カテゴリ:考えるということ( 780 )

無限集合とは何か

自然数の集合は無限集合だ。つまり、自然数の集合の要素数は無限だ。しかし、その要素はどれも有限の値をとる。自然数の集合の要素に無限大はない。

それでは、自然数の集合の冪集合についてはどうだろうか。次のようにすれば自然数のべき集合を網羅的に作ることができる。自然数の数列 1, 2, 3, ... を2進数の1桁目、2桁目、3桁目に対応させる。そうして自然数の部分集合が 1 を要素として含んでいれば2進数の1桁目を 1 とし、含んでいなければ 0 とする。同様に 2 が含まれていれば2桁目の値が1に、2が含まれていなければ2桁目が0というように、2進数の無限桁にいたるまで各桁に0または1を割り当てると、その2進数は任意の自然数のべき集合と全単射の関係になる。ただしべき集合が無限集合の場合2進数も無限になってしまう。

自然数のべき集合についても、自然数の場合と同じように無限の要素を含むがその要素自体は有限集合だと考えることができれば、上のべき集合の列挙の仕方は成り立つ。任意の有限のべき集合はそれに対応する2進数を持ち、任意の2進数が異なっていればそれに対応するべき集合の要素も異なるからだ。

ところが、自然数のべき集合の要素の中には無限集合も存在すると考えられる。たとえば、1を含まず他の全ての自然数を含む集合は無限集合だ。この場合はこの集合に対応する2進数を求めようとするとそれは無限大になってしまう。

しかし、この1を含まず他の全ての自然数を含む集合について考えてみると奇妙な現象に気がつく。1を含まず他の全ての自然数を含む集合を同定してみよう。つまり、1を含まず無限にいたるどこかの自然数を含んでいない集合との区別ができるかどうかである。つまり、ある集合が1と100万を含んでいなければ、これは1を含まず他の自然数を全て含む集合との区別ができる。しかし、自然数を100万まで数え上げないとその差を知ることができない。それでは1と無限大を含まない集合はどうだろうか。無限大とは数ではなく、自然数が次々に拡大していく運動のようなものだから1と無限大を含まない集合と1以外の全ての自然数を含む集合との区別ができない。

つまり1を含まずそれ以外の全ての自然数を含む集合とは、個体として識別することが不可能な集合なのだ。{1}は明らかに他と区別することのできる集合だ。しかし、1を含まずその他の全ての自然数を含む集合とは実は個体として取り出すことが不可能なのである。

1を含まずその他の全ての自然数を含む集合とは、自然数の集合に集合演算である補集合を適用したために発生する集合だ。しかし、自然数の集合に補集合の演算を適用するのは不適切な場合、1を含まずその他の自然数を全て含む集合を考えることはできない。このような集合を自然数のべき集合の要素として認めたうえで自然数の集合との全単射を考えるというのははたして適切な議論だろうかという疑問が沸いてくる。何か大切な要点を無視しているのではないかという印象だ。

数学者ではないので見当はずれな議論かもしれないが、何となく無限集合についての納得がいかない感じが残る。



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by tnomura9 | 2017-06-17 15:29 | 考えるということ | Comments(0)

自然数とそのべき集合 対角線論法の秘密

自然数の集合と、自然数の集合のべき集合との全単射ができないのは、カントールの定理で証明されている。しかし、この記事では、カントールの証明がどのような意味を持つのかを考えてみたい。

自然数のべき集合の要素は自然数の集合だ。たとえば A = {2, 4, 7} は自然数のべき集合の要素だ。これらが規則的に列挙できれば自然数のべき集合は自然数と全単射を作ることができるといえる。

これはべき集合の要素を2進数に置き換えることで簡単に列挙することができるように見える。自然数の集合が自然数の1を含んでいれば2進数の1桁目が1含んでいなければ0、同じように自然数の集合が自然数の2を含んでいれば2進数の2桁目が1、含んでいなければ0とする。こうするとべき集合を表す2進数と自然数の間に自然な全単射ができる。

しかし、そううまくはいかない。これは自然数の集合のうちで要素数が有限な集合にしか当てはまらないのだ。要素数が無限な集合の場合は、2進数も無限大になってしまう。

これは無限大という実体が存在するという実無限の考え方からは不都合になるが、自然数はどれだけでも大きくとることができるという可能無限の立場からは不都合ではない。この方法では無限要素の集合を捕まえることはできないが、自然数をどんどん大きくとっていくことによって、どれだけでも無限要素の集合に近いものは作り出すことができるからである。

しかしそう都合よくはいかないことをカントールの定理が証明している。自然数と自然数のべき集合との間に全単射が存在すると仮定すると、a が f(a) の要素として含まれないような自然数 a 全てを集めた集合を B とすると B = f(b) となるような自然数 b が存在する。ところが b が B の要素であれば b は B に含まれないはずなので矛盾するし、b が B の要素ではないと仮定してもやはり矛盾する。したがって、自然数と自然数のべき集合の間には全単射は存在しないことが証明される。


確かに、対角線論法を用いた鮮やかな証明だが、しかし、なぜここで対角線論法を持ち出さなければならなかったのかがよくわからない。また、対角線論法では自然数とべき集合の間にどんな問題があるのかも判然としない。

ここで対角線論法の意義を明らかにするために、有限の自然数とそのべき集合をどのように表現するかを考えてみよう。これは、次のような表を作るのが一番だ。例えば自然数 {1,2,3} の部分集合を次のような表に表してみよう。

* 1 2 3
a 0 0 0
b 1 0 0
c 0 1 0
d 1 1 0
e 0 0 1
f 1 0 1
g 0 1 1
h 1 1 1

表の列の数字はその列の自然数が部分集合に含まれているかどうかを示している。1ならばその列の自然数が含まれており、0ならば含まれていない。

各行の数列は部分集合を表している。部分集合 a は {1,2,3} のどの要素も含んでいないので a = {} である。同様に d の行は 1 と 2 を含むので、部分集合 d = {1,2} である。これらの集合 a, b, ... h を自然数に対応させた表を作ると次のようになる。

* * 1 2 3
1 a 0 0 0
2 b 1 0 0
3 c 0 1 0
4 d 1 1 0
5 e 0 0 1
6 f 1 0 1
7 g 0 1 1
8 h 1 1 1

この場合 a = f(1), b = f(2), c = f(3), ..., h = f(8) である。

ところで x が f(x) に含まれないような x の集合Bはどのような集合になるだろうか。上の演算表で 4 .. 8 は集合 {1,2,3} の要素ではないので、x が f(x) に含まれるかどうかの議論はできない。明らかに含まれないからだ。したがって x が f(x) に含まれるかどうかというのは上の3行までの a, b, c つまり 1, 2, 3 の正方行列でしか判断できない。

そこで、上の表の3行までをみると1も2も3もそれぞれに対応するa, b, c に含まれないから B = {1,2,3} すなわち上の表の行で表すと 1 1 1 なので B = h である。これに対応する自然数は 8 であるから、{1,2,3} のうちには存在しない。すなわち B = f(y) となるような自然数は {1,2,3} のうちには存在しないのだ。なぜなら B(=h) の行の数は、a, b, c の対角線部分のどれとも異なっているからだ。これを無理に {1,2,3} の中に求めてしまうとカントールの定理のようなパラドックスが発生してしまう。

自然数とそのべき集合の議論を上の表の 3 × 3 の正方行列の部分に限定する限り、自然数の集合とその部分集合との対応関係には、自然数に対応できない部分集合が発生するのが分かる。

この関係は自然数 {1,2,3} の要素を増やして自然数全体の集合を拡充していくことができる。しかし、表の上部の正方行列の部分の性質についての議論は変わらないので無限に自然数を増やしても必ず正方行列の縦の自然数に対応できない部分集合が発生する。

ただし、これは表の冒頭の正方行列に限って議論しているからだ。カントールの対角線論法では暗黙にこの正方行列を仮定しているようだ。

したがって、カントールの定理にも関わらず、長方形の対応表を作っていけば、どれだけでも自然数のべき集合に全単射を作っていくことができる。ただし、自然数を無限大にまで拡張したときにそのような全単射が作れるかどうかは不定である。どちらも無限大になってしまうからだ。

実無限の観点からは、自然数の全体を仮定するので、演算表の横の自然数と縦の自然数の数は一致しなければならないので必然的に正方行列の議論になる。したがって、自然数とそのべき集合の全単射は不可能である。しかし、可能無限の立場からは、全ての自然数が縦と横で一致する必要はないので、長方形の演算表を縦方向にどんどん長くしていくことで、限りなく全単射の範囲を広げてていくことができるのである。

カントールの定理では自然数と自然数のべき集合の全単射を考えると矛盾すると証明するだけで、自然数と自然数のべき集合の濃度がどれくらい違うのかを示してはくれない。可能無限の立場をとっても、縦方向と横方向も無限に大きくしても完全な全単射になるとは論証できないが、可能無限の立場からは実用的にはどれだけでも全単射の範囲を広げることができる。コンピュータで真の実数を扱うことはできないが、どれだけでも精度を上げることができるのと同じだ。もともと、可能無限の考え方からは無限集合の全ての要素という考え方はない。

追記

上の説明ではカントールの定理でなぜパラドックスが発生するかは説明できていないので追加する。自然数の集合 A = (1,2,3} について自然数と A の部分集合の対応関係の関数 g の演算表を次のように定義してみる。3行目が空白なのは理由がある。x には対応する集合に含まれない自然数の集合を作りたいからだ。

この演算表からは c = g(1), d = g(2) であることが分かる。問題は x = g(3) としたときに x が対応する集合に属さない自然数を集めた集合になるように演算表を定めることができるかどうかだ。

* * 1 2 3
1 c 0 1 0
2 d 1 1 0
3 x * * *

この表で対角線の成分に注意するとそれは各行の自然数が対応する集合の要素として含まれているかを示している。この場合 c の対角線部分は 0 だから 1 は c に含まれていない。また、d の対角線部分は 1 だから 2 は対応する d の要素として含まれている。そこで対応する集合に含まれない自然数は 1 で対応する集合に含まれる自然数は 2 である。したがって、x の行の数列は次のようになる

3 x 1 0 *

xの 1 列目と 2 列目は上の2つの業の対角線部部分を反転したものになる。ところで、x の3列目の値は * になっているが、これを完成させれば 3 は自分自身が対応する集合に含まれない自然数の集合に対応することになる。ところが、3 が 1 であるとすると x は 3 を含むことになり定義からこれは 0 でなければならないし、x の3列目が 0 であるとするとそれは 1 でなければならないことになる。つまり、カントールの定理のパラドックスになっている。

このようにカントールの定理が証明したのは、自然数と自然数の部分集合の対応関係が正方行列になるという仮定の上での議論であったことが分かる。つまり、べき集合を作成するための自然数の集合と、べき集合に対応させるための自然数の集合の数が同じであるはずだという暗黙の過程がある。しかし、可能無限の立場からは両者の拡大速度が異なっていても問題ないのである。

無限集合にすべての要素を考えることができないといったのはこの理由からだ。無限集合とは要素を次々に生成していく集合のことであり、要素が生成される速度については制限がない。全単射は、単にある範囲までの要素同士の間で1対1対応が見られるという意味でしかない。そのため自然数とその部分集合である偶数との全単射が可能になるのだ。

カントールの定理には実無限の立場から、この無限集合の拡大の速度が同じになる正方行列を仮定してしまったための推論ではないのだろうか。無限集合にすべての要素を仮定する実無限の考え方は便利な道具ではあるが、可能無限からの無限に全てはないという見方からの検討も必要なのではないだろうか。

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by tnomura9 | 2017-06-12 18:55 | 考えるということ | Comments(0)

無限集合の全単射

無限集合では集合とその部分集合の全単射を作ることができる。例えば自然数の集合は、その部分集合の偶数の集合と関数 y=2x で全単射となる。どのような偶数2n に対しても自然数 n が対応するから全射で、自然数 n と m が異なるときは偶数 2n と 2m は異なるので単射になるからだ。

しかし、この自分自身の部分集合との全単射が可能であるという無限集合の性質は、満室の無限ホテルに新規の客を受け入れる話と同じで少々胡散臭い感じがする。

例えば、1から10までの整数を考えたときそこに含まれる偶数 2 .. 10 と上の関数で対応するのは 1 .. 5 だけで、6 .. 10 には対応する偶数はない。

n 以下の自然数について言えばそこに含まれる偶数との全単射を作ることができないので、任意の自然数 n 以下の自然数の集合についてはその部分集合である偶数の集合との全単射はない。これは n がどのように大きくなっても成立するから自然数全体の集合について、その部分集合との全単射は作ることができないといえないだろうか。

しかし残念ながらそれは、最大数を持つ自然数の集合については常に成立するが、最大数を持たない自然数全体の集合についても成り立つとは言えない。無限が入り込んだ段階で、おかしなことが起き始めるのだ。

偶数を自然数の部分集合と考えると、自然数と偶数の全単射に疑問を感じる。だが、偶数を自然数の部分集合と考えず、これは自然数とは別の集合だと考えれば、自然数と偶数の全単射は自然にイメージすることができる。自然数 1, 2 ... と偶数 2, 4, ... を並べて列挙すれば自然に 1 -> 2, 2 -> 4, ... という対応関係を理解できるからだ。

つまり、自然数と同じように列挙できる集合については、自然に自然数との全単射を考えることができる。偶数は自然数の部分集合ではあるが、それは無限に列挙できるという性質から自然数との全単射が可能である。この無限に列挙できるという性質は、自然数の再帰的な定義の再帰部分から発生する。自然数と偶数はその再帰的定義に整合が見られるのだ。

前回の記事で、無限集合には全てという概念を当てはめるのには少々問題があると言ったが、それは無限集合の定義が生成的な定義であるということから来ている。無限集合の全単射は有限集合の全単射とは異なり、無限集合どうしの生成規則の整合性を利用しているからだ。

無限集合の不可解な性質が、その生成的な定義からくると考えれば、自分の部分集合と自分自身との全単射が存在するなどという納得できない性質も理解できるが、それであれば、無限集合とその冪集合の全単射がどうしてできないのかという次の疑問が湧いてくる。しかし、それは次の記事で議論することにする。


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by tnomura9 | 2017-06-11 21:16 | 考えるということ | Comments(0)

無限集合ではすべての要素を考えることはできない

無限集合に関してヒルベルトの無限ホテルのパラドックスというものがある。

無限に部屋を持つホテルが満室の時、新たな客を受け入れられるというパラドックスだ。新たな客を1号室にいれ、1号室の客を2号室に、2号室の客を3号室にという操作を無限に行えば新たな客を受け入れることができる。満室(これ以上は客を受け入れられない)にも関わらず、上の手順で新規の客を受け入れることができる。これが満室なら新たな客は受け入れられないという直感に反するためパラドックスと呼ばれている。

これについては、しかし、無限に部屋を持つホテルは決して満室にならないという解釈もできる。

満室にはならないのなら、新たな客を受け入れてもパラドックスにはならない。ところが、そうなると、無限集合の全ての要素についてという議論ができなくなってしまう。つまり無限集合では、有限集合と異なりその集合の全てのメンバーに関する議論ができなくなってしまう。自然数の要素全てについてこうこうこういう性質があるという議論をしたいのに、自然数の全てなんてないよと言ってしまうと甚だ具合が悪い。それで、無限に部屋を持つホテルには無限集合独特の性質があるのだ、それが単にパラドックスに見えているだけだという議論になるのだろう。

ペアノの公理では、

1)0は自然数である。
2)a が自然数ならその後者(a+1のこと)も自然数である。

という再帰的定義で自然数を定義しているが、これは全ての自然数を定義してはいない。荒っぽい議論になるが、仮にすべての自然数を要素とする集合があったとする。自然数には大小関係があるから、その中で最大の自然数が存在するはずだ。すべての自然数を集めたのだから。しかしその最大数を m とするとベアノの定義で m+1 も自然数でなければならないはずで、これは矛盾となる。したがって上の定義による自然数全てからなる集合は存在しない。

推論が間違っているのかもしれないが、無限集合にはそれに含まれるすべての要素の集合を考えることはできないと考えるほうが自然なような気がする。

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by tnomura9 | 2017-06-05 13:41 | 考えるということ | Comments(0)

素朴集合論の限界

いま、集合 a1, a2, a3 のみからなる集合の集合 A = {a1, a2, a3} を考える。すると A のすべての部分集合は、P(A) = {{}, {a1}, {a2}, {a3}, {a1, a2}, {a1, a3}, {a2, a3}} となる。ここで A -> P(A) の関数 Ψ を考える。すると Ψ(a1), Ψ(a2), Ψ(a3) はそれぞれ集合 a1, a2, a3 の外延になる。例えば Ψ(a1) = {a1, a2}, Ψ(a2) = {a2, a3}, Ψ(a3) = {a1} のように Ψ を定める事ができる。

しかし、A の要素だけでは、Aの冪集合の全てに対応させることができない。そこで A を拡張して A' = {a1,a2,...,a5, a6} を考えるとこれは A = {a1,a2,a3} の全ての部分集合を A' の要素で表すことができる。だが、この場合にも A' の要素だけでは A' の全ての部分集合に対応させることができない。

それでは A の要素を無限集合にまで拡張したらどうだろうか。A の要素は無限にあるのだから、A のどんな集合も表すことができるようになるのではないだろうか。しかし残念ながらそうはならない。Aは加算な無限集合であるが、Aの冪集合 P(A) の濃度は非可算である。したがって、AとP(A)の全単射をつくることは不可能だ。

ゆえに、素朴集合論では全ての集合を記述することは不可能なのだ。

なぜ A が加算無限になってしまうかというと、上のやりかたでは A の要素数を増やすときにシステム的に段階的に網羅していけるからだ。しかし、同時に、このときシステム的に A の冪集合の要素数は A の要素数より必ず大きくなる。従って A の要素数を無限に多くしていっても。どの段階でも A と P(A) の全単射をつくることはできない。

無限集合とは無限にある要素の全体というよりは、要素を無限に作り出す時のルールが一定であるということだ。整数と偶数がどちらも加算無限集合なのは、整数を 0, 1, 2, ... と並べていくルールがあるのと、偶数を 0, 2, 4, ,., と並べていくルールが呼応しているからだ。

無限集合を有限集合の意味の集合と考えることはできない。無限集合を規定するものはその要素を規定するルールであって、その集合の要素全体ではないからだ。

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by tnomura9 | 2017-05-22 07:31 | 考えるということ | Comments(0)

長江文明

宮崎と鹿児島の南九州の古代の文化は、北九州の文化と非常に異なっている。例えば、地下式横穴墓などはほとんどが南九州でしか見られないものだ。また、花弁状竪穴住居もそうである。これほど際立った文化の違いは重要だ。

北九州の文化は、魏志倭人伝にも見られるように漢人の文化の影響を強く受けていると考えられる。しかし、宮崎や鹿児島の文化は漢人のものとは違う。どうもこれは揚子江流域で発展した長江文明の文化ではないかと思われる。

長江文明とは長江流域で起こった中国の複数の古代文明の総称である。その始まりは紀元前14000年とも言われている。稲作と漁労を主な生業としていたため稲作漁撈文化とも言われる。紀元前2500年ころの地球の気候の寒冷化とともに南下してきた黄河流域の漢人との抗争に敗れ、雲南省の苗族や、カンボジア、日本などへの民族移動が起きたと言われている。

長江文明の特徴は、母系社会であること、稲作や高度な航海技術を持っていたこと。文字を持たなかったこと。太陽と鳥を崇める宗教を持っていたこと。鏡と剣による祭祀があったこと。高度の玉の加工技術があったこと。呪術が盛んだったこと。顔に入れ墨を入れていたことなど、魏志倭人伝の邪馬台国の描写に共通するものがある。

大陸から長江文明の集団が東シナ海を渡って直接鹿児島や宮崎に渡来してきたことは大いに有り得ることだ。やっぱり邪馬台国は宮崎平野にあったのだ。


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by tnomura9 | 2017-05-12 22:51 | 考えるということ | Comments(0)

読み返しやすいノートのとりかた

参考書を読みながらノートをとるというと、本の目次のように階層性に用語を整理していく方法が一般的だが、ノートを読み返すときにはこれが意外に読みにくい。それは項目の階層が変るたびに連想が分岐するからだ。連想は本来数珠つなぎになっているものの想起が自然だからだ。連想の連鎖の中に分岐が入ると連想の流れが途切れ先へ進めなくなる。例えば次のような文章について考えてみる。

CD4ヘルパー細胞には(1)IFN-γ、IL-2を産生し細胞免疫に関与するTh1細胞(2)IL-4、IL-5、IL-13を産生しアレルギー疾患の発症に関与するTh2細胞(3)IL-17Aなどの炎症性サイトカインを産生し、自己免疫疾患の病態に関与するTh17細胞、(4)IL-9とIL-10を主に産生しアレルギー疾患の病態に寄与するTH9細胞(5)ケモカイン受容体CXCR5を発現することにより二次リンパ組織の濾胞胚中心にちちし、ICOSなど副刺激分子の発現とIL-21の産生を介して抗体産生を誘導する濾胞ヘルパーT細胞(Tfh細胞)の5種類が存在する。

これを一般的なノート法で記述すると、

A. CD4ヘルパー細胞
(1)Th1細胞
  (a) IFN−γ
  (b) IL-2
(2)Th2細胞
  ....

のような書き方になるが、ノートの木構造の分岐部で連想が途切れ切れやすく読み返しても内容を思い出せない。これを数珠つなぎの連想の順番に書き直すと次のようになる。

CD4陽性ヘルパー細胞 - Th1細胞 - Th2細胞 - Th17細胞 - Th9細胞 - Tfh細胞
Th1細胞 - IF-γ産生 - IL-2産生 - 細胞性免疫に関与
Th2細胞 - IL-4を産生 - IL-5産生 - IL-13産生 - アレルギー疾患の発症
Th17細胞 - IL-17産生 - 自己免疫疾患に関与
Th9細胞 - IL-9産生 - IL-10産生 - アレルギー疾患の病態に寄与
Tfh細胞 - CXCR5を発現 - 濾胞胚中心に位置 - ICOS発現 - IL21産生 - 抗体産生を誘導

このノートには最初のノートのような整然とした階層構造はないが、分岐がないので、冒頭の語句から数珠つなぎに連想を辿っていくことができる。そのため、読み返すときに各行の冒頭の語句からその内容を容易に思い出すことができる。想起のための連想にやさしいノートの録り方になっている。

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by tnomura9 | 2017-04-11 08:20 | 考えるということ | Comments(0)

要するにどういうことか

企業の重役などで細かい専門的な知識はないはずなのに妙にうがった質問をする人がある。これは、物事の概要をつかむ能力に長けているからだろう。

参考書を読むときも、要するに何が言いたいのかという概要を掴んでおくと、細かい技術的なことも頭に入りやすくなる。また、本の概要をつかむのには細部の専門的な知識は必要ない。以前の記事で技術用語を押さえておくことが技術関連の参考書を読むのに必須だと述べたが、概要を把握するには逆に技術用語ではない一般的な単語に注目する必要がある。次の文章はアレルギーについて解説した参考書の最初の部分を抜粋したものだ。

アレルギー疾患とは、特定の抗原(アレルゲン)に対する免疫応答が過剰に誘導され、かえって宿主に対して不利益を与える病態を指すが、実際のアレルギー疾患患者の多彩な症状の発現には、抗原特異的な免疫応答(獲得免疫)だけでなく、抗原に非特異的な要因(感染や組織の障害など)によって誘導される免疫応答(自然免疫応答)が重要な役割を演じることが近年明らかにされている。本稿では、まず獲得免疫系と自然免疫系の活性化による慢性好酸球性炎症(2型炎症)の誘導機序を概説し、環境因子(特に感染性の因子)がアレルギー疾患の発症に与える影響とその機序、ウィルス側の要因か宿主側の要因かの概略を述べ、最後に今後の研究の方向性を記す。

まず第1行の、「アレルギー性疾患とは、.... 近年明らかにされている。」という文だが、まず「アレルギー疾患とは」という文頭の部分に注目する。〜とはというのはグーグル検索のときによく利用する表現で、用語の定義を調べたいときに利用する。この場合も「とは」という単語からこの文章が、アレルギーの定義について述べているのだと予測できる。

用語を定義する文章の場合は「〜と定義される」とか「〜である」などの動詞で文が終わることが多い。しかし、この文の場合の文末は「近年明らかにされている。」となっており整合性がない。実は、この文はアレルギー疾患の定義と、その定義に最近の研究で新しい視点が加わったことという2つの文の複文であるからだ。アレルギーの定義を述べた前半の文の文末は「病態を指すが、」であり、〜を指すという文末で終了しているのでその間に定義が述べられていることが分かる。

「〜とは」と「〜を指すが、」の間がアレルギー性疾患の定義であり、「免疫反応が過剰」とか「不利益」とかいう部分から「アレルギー性疾患は免疫反応が過剰になり人に不利益な状態になったものを指す」というアレルギー疾患の定義が理解できる。

このように文章の概要をつかむためには、技術用語よりも一般的な表現に注目するのがよい。特に、文頭と文末の表現を押さえることが有効だ。

後半の「実際のアレルギー患者の .... 近年明らかにされている。」という部分も読んでみよう。文頭の「実際のアレルギー患者の多彩な症状の発現には、」という部分から実際のアレルギー疾患について述べていることがわかる。また、「実際の」という言葉から、前半の原則的な定義とは違う何かが現場にはあるよというニュアンスがわかる。

そこで文末を読むと「重要な役割を演ずることが近年明らかにされている。」となっているので、以前とはことなる新しい知識に焦点が当てられているのが予測できる。それは、文の中ほどにある「抗原特異的な免疫応答(獲得免疫)だけでなく、」という表現からも獲得免疫では「ないほう」が新しくて重要なのだということが分かる。それは何かというと「抗原に非特異的な要因(感染や組織の障害など)によって誘導される免疫応答(自然免疫応答)が重要な役割を演じること」である。

以上を要約すると「アレルギー疾患は免疫の過剰反応だ。これについては以前は獲得免疫によるものと考えられていたが、近年自然免疫の役割に注目が集まっている。」となる。

文章の概要を求める動機は、「要するに何が言いたいのか」というのを知りたいという気持ちである。また、それは文章の技術的でない一般的な表現を押さえることで理解できる。特に、文頭と文末の表現に注目すると自然に要約をしていくことができる。

分厚い参考書を最初から読んでいくと挫折してしまう。まずザッピング、スキミング、スキャニングなどで大体の構成を調べ、上のような読み方で「要するに何か」ということを知り、そこから「一体自分は何を知りたいのか」ということの一連のリンクされた質問リストを作り、それから読み始めなければならないからだ。最も大切なのは「良い質問を作る」ということであって、参考書の内容を暗記することではない。

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by tnomura9 | 2017-04-07 05:42 | 考えるということ | Comments(0)

リンク化問題リスト

参考書のザッピングをしながら、情報カードに問題を書き込んでみた。ところが、しばらくして情報カードを見返すと、問題の内容が全くまとまりがなく、なにを疑問に思っていたのかすら分からなくなっていた。

どうやら問題のリストを作成するときも、問題と次の問題とのあいだに何らかの連想のリンクを考えておかないとあまり役にたたないようだ。

たとえば免疫に関する問題リストをつぎのように作ってみる。

1.免疫系を大別したとき一方は何と呼ばれているか。
2.自然免疫とは何か。
3.自然免疫でないほうの免疫系を何というか。
4.獲得免疫とはなにか。
5.獲得免疫にはどんな種類があるか一つ述べよ。
6.液性免疫とは何か。
7.液性免疫でないほうの免疫系は何か。
8.細胞性免疫とはなにか。

このようにすると問題リストが関連しあっているため、自然な連想で問題のリストを順に思い浮かべることができる。問題点のメモを取るときも、このような LLQ (List of Linked Questions) でまとめていくことで復習が楽になる。

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by tnomura9 | 2017-04-03 18:13 | 考えるということ | Comments(0)

ザッピング三昧

最近記事の更新をしていなかったが、参考書のザッピング三昧をしていたからだ。ザッピングというのはテレビのリモコンでチャンネルを次々に変えていく傍迷惑な行動をいうが、これを読書に応用して参考書を読むというわけでもなくぱらぱらと眺めていくのだ。雑誌の記事を気ままに眺めていく感じだ。

現在やっているのは、10冊近くの参考書を机の上に置いてそのなかの適当に手に取った一冊をザッピングする方法だ。1冊の参考書をザッピングするのに10分もかからない。しかし、何も読んでいないようで脳はしっかり働いているらしく、疲労のため数冊のザッピングを連続して続けることはできない。したがって、まとまった時間をザッピングに充てるのではなく、細切れな空き時間が生じたときに行うほうが効果的なようだ。

10分くらいで1冊を終わるのだから、たいして頭に残らない。しかし、この方法の利点は今まで1度も目を通したことのない本も、少し読んで挫折した本もとにかく最後まで目を通すようになったことだ。0はいつまでたっても0だが、0.01は100回繰り返すと1になるかもしれない。

ザッピングのもう一つの利点は、参考書全体の鳥瞰図できな構成を把握できることだ。細部については知らないが、ほんのあの部分にはおおよそどのような話題があったのかを思いつくことができるようになった。

ザッピングをするときに気をつけていることが2つある。それはテクニカルターム(技術用語)を拾い上げることと、目についた内容についていかに疑問点を思いつくことができるかを考えることだ。

テクニカルタームは厳格に定義された言葉なので、文書によって意味が変わることがあまりない。したがって、その意味を知っておけばほかの参考書を読むのに応用が利く。テクニカルタームに出会うと意味が分かればいいやと以前はなおざりにしていたが、最近は読み方まで意識するようになった。

疑問点を重視するのはそれがなければ参考書をよむ動機と理解度が随分減るからだ。自分の頭で考えるという準備ができていない状態で文書を読んでも内容を理解することはできないだろう。

ザッピングにどれくらいの効果があるのかはまだわからないが、面白いのでしばらく続けてみることにする。

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by tnomura9 | 2017-03-31 12:46 | 考えるということ | Comments(0)