed to by the symbol. Then, the definition of the naive set theory that "a set is an object which is a collection of objects" can be interpreted semiotically. That is, a set itself is a symbolic representation of a set, and a collection of objects that are extensions of the set can be defined as the symbolic content of the set.

Considering this kind of situation, the problem does not arise that the set itself, which is a symbolic representation, is included as an element of its extension. It is also possible if the set is not included in the extension.

A set whose symbol expression is not included in its extension is considered to be definable because it does not become a recursive definition. However, in that case, the property of the set as a symbolic representation has an attribute "not including itself as an element". So, considering the set of "sets that do not include themselves as elements", the set itself (symbolic expression) is not included in its extension (symbolic contents), but the set it self (symbolic expression) is also a set that does not include itself. Such a conflict occurs because of the symbolic expression of a set and the signification it i.e. its extension are inseparably linked.

Conversely, when a set itself, which is a symbolic representation, is included in its extension, it is a recursive definition. So it can not determine its own set itself. In other words, the question of what the group itself is unable to answer forever for infinite recursion.

In this way, it turns out that the cause of Russell's paradox occurring in the naive set theory was exactly in the definition of the set "a set is an object which is a collection of objects". Also, why such a thing happens can be clarified by semiotic interpretation of the definition of that set.


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by tnomura9 | 2016-12-26 12:45 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

ラッセルのパラドックスなんて怖くない

集合について初めて学習し始めたとき、そのわかりやすさがうれしかった。

集合を「ものの集まりというもの」としてとらえることで、いろいろなことが分かりやすくなる。和集合や共通部分の意味もよくわかったし、「xは犬である」という術語を満たす x を集めるとそれは集合になるという内包的定義も納得できた。

しかし、参考書を読み進めていくといきなりラッセルのパラドックスが現れて奈落の底に落されたような気持になった。「自分自身を要素として含まない集合の集合」を考えるとパラドックスになってしまうというのだ。素朴集合論はそのため数学の基礎としては全く使えないことになるというのだ。

便利なものをいろいろ見せられたうえで最後にそれは全部不良品でしたと言われたようで、腹立ちを覚えたことを覚えている。

こう言ってもらえたらよかったのだ。「素朴集合論は有限集合を扱っているうちは矛盾はありません。しかし、無限集合を扱うときと、内包的定義を使って集合を定義するなどの集合の概念の拡張を行うときは注意が必要です。」

これらは有限集合の拡張だ。全く問題のなかった有限集合の集合論を無限集合に拡張したり、内包的定義を導入したときにいろいろと不都合なことが起こる可能性がでてくる。無限集合についてはこの記事では触れない。

また、ラッセルのパラドックスは内包公理の問題であって、無限集合との関係はない。それは、床屋のパラドックスや、図書館目録のパラドックスが有限集合について述べているのにも関わらずパラドックスになってしまうことでもわかる。

ラッセルのパラドックスが発生する原因は、集合がものとしての集合それ自体と集合がさし示す「ものの集まり」としての二つの性質が不可分に結びついているという記号論的な構造にある。

ソシュールの記号論では、記号には記号そのものである記号表現とその記号がさし示す記号の概念である記号内容が不可分に結びついているとする。たとえは交通標識のUターン禁止は標識の図柄としてのUターン禁止の画像とそれがさし示すUターンが禁止されているという記号の意味が不可分に結びついている。

「集合とは物の集まりという物である」という集合の定義も、この記号論的な観点から分析することができる。つまり、集合には物としての記号表現とその集合が指し示す物の集まりとしての記号内容が不可分に結びついているのだ。

犬の集合には犬の集合という物としての記号表現と、その集合がさし示す犬の集まりが不可分に結びついている。この場合犬の集合という物も物の一つだから犬の集合の要素として含まれるかどうかを考えないといけない。犬の集合の場合犬の集合自体は犬ではないので自分自身の要素としては含まれない。

ところで、犬の集合や、猫の集合のような自分自身を要素として含まない集合を集めて集合を作ってみよう。たとえば犬の集合と猫の集合の集合である。この犬の集合と猫の集合の集合は自分自身がその要素として含まれるだろうか。犬の集合と猫の集合を集めたものが犬の集合と猫の集合の集合なので、それ自身は自分の要素としては含まれない。

ここで、犬の集合と、猫の集合を考えてみよう。これらはどちらも「自分自身を要素として含まない集合だ」また、犬の集合と猫の集合の集合もやはり、「自分自身を要素としては含まない集合の集合」だ。すなわち、「自分自身を要素として含まない集合」を集めた集合は、それがどのような集合であっても自分自身を要素としては含まないにも関わらず、「自分自身を要素として含まない集合」になってしまう。

したがって、「自分自身を要素として含まない集合」をどのように集めて集合を作ったとしても、その集合の記号内容としての集合は、自分自身を要素として含まないにも関わらず、その集合の記号表現としての集合は「自分自身を要素として含まない」という術語を充足してしまう。言い換えると、「自分自身を要素として含まない集合」を全てあつめた集合をこの述語では定義できないということだ。

端的に言うと、述語として全てのものがそれを充足するかしないかを判定できたとしても、その述語による内包的定義で定義できない集合があるということだ。それは集合に集合そのものとしての記号表現と、その集合が表す記号内容としての物のあつまりが不可分に結びついているという記号論的な性質から説明できる。

説明がわかりにくくなってしまったが、要するに集合は集合という記号表現とその集合で表される物の集まりという記号内容から構成されていると考えることがポイントだ。

この観点でラッセルの集合を見ると、自分自身を要素としては含んでいないがそれゆえに「自分自身を要素として含まない集合」であるというその構造が見えてくる。したがって、ラッセルのパラドックスを得体の知れない奇妙な集合と神秘的に捉える必要はなく、記号表現は、記号内容である物の集まりの一員ではないが、それゆえに記号表現がそれらと同じ述語を充足するという物の集まりの構造が見えてくる。

集合は物の集まりという物であるという集合の定義や「自分自身を要素として含まない集合の集合」というラッセルの集合の定義は単純である。したがってそこから発生するパラドックスのメカニズムも上に述べたように至極単純なものなのだ。

ラッセルの集合の構造が上に述べたような分かりやすい単純な構造であるのが分かれば、ラッセルのパラドックスを説明が不可能な神秘的な現象であると考える必要がなくなる。安心して集合を扱っていいのだ。



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by tnomura9 | 2016-12-18 23:49 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

数学基礎論講義

『数学基礎論講義 不完全性定理とその発展』田中一之、鹿島亨、角田法也、菊池誠(著)を読んでいる。学部初級から大学院初年度の学生が対象らしいので、素人が読める本ではない。

それでも命題論理、命題論理の完全性の証明、述語論理、述語論理の完全性定理、再帰的関数、不完全性定理、不完全性定理の発展という風に、層状に整然と議論が進められているので、数学基礎論を見通しよく学んでいくための良いガイドになりそうだ。

おそらくこの本を理解するために、色々な本を物色しないといけないだろうし、最終的に理解できるかどうかは疑問だが、ガイドを片手にいろいろな情報を物色するというのは、なかなか楽しそうだ。

また、専門書を読んで素人が考えた(誤解した)ことをブログにまとめてみるのも面白そうなので、しばらく、この本を中心にブログを書いてみることにする。素人というのは専門家が常識として素通りするような事柄につまづいて色々と変なことを考えたりするので、大半は誤解だが、結構面白い視点もあるかもしれない。

しかし、そのために少し工夫することにした。ひとつ目は難解な用語を使わないこと。2つ目はあまり長い議論はしないことだ。どうせ誤解なら、読んだ人がすぐにこれは誤解だと判断できたほうがいい。また、よく考えたことなら、簡潔に表現できるはずだからだ。

どういう記事になるかはわからないが、命題論理の完全性定理まではやってみたいと思う。これがきちんと理解できれば、述語論理の完全性定理や、うまくいけばゲーデルの不完全性定理がわかるようになれるかもしれないからだ。やってみないと分からないのだけれど。

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by tnomura9 | 2016-07-25 23:47 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

記号論的集合論

素朴集合論におけるラッセルのパラドックスという分かりにくい概念が、集合を記号論的に取り扱うことによって分かりやすくなるような気がしたので書いてみる。

記号論とはソシュールによって始められた言語学の概念だ。その根本の考え方は、記号を記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)が不可分に結びついたものと考える考え方だ。

例えば「雪」という言葉は「雪」という記号とそれが指し示す空から降ってくる白い結晶から構成されている。雪という言葉(記号)は記号そのもの(記号表現)とその記号が指し示す雪というものあるいは概念(記号内容)とが不可分に結びついたものだと考えられる。

ところで、素朴集合論における集合の定義は、「集合とはものの集まりというものである。」というものである。そこで、これを記号論的に捉えてみると、集合 A については、記号表現としての A と、集合 A が指し示しているものの集まりである {a1, a2, ..., ak} という記号内容から構成されていると考えることができる。

このように集合を記号論的な記号として考えることによって、物としての集合(記号表現)とそれが指し示すものの集まりとしての集合(記号内容)を分けて考えることができる。

さて、ここで議論を簡単にするために、集合(記号表現)だけからなる集まり {a0, a1, a2, ... , an} について考えてみよう。そうして、各集合はそれらの集合のいずれかを集めたもの {ai, aj, ..., ak} を指し示している(記号内容)とする。

そこで、この集合(記号表現)がどの要素を含んでいるかを記述するために、a0, a1, ..., an を横と縦に並べた n x n の表を作る。そうして縦に並べた a0, a1, a2, についてそれぞれが横に並べた集合を要素として含む場合は1を、要素として含まない場合は0を表の縦と横の交点に記入していくことにする。そうすると ai 行に並んだ a0, ..., an 列の1と0の列は集合 ai がどの要素を含んでいるかを表している。つまり、集合 ai (記号表現)がどのような要素の集まりからなっているかは ai 行の1と0の列が表している(記号内容)。

** a0, a1, a2, ..., an
a0 0, 1, 0, ... , 1
a1 1, 1, 0, ... , 0
a3 0, 0, 1, ... , 1
....

an 0, 0, 1, ... , 1

このようにして、集合 ai(記号表現)と集合 ai で表される要素の集まり(記号内容)の対応関係が、ai 行の1と0の列として記述することができる。つまり、集合 ai が 集合 ak を要素として含むかどうかは ai 行の ak 列の数が 1 であるかどうかでわかる。

そこで、この表の対角線の部分を調べてみる。するとそこに記述されている1や0は集合が自分自身を要素として含むかどうかを表していると言える。例えば ai 行 ai 列の値が 1 であれば集合 ai は自分自身を要素として含むし、ak 行 ak 列の値が0であれば、集合 ak は自分自身を要素としては含まない。

したがって、この対角線の値が0の集合 ak, ..., am を集めると、自分自身を要素として含まない集合の集合ができることがわかる。これを借りに ar (記号表現)と呼ぶことにしよう。この ar(記号表現)の表す集合 {ak, ..., am} に対応する ar 行の1と0の列はどうなるだろうか。明らかにそれは、ちょうど対角線の値が0であれば1に1であれば0にしたものであることがわかる。

さて、この ar 行の数列に一致するものが a0, ..., an 行の中にあるだろうか。明らかにそれは不可能である。なぜなら ar 行の数列は対角線の値を反転したものだから、どの ai ともその対角線の部分で異なるからだ。

したがって、集合 a0, ..., an の中には自分自身を要素として含まない集合の集まりは存在するにもかかわらず、それを記号内容とする記号表現は a0, ..., an の中には存在しないことがわかる。このため、自分自身を要素としない集合の集まりはあるにもかかわらず、それを記号内容とする集合 ar は a0, ..., an の中に見つけることはできない。言い換えると、それらの集まりを記号内容とする集合 ar という記号表現は存在できない。このような集まりを指示しようと思うならそれは集合ではなくクラスと呼ぶべきものである。ラッセルのパラドックスではこのように存在しない集合を集合と考えたためにパラドックスになってしまうのだ。

このように集合を記号論的に記号表現(シニフィアン)と記号内容(シニフィエ)から構成される記号であると考えることによって、ラッセルのパラドックスに見られるようなクラスの発生理由を明確にすることができる。

上の議論から、ラッセルの集合「自分を要素として含まない集合の集合」はどのような場合にも集合となることはできず、その集まりはクラスになってしまうが、クラスにはラッセルのクラス以外にはないのだろうか。その答えは次のように考えればわかる。

つまり、記号表現としての集合 a0, a1, ... an を要素とする集まりは実際は 2^n 個ある。しかし、記号表現として考えることのできる集合は n 個しかない。それ以外の集まりは集合として表現することはできず全てクラスになってしまうのだ。集合とクラスの数の差は記号表現としての集合を増やすほど大きくなっていく。たとえ記号表現としての集合を無限に大きくしていってもどの時点でもはるかに多くのクラスが存在することになる。

このように集合を記号論的に、記号表現としての集合とその記号内容としての外延というふうに捉えることによって、ラッセルのパラドックスの成因やクラスの存在を理解しやすくなる。

追記

これは集合 a の集合(全体集合)を考え、集合 a という記号表現にたいし、その集合の部分集合である {a1, a2, ... , an} (記号内容)を対応させることで、「集合とは物のあつまりというものである」という定義のモデルを作った場合の推論を示している。言い換えると、集合と集合の要素を同列において考えるとどうなるかということだ。

この全体集合の要素数が n のとき、この全体集合のべき集合の要素数は 2^n になるので、全体集合の要素ですべての可能なべき集合の要素に対応付けることはできない。とくに「自分自身を要素として含まない集合の集合」は記号表現としての全体集合の要素を、どのように記号内容としての全体集合の部分集合と対応させた場合でも、全体集合のなかに「自分自身を要素して含まない集合」という部分集合があるにも関わらず、それに対応する全体集合の要素をみつけることがでいない。

これは全体集合の要素 n がどんなに多くなっても成り立つので、全体集合が可算の場合は、ラッセルの集合を表す集合をその中に見つけることはできないことを示している。

追記その2

上の議論では全体集合の要素である集合のなかにラッセルの集合を見つけることができないという議論だった。しかし、強制的にラッセルの集合を全体集合の中に作ってみることはできないだろうか。つまり a0, a1, ..., a(n-1) までは普通に集合を定義して、an を「自分自身を要素として含まない集合の集合」にできないだろうかということだ。しかし、この試みもうまくはいかない。an と a0, a1, ... , a(n-1) の交点の値は簡単に求めることができる。対角線の成分を反転させたものを使えばいいからだ。しかし、an と an の交点には1も0も置くことができない。an と an の交点が1なら an は自分自身を要素としてしまうから an と an の交点は0でないといけないし、逆の場合もパラドックスが起こってしまう。

ラッセルのパラドックスとは全体集合の中に「自分自身を要素として含まない集合の集合」をつくろうとしてもできないことを示していたのだ。

追記その3

全体集合が可算の場合は、ラッセルの集合は全体集合のなかに作れないことが分かった。しかし、全体集合が非加算だったらどうだろうか。しかし全体集合が非加算の場合、個々の要素をすべて列挙することができないため、上の議論のような演算表が作れない。全体集合が非加算の場合にラッセルのパラドックスが発生するかどうかは興味のあるところだ。

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by tnomura9 | 2016-05-05 04:48 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)

ラッセルのパラドックスの記事リスト

1. ラッセルのパラドックスと自己言及

集合の定義からものの集まり {a, b, c, ... } を集合 A と考えることで、それまで想定していた集合の要素以外に新しい「もの」である集合 A が発生してしまう。また、述語 P(x) を充足する要素 {a, b, c, ... } を集めて集合 A であると定義した時に同時にそれらの要素とは異なる集合 A という新しい要素が発生する。

この要素に述語 P(x) を適用(自己言及)した時に A が P(x) を充足する、すなわち、P(A) が真になる場合と、A が P(x) を充足しない場合、すなわち、P(A) が偽になる場合が発生する。

この際に、集合 A が P(x) を充足しない場合は A の外延的定義と P(x) による内包的定義は一致する。しかし、P(x) を充足するどのような要素を集めて集合 A を作っても A が P(x) を充足してしまう場合、集合 A を作ると同時に A には含まれない要素であるが述語 P(x) を充足する集合 A が発生してしまうため、内包的定義では集合を定義することができなくなる。「自分自身を要素として含まない集合」という述語はその典型例だ。

自分自身を要素として含まない集合、例えば「犬の集合」のようなものを適当に集めて集合 R = {a, b, c, ... } を作る。このとき R は R の要素としては含まれない。なぜなら R = {R, a, b, c, ... } としてしまうと、R は自分自身を要素として含む集合になってしまうからだ。したがって、R = {a, b, c, ... } の要素には R は含まれない。しかし、まさにその故に R は自分自身を要素として含まない集合になってしまう。

しかし {a, b, c, ..., } が自分自身を要素として含まない要素「全て」の集合でなければ、このような集合は普通に存在する。自分自身が要素として含まれないにもかかわらず、自分が自分自身を要素として含まない集合という述語を充足するという形は普通にありえる。しかし、どんなに多くの自分自身を要素として含まない集合を集めて集合を作っても、その集合自身は必ず自分自身を要素として含まないにもかかわらず、述語を充足してしまう。したがって、述語を充足する要素「全て」を集めた「集合」はつくることができない。

その場合、P(x) を充足する要素の全体というものを考えることは可能だがそれは「集合」ということはできず「クラス」になってしまう。「クラス」を無理に「集合」と考えるとラッセルのパラドックスが発生してしまう。

2. 素朴集合論の有向グラフモデル

素朴集合論については、集合をノードとし所属関係という有向エッジでノードをつないだ有向グラフとしてモデル化できる。これは集合を集めた集合 A に所属関係という二項関係 Ψ(x, y) を導入したものと捉えることができる。このモデルでは集合 a (∈ A) の外延は {x | Ψ(a, x) = 1} で表すことができる。

この有向グラフによるモデルの最大の特徴は、集合 A の要素数では、集合 A のすべての部分集合を代表させることはできないということだ。すなわち、集合 A の要素の外延として定義できる集合 A の部分集合は、集合 A のべき集合の要素のほんの一部分のみである。すなわち、集合 A は集合を作る操作について自己完結的ではない。

また、この二項関係についての不動点定理 --- f(Ψ(x,x)) = Ψ(a,x) なら f(Ψ(a,a)) = Ψ(a,a) --- により、集合 A には「自分自身を要素として含まない集合の集合」を表す要素を見つけることはできない。

このように、素朴集合論におけるラッセルのパラドックスは有向グラフの性質として捉えることができる。

3. ラッセルのパラドックスの記事リスト

自然数と実数の濃度差

素朴集合論からパラドックスを追い出す

クラス

集合の属性とは何か

図書館の書籍目録と排中律

内包的定義が自己言及しなければ問題は解決するか

図書館目録のパラドックス

素朴集合論の復権

集合の定義の再帰性について

素朴集合論と排中律

素朴集合論の正体

集合と排中律

集合論への疑問

素朴集合論はちっとも素朴ではない

対角線論法を斬る

ラッセルのパラドックスと再帰

ラッセルのパラドックスと排中律

『ラッセルのパラドックス』の要点

ラッセルのパラドックスの謎が解けた

ラッセルのパラドックス 圏論 不動点

自分自身を要素として含む集合

排中律

ラッセルのパラドックスの意味するもの

内包的定義の適用範囲

内包的定義の問題点 自己言及性について

ラッセルのパラドックス

パラドックスのトリック


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by tnomura9 | 2015-07-19 18:37 | ラッセルのパラドックス | Comments(0)