カテゴリ:考えるということ( 771 )

免疫学の知識

免疫学の知識は複雑な上に日進月歩なのでネットで調べても何が本当かわからない。信頼できそうな記事を見つけたのでメモ。


免疫学はたくさんの受容体やタンパク質が出てきて混乱するが、Tリンパ球の働きを中心に整理していくと少し分かりやすくなるのではないかという気がする。そのポイントとしては MHC-I と MHC-II の違いを理解するのがよいと考えた。

そこで MHC-I と MHC-II についてGoogle検索して、手当たり次第に文書や動画を閲覧したが、困った状況が発生した。確かに、インターネットのおかげで一般人も最先端の情報に触れやすくなってきた。しかし、一方ではネットの記事にはいろいろな解説があふれていて、ともすれば内容が全く異なっている。このため、どの記事が正しいのか分からなくなってしまったのだ。また、最先端の記事というのは後には否定されるような内容も含まれているはずだ。

学校の勉強と違って、実社会にはこれが正解といえるものはない。相反するような記述があったとしても動揺しない心構えが大切だ。このような混乱が嫌だからと言って、評価のほぼ確定した教科書だけを読むこともできるが、それだけでは面白くない。教科書は幹線道路だとしても、脇道の探索は結構楽しい。混沌とした知識というのは、今まさに成長しつつある知識、生き生きと変化している知識だからだ。

内容が混とんとしている知識を得る価値を測る物差しとしては、学んで楽しいかどうかを基準にするといいのかもしれない。

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by tnomura9 | 2017-03-12 22:20 | 考えるということ | Comments(0)

対比させない

Tリンパ球のヘルパー細胞には Th1 と Th2 の2種類があり、それぞれが分化するためのサイトカインや、分化した後のTh1 細胞や Th2 細胞が分泌するサイトカインの種類が異なる。そこでその違いが分かりやすいように表にしたものなどがあるが、これが記憶しずらい。分化するサイトカインや分泌するサイトカイン、などの概念が共通しているために干渉を起こしてどっちがどっちだったか混同してしまうからだ。

こういう時はTh1とTh2の対比をせずに Th1 に関する記憶が定着するまで意識的に Th2 の情報はインプットしないようにするといい。Th1 についてだけ徹底的に検索したり文書を読んだりして知識を得るのだ。Th1 の知識が確定していれば Th2 の知識は Th1 のアナロジーとして逆に理解しやすくなるだろう。

記憶をするときは印象をはっきりさせるために、類似の観念からの干渉を避けるべきだ。



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by tnomura9 | 2017-03-11 09:33 | 考えるということ | Comments(0)

疑問を維持する

記憶は本質的に忘却するものなので繰り返し記憶することが大切だ。しかし、何を繰り返し見返すのかというと本を読んで自分が感じた疑問点を繰り返すのが一番効果的だ。

本をざっと眺めながら思いついた疑問点をメモ帳に記録していく。そうしてそのメモ帳を何度も見返すのだ。見返すときにその問いに答えることできるのか検討する。また、その問いから新しい疑問点が出てくればそれをまた書き留める。そうするうちに段々とどうしても知りたいと思う疑問が固まってくるので、それから初めて本文をしっかり読むようにする。疑問が沸かないうちは、参考書はパラパラと雑誌をめくるときの要領で眺めるだけにしておく。

疑問がはっきりしているときは、読解力もついているものだ。繰り返しは、本の内容ではなく自分の疑問について行うべきだ。


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by tnomura9 | 2017-03-10 10:48 | 考えるということ | Comments(0)

ザッピング

ザッピングとはテレビを視聴するときにリモコンで頻繁にチャンネルを切り替える行動をいう。語源はリュックサック(zap)を背負って野山を気ままに散策することらしいが、一緒にテレビを見ている人には迷惑な話で、奥さんから我慢できないと避難されたり、心理学者からはストレスが溜まっているからだと断定されたりしている。しかし、これは動物行動学で言う探索行動の一種なのではないだろうか。

探索行動とは動物や幼児が周囲の状況を探索する行動のことである。実験室のネズミなどの場合も、迷路学習用の迷路に報酬をおかないで放しても、あちこちと移動して迷路の探索をする。また、このような探索行動を先に行ったネズミは迷路の先に報酬をおいた場合も学習の速度が速い。おそらく、探索行動によって脳の中に空間地図を作成しているのではないかと思われる。

探索行動の特徴は、行動にこれといった目的がないということだ。気ままに周囲を歩き回って、その状況を探索する。目的のない行動の特徴は、心理的なエネルギーが低く疲れをあまり感じないところだ。先程のザッピングにしても、パソコンやスマホによるウェブの散策にしても飽きずに長時間続けることができる。探索行動は思考活動と言うよりはもっと本能的なものだからかもしれない。

この疲れにくいというザッピングの特徴は参考書を読むときに利用できるだろう。要するに、特に読むという意識もなく本のページをあちこちと捲ってみるのだ。興味が湧けば読めばいいし、そうでなければさっと通り過ぎる。何かを学ぶという目的意識はおいておいて、とりあえず気ままに散策するのだ。そうしているうちにその本の空間的な情報が自然に頭の中に入ってくる。これは、あとで本格的にその本を読解するときに随分と助けになる。意識して読むわけではないので1回のザッピングで頭に残るものは少ないだろう。したがって、暇があれば何回も繰り返すことになる。

ザッピングは探索行動という本能的な行動であるので、精神エネルギーをあまり消費せず情報の探索ができる有効な方法のような気がする。

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by tnomura9 | 2017-03-07 05:36 | 考えるということ | Comments(0)

スキミングとスキャニング

スキミングとスキャニングは英文の速読法の用語だが、日本語の文章でもすぐにでも活用できる速読法だ。視野の拡張などという摩訶不思議な技術がいらず、普通の読書スキルの人でもすぐに使えるという意味でも秀逸な方法だ。

スキミングは文書の全文を読むのではなく、段落の冒頭の1行だけを読んで段落の残りの部分は読まないやり方だ。各段落の1行目だけを読んでいって文書全体の内容の概略を把握する。段落の先頭の行を普通に読んでいくだけなので特別な技術はいらない。普通の読み方をしている人でも文書の概要を素早くつかむことができる。

ただし、これには条件がある。それはその文書がパラグラフライティングという技術的な書き方をされていることという前提があるのだ。パラグラフライティングとは何かと一口に言うと、要素的な意味のまとまりをパラグラフで表現して、それを単位として文章を論理的に構成するというやり方だ。

パラグラフライティングでは、段落には原則的に一つの主題しか配置しない。そしてその一つの主題の要約を文頭の1文で表すのだ。パラグラフの最初にそのパラグラフの主題を要約する中心文を置き、そのパラグラフのあとの部分にはその中心文を補足する内容の文章を配置する。読み手は中心文を読むことでパラグラフの内容が推測でき、あとの部分を読むことで予測した内容の詳細を知ることができる。

さらに、パラグラフライティングでは段落の配置も極力論理的に展開することを推奨している。段落が論理的に配置されていれば、一層文章の概要を把握するのが容易になる。

このようなパラグラフライティングで記述された文書は、段落の冒頭の文だけを読み進めることで、その文書の概要や構造を把握することができる。文書がパラグラフライティングで書かれていないときは、スキミングの効率は悪くなるだろう。

次にスキャニングの方だが、これはいわゆる拾い読みだ。自分の関心のある事柄に関することのみを拾い読みするやり方だ。自分にとって役立つ1行の文があればその本を読む価値があるとよく言われるが、そういう観点からは、スキャニングはずばり本の美味しいところだけを攫う方法だ。

スキミングとスキャニングは特殊な訓練のいらない優れた速読法だが、それが効果を上げるためには文書の側で制御された論理的な記述がされている必要がある。

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by tnomura9 | 2017-02-28 18:11 | 考えるということ | Comments(0)

指でなぞる

昔の速読術では読んでいる行を指でなぞるように勧められていた。後では非効率的だということで推奨されなくなったが、最近参考書を読むのに指を使って読むようになったら疲れなくなった。

具体的にどうしているのかというと、キーワードの箇所を指で押さえて、それについて思いつくことをぼんやりと思い出すようにしてから本文を読み進めるようにしている。キーワードについて何個か関連の知識や、疑問を想起できるまで指を勧めないようにするのだ。

また、図譜があれば、構造図の関連を指でなぞっていったり、解剖の図譜の血管の走行を指でなぞったりしていく、また、立体的な図譜の場合は指でその立体をなぞっているようなイメージを作ってみる。

目で読むのが早いが、指でその速度をわざとゆっくりすることで、理解力の方はかえって増すような気がする。

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by tnomura9 | 2017-02-21 10:19 | 考えるということ | Comments(0)

オブジェクトモデルと無限集合

オブジェクトモデルでは集合や個体を表すオブジェクトを全て集めたもの(の候補) Uc (a candidate for the universe) は常に有限集合だ。しかし、Uc のオブジェクトとして無限集合を考えることはできる。

無限集合の要素は無限にあるので、無限集合を表すオブジェクト A の外延は無限に要素を含むことになり、Uc には含まれない要素もその外延は含むことになる。しかし、Uc はいつでも拡張可能なので、A の外延の要素のうち Uc に存在しないものが必要になったときは、その要素を含む新しい Uc に拡張することができる。

このようにオブジェクトモデルにおける無限集合では無限を可能無限の立場から捉える。無限集合のオブジェクトを Uc に含ませることはできるが、それは外延の要素が常に不確定な特殊なオブジェクト(集合)として扱われる。その外延の要素には常に Uc には含まれていないものがあるが、必要に応じてそのようなオブジェクトを含んだ Uc に拡張することは可能だ。

無限集合の要素は無限だが、それらの全てを考えることができるという立場には矛盾が潜んでいる。要素が無限に存在するということは、それらを全て並べてみせることは不可能であるにもかかわらず、それら全てを集めることができるとして、それらの集合を考えるからだ。数えきることはできないにも関わらず、数えきってしまうと考えるのは明らかな矛盾だ。

可能無限の場合には無限は単に拡張可能性を示しているに過ぎない。1から100までの整数の集合を考えることできるが、これにさらに101を加えて整数の集合を拡張することができる。また、10000でも100000でも大きな数が必要になったときにはいつでも整数の集合を拡張することができる。それらの操作を延々と続けることのできるものを整数全体の集合(の候補)と考えるのだ。この考え方では捉えることのできるのは常に整数全体の集合の部分集合である有限集合だ。しかし、それはいつでもどんな大きな数についても拡張可能である。

したがって、無限集合を表すオブジェクトの外延にはつねに Uc に含まれないものがあるが、それは必要に応じて Uc を拡張することによって Uc に含まれるようにできる。無限集合の外延とは、その外延に含まれる要素を決定するためのルールである。

このようにオブジェクトモデルでは、無限集合は外延の要素が Uc に含まれないものがある特殊なオブジェクトとして Uc の中で取り扱うことができる。

たとえば、Uc のオブジェクトとして自然数のオブジェクトという無限集合と、1から100までの自然数というオブジェクトが含まれていたとしよう。この中には101というオブジェクトは存在しないが、議論の中で必要になってきたときは 101 をオブジェクトとして含む Uc に拡張すれば良い。拡張した Uc の中に矛盾が存在しなければ、自然数の集合という無限集合を考える事ができる。

しかし、ラッセルの集合は Uc の要素として考えることはできない。Uc のオブジェクトのうち自分自身を要素として含まない集合のクラス Rc を考えることはできる。しかし Rc を外延とするオブジェクト Rc を Uc の中に見出すことはできない。かりにそのようなオブジェクトを考えるとラッセルのパラドックスが発生するからだ。

ところが Uc の外には Rc クラスを外延とするようなオブジェクト Rc' を考えることができる。そこで Rc' を要素として含むような Uc の拡張を考えてみる。すると Rc' の外延はたしかに Rc ではあるが、Uc の拡張における自分自身を要素として含まない集合のクラスは Rc' を含まないといけないのでこれを表す Rc'' は Uc の拡張には存在しない。

つまり Uc の拡張によってラッセルの集合 R を捉えようとしてもどのような拡張を行っても R を外延とするオブジェクトを Uc の要素として含むことはできない。このようなものは無限集合ではないといえる。

このように可能無限から無限集合をとらえると、Uc の中で無限集合というオブジェクトを含む事ができて、同時に無限の要素を含む集合というものを明確に定義できる。このような立場からは Uc は常に有限集合なので、その部分集合であるクラス全体に対して矛盾なく排中律を適用することができる。

この無限集合に対する取り扱い方は、普段コンピュータのプログラムをするときに普通にやっていることだ。コンピュータのメモリは有限なので、無限の数を取り込むことはできないが、どんな大きな数もそれが有限な数なら計算することができる。どんな数でもいいという点で有限のメモリの中に無限の自然数を閉じ込めることができるのだ。

全てのオブジェクトを含む Uc は存在しないが、どのような要素でも必要なときに Uc を拡張して取り入れることができれば 、Uc が有限集合であっても、無限集合という仮想的な集合を集合の仲間として取り扱う事ができる。

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by tnomura9 | 2017-02-01 00:36 | 考えるということ | Comments(0)

オブジェクトモデルと論理

前回、集合をオブジェクトと考えることで、自分自身を要素として含む集合のような怪しい集合も含めて素朴集合論の世界をオブジェクトモデルとしてモデル化することができることを述べた。

そこで、そのような素朴集合論のモデルであるオブジェクトモデルと論理との関係を考えてみた。

オブジェクトモデルのオブジェクト全体を集めたものを Uc としたが、Ucはあくまでも当面関心のあるオブジェクトを集めた有限集合である。しかし、この有限集合は必要に応じて新しいオブジェクトを取り込んで自由に拡張できる。その場合新しい Uc について考えることになるが、その場合も Uc の要素は有限個である。

オブジェクトモデルにおける集合とは、その外延というオブジェクトの属性が、Uc の部分集合を表しているオブジェクトである。Uc のオブジェクトの数が N であるとすると、Uc の冪集合の要素の数は 2 ^ N であるから、Uc のオブジェクトでは表せない Uc の部分集合が必ず存在する。そのような集合はオブジェクトモデルでは「集合」とは呼ばれず「クラス」になる。「クラス」を「集合」とよぶ事ができないのは、その「クラス」を外延に持つオブジェクトが Uc の要素であるオブジェクトのうちには見つけられないからだ。

あるオブジェクトの集まりに論理学が適用できるかどうかは、排中律がその集まりに適用できるかどうかによって決まる。Uc の任意の部分集合について、排中律が成立すれば Uc には論理が適用できる。そして、Uc の「クラス」については明らかに論理が適用できることが分かる。つまり、Uc の任意の「クラス」についてその補集合が存在することは明らかだからだ。

このように、Uc の「クラス」については論理法則が適用できるが、Uc の集合については論理が適用できない場合がある。それは Uc のオブジェクトでは「クラス」の全てに対応させることができないからだ。

この観点からラッセルのパラドックスについて考えてみよう。Uc のオブジェクトの中には明らかに自分自身を含むオブジェクトと自分自身を含まないオブジェクトがある。また、これらのオブジェクトは自分自身を含まない集合からなるクラスと自分自身を含む集合からなるクラスが存在する。この意味で集合は自分自身を要素として含むか含まないかのいずれかであるという排中律は成立する。

ところが自分自身を要素として含む集合のクラスを外延として持つオブジェクト R を Uc の中に求めようとすると、R が自分自身を含めば、R は自分自身を含まない集合となりラッセルのパラドックスが発生する。このため、R は Uc の中に見つけることはできない。

一方自分自身を要素として含む集合の集合 ¬R の場合は ¬R は自分自身を要素として含んでもよいし、含まなくても良い。¬R が自分自身を含まない場合は ¬R は自分自身を含まない集合のクラスの要素となってしまうが、それでも Uc のクラスにおける排中律は保たれる。

自分自身を要素として含む集合の集合が、自分自身を要素として含まない集合のクラスの要素であるというのは抵抗があるが、自分自身を要素として含まない集合のクラスは存在してもそのような集合は存在しないのだから論理は破綻しない。

要するに素朴集合論の集合を集めた Uc について、その部分集合であるクラスについては論理は適用できるが、Uc の要素であるオブジェクトとしての集合の数は、Uc のクラスの数に比べて少ないために、全てのクラスを集合として表すことができず、論理が集合については適用できない場合があるということだ。

この困難は、集合を「物の集まりという物」すなわちオブジェクトとして定義することによって発生する。そのため、集合に論理すなわち排中律を持ち込むためには、特別に選び出された集合からなる Uc を想定する必要がある。

素朴集合論のオブジェクトモデルでは、オブジェクト全体を表す Uc は有限集合だが、Uc のオブジェクトの中に無限集合を含むように拡張することは可能だ。Uc は有限集合だが無限集合を含むように拡張できるというのは素朴集合論の世界をコンピュータ上に構築できることを意味している。オブジェクトはコンピュータプログラムの実態として容易にプログラムできる上、コンピュータは有限のメモリ上で作動しているにもかかわらず無限集合のいくらでも拡張できる近似として動作させることができるからだ。

素朴集合論の世界をオブジェクトモデルとして、コンピュータ上に実現することができれば、ラッセルのパラドックスや集合ではないクラスの存在も包含した集合論的なプログラム言語を記述できるだろう。

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by tnomura9 | 2017-01-30 23:03 | 考えるということ | Comments(0)

ピンポイントで攻める

分厚い参考書を読むときは、ピンポイントで攻めると有効な場合がある。目次を見て外観を掴んだり、スキミングでざっと本文を通して眺めてみたりするのもいいが、それらの方法ではどうしても「何となくこういうものだ」というぼんやりとした印象しか残らない。

そんな時は一つのテーマでピンポイントに調べるのがいい。ネット検索などを活用して、その項目だけを徹底的に調べるのだ。このブログでもフォスファチジルイノシトールIP3 受容体について記事にしたことがあるが、特定のテーマを徹底的に調べるのは物語性があって頭に残りやすい。また、IP3 受容体は細胞質の Ca イオン濃度をコントロールするので、様々な生物現象に関連がある。この部分をしっかり押さえていればそれらの現象についての理解もたやすくなる。

ピンポイントで学習したエピソード記憶は記憶に残りやすいし、物語性のある知識は理解しやすい。ただ、問題は時間がかかりすぎることだが、時間をかけないと良質の情報を得ることはできない。

結局のところ、スキミングで俯瞰的に眺めるにしろ、ピンポイントに情報を探索するにしろ、腹をくくって時間をかけることが最も効率のよい勉強法だ。

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by tnomura9 | 2017-01-23 11:02 | 考えるということ | Comments(0)

がり勉の勧め

がり勉の漫画的なイメージは、牛乳瓶の底のような眼鏡をかけて、服装も野暮ったくて、いつも辞書や教科書を持ち歩き、あまり人との交流もなく一人でぶつぶつつぶやいているという甚だ『いけてない』姿になる。

学生の頃は、スポーツも遊びもしっかりやって試験の点数も良いかっこいい学生を尊敬して、あまり勉強もしなかった。しかし、最近、手遅れだが、がり勉の意義について考えるようになった。

頭の良い学生は学ぶ速度が速く、試験の点数は良いが、ともすれば知識を深く探索するというようなまどろっこしいことはしないように見える。英語の文章なども速読してさっと内容を把握してしまう。何をやらせても要領を得て仕事が早いのだ。

学校の試験対策ならそれでいいだろう。しかし、そうやって得た知識は単に雑談の時にそれは知っているよと言えるような、表面的な知識でしかない。どんなに簡単な技術用語でもそこに内在する深い知識のネットワークはそう簡単に探索しつくせるものではない。知識が役に立つためには、その背景の数十倍の量の知識が要求されるからだ。

たとえば英語の文章を読むような時でも、黙読でざっと内容を掴むだけでは応用力がつかない。音読し、知らない単語はしらみつぶしに調べ、その単語の用例も10数個くらいは読んでみて、最後は元の文章を暗記するくらいの意気込みがいる。泥臭いがり勉でなければそのような労苦には耐えられないだろう。

本気で知識に対峙しようとするなら、がり勉になるしかない。


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by tnomura9 | 2017-01-21 13:20 | 考えるということ | Comments(0)