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カテゴリ:心の話( 17 )

ルバイヤート

『ルバイヤート』 オマル・ハイヤーム作 小川亮作訳 岩波文庫を読んだ。

もともと無理やりつれ出された世界なんだ、
生きて悩みのほか得るところ何があったか?
今は、何のために来たり住みそして去るのやら
わかりもしないで、しぶしぶ世を去るのだ!

とか、

朝風に薔薇の蕾はほころび、
鶯も花の色香に酔い心地。
お前もしばしその下陰で憩えよ。
そら、花は土から咲いて土に散る。

とか、

酒姫よ、寄る年波の憂いの波にさらわれてしまった、
おれの酔いは程度を越してしまった。
だがつもる齢の盃になお君の酒をよろこぶのは、
頭に霜をいだいてもこころに春の風が吹くから。

なんかに共感するようになったらもうおしまいだ。
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by tnomura9 | 2009-04-25 06:40 | 心の話 | Comments(4)

因果

アダルトチルドレンに関する本を読んでいたら、父親がアルコール中毒症の娘は、自分の伴侶としてアルコール中毒症の夫を持つ可能性が高いそうだ。

自分の行きたい道を選んで幸せになるのが、人間の理想かもしれないが、無意識に自分を不幸にする方向を選択してしまうという事もあることは否定できない。そうなると、一体、人間の自由とはなんだろうと思ってしまう。フロムの著作に、「自由からの逃走」という本があるそうだ。残念ながらまだ読んでいないが、自由そのものが負担になることも在るのかもしれない。

しかし、自分が自由に判断することが、自分の不幸を招くかもしれないといっても、宗教や、哲学や心理学に自分の自由を全てゆだねてしまうというのも危険なことではないかと思う。人は、自分自身の無意識からも、外部の権威に盲目的に従うことからも自由でなければならない。

自分の進む道を決めかねるとき、何かに頼りたくなるのは当然だが、立ち止まって熟慮する必要を忘れてはならないのだ。
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by tnomura9 | 2006-01-05 07:06 | 心の話 | Comments(0)

類型

将棋の世界ではコンピュータの利用が進んだおかげで、手筋の体系化が進んでいるそうだ。

相矢倉戦法では二十数手までは完全に解明されているらしい。そうすると、勝負の行方はそのデータを記憶しているか否かで決まってしまう。アマチュアが必死で考えて指している手はそれらの手筋の一つの例に過ぎないということである。なんだか、つまらない話だが、現実なのだ。

自分はたった一人のユニークな人生を送っており、その人生を日々探求しているつもりになっているが、実際は数ある類型の中のひとつに過ぎず、その類型を知っていればその後の人生の結末もある程度予測がつくような代物なのかも知れないのだ。

人生に成功するためのハウツー本を読むと、目からうろこが取れたような気になって気分が高揚するときがあるが、その気持ちも、たくさんの本について読んでいるうちに、類似したパターンが見えてきて、幻滅に変わることがある。人間の歴史は何万年も続いているのだから、変化といってもそう変わり映えがしないのかもしれない。何年も前にわかっていたことを、ただ、自分が知らなかっただけなのかもしれないのだ。

まあ、自分の人生というものもありふれたもののひとつなのかも知れないが、少なくとも自分自身はそれを知らない。小説だって結末は書かれてしまっていても、その過程を読むことが楽しいわけで、自分の生き方だってああだこうだと考えることで楽しめるものなのかもしれない。

しかし、自分の考え出したものが、新しくも珍しくもないと考えなければならないというのは、ちょっとがっかりする。
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by tnomura9 | 2006-01-02 09:18 | 心の話 | Comments(0)

怒り

いじめや、閉じこもり、ニートなど社会生活の障害の本質には「怒り」の感情が重要な働きをしているのではないだろうか。怒りが表に現れれば暴力になるだろうし、怒りが隠されて心の奥に溜め込まれたら閉じこもりになるのではないだろうか。

人間が、怒りの感情を持つのは、生理学的に意味のあることだったのだろうと思うが、社会が複雑になっていくにつれてその感情をもてあますようになったのだろう。この、怒りを鎮めるための良い方法はまだないようだ。精神安定剤も、不安感は緩和するが、怒りの根を断ち切る力はない。

悪いことに怒りの感情は連鎖反応的に感染していく。気をつけておかないと、隣人の怒りに自分が感染し、さらにその隣人の怒りを増幅するという悪循環に簡単に陥ってしまう。人口が少なく、社会生活で人と接する機会が少なければ、怒りを感じる機会も少ないかもしれない。しかし、現代のように過密な接触の機会がある場合は、怒りにさらされる機会も増加する。

怒りの生理学的な基礎と、その解消法の解明が待たれる。
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by tnomura9 | 2005-12-31 10:00 | 心の話 | Comments(0)

利益至上主義

建築物の構造設計偽造問題でメディアが騒がしいが、現在の産業の活動目的が利益至上主義である限り必然的に発生したのではないかという気がする。今日は建築だが明日は他の産業で発見されるかもしれない。

郵政民営化が決定されたあとは、矛先が年金と医療に向けられるだろうが、この分野に民営化による利益至上主義を持ち込むのははたして賢明なことだろうかと思う。現に、大病院の中には、運営の主体が事務方に移行し、医師に対して売上目標を設定しているところもあると聞く。患者の診療はまず患者の利益を目的に考えられるべきであって、収益を目的とした医療が行われる状況は考えてもぞっとする。しかし、医療に競争原理が持ち込まれた場合、医療技術の競争ではなく、利益重視の競争になってしまわないかという気がしてならない。

利益至上主義の競争は、産業革命後もたらされたものだが、ほんとうにそれでよいのか考える必要があるのではないか。

実は利益至上主義の考え方は非常に単純だ。できるだけ収入を増大させ、支出を絞ることだけなのだ。そこでは製品の質を保つことや、顧客が何を求めているか、また、顧客も気がついていないニーズはないかなどのマーケティングの考え方は一切無視される。ましてや、品質向上のための費用増大などとんでもない話なのだ。

このような単細胞が企業の運営を始めると同時に、その企業は破滅への道をまっしぐらに進み始めるだろう。よく、品質にこだわりすぎて商機を失う例があげられるが、それは、品質に対する考え方が顧客のニーズを無視した独り善がりのものだったせいだ。実際には、品質にこだわるより品質を無視したために破綻する例のほうが数倍多いのである。

医療のように品質を上げることが絶対的な領域に、安易に利益の誘導による競争原理を持ち込むのは危険な気がする。利益とは切り離して、品質向上の競争をさせる方法を考えるべきなのである。
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by tnomura9 | 2005-12-28 07:44 | 心の話 | Comments(0)

思考の貧困さと、現実の豊饒さ

大体、計画というものは思ったとおりには実現しないものだ。

戦後、日本に鉄鋼業を復興しようとしたときに、識者たちは、「日本は敗戦で金が無い、技術も設備も無い、土地も狭くて工場を建てられない。市場が遠すぎて製品を輸送できない。したがって、現状の日本では軽工業以外は成立しない。」と判断したが、実際は違っていた。

自分を過小評価して何事にも挑戦できなくなっている人や、過信して手痛い失敗を味わう人たちは皆、その人たちの頭の中で考えている現実と、実際の現実の間にギャップが存在するためにそうなってしまったのだ。

自分たちはありのままの世界に住んでいるように見えるが、実際には外界から目や、耳や、皮膚などを通じて感覚したイメージを脳で再構成したものの中に住んでいるのだ。この再構成された世界のイメージは現実のものの映像ではあるが、全く同じものではない。なぜなら、目に光が入った段階で既に情報の選択が始まっているからだ。さらに、その情報は脳の中で、何段階にもわたって処理される。現実をありのままに見ているようでも、バイアスがかなりかかっているのだ。

さらに、人間は言葉で考えるので、言葉の持つ制限にも影響されている。例えば、何かを失敗したとして、「もうだめだ」という言葉が頭に浮かんできたとする。それは、本来はその出来事に対する判断なのだが、「もうだめだ」という言葉が独り歩きして、すべての人生がだめだというふうに意味の拡大が起こってくる。それというのも、「もうだめだ」という言葉の意味が広く、いろいろな状況で使われるため、連想が広がってしまうからだ。

それから、白黒をはっきりつけたがる脳の性質の影響もある。「あいつはいやなやつだ」と判断してしまうと、相手の良いところがばっさりと見えなくなってしまう。これは、マッハ効果といって、境界線が特に強調される神経のメカニズムに関係があるようだ。画像処理で輪郭線を取り出すフィルターがあるが、あれに似た仕組みが脳の中にもあるのである。

要するに現実世界のイメージが構成されるときに、かなりの情報落ちや、情報の修飾が行われているのである。したがって、このことを頭に入れておかないと、イメージと現実のズレから、手痛い思いを味わわなくてはならなくなる。思考の貧困さと現実の豊饒さには常に注意を払っておく必要があるのだ。

それでは、現実と脳のイメージとをどうすれば、近づけることができるだろうか。それは、熟慮することである。自分の思考をあらゆる角度から検討することだ。できるだけ、現実からの一次情報を拾い上げるようにして、自分の持っているイメージを変化させていく必要がある。他の人から全く違った角度の意見を聞くのもいいだろう。有能な経営者は現場を歩いたり、現場の人と話をするのが好きな人が多いように思う。

思考の貧困さと、現実の豊饒さを肝に銘じておきたいと思う。
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by tnomura9 | 2005-12-22 08:13 | 心の話 | Comments(0)

分かっちゃいるけど、止められない

糖尿病や高脂血症の一番の治療法は食べ過ぎないことだ。コレステロールなんか、二週間も間食をしなければ、あっというまに下がってしまう。

ところが、これがひどく難しいのだ。管理人なんて、うまいものを食わずに一生を終わるなんて、とても考えられない。どうせ、長くても120年の人生なのだから、我慢ばかりしていてもつまらない。うまいものを食う喜びも感じられなければ、面白くない人間になってしまうのではないだろうか。「分かっちゃいるけど、止められない」は人間の性なのだ。

しかし、これが、アルコール依存や、薬物依存や、性や、暴力の依存症になってくると話が変わってくる。これらは、自分自身を害するばかりでなく周囲の人まで不幸にしてしまう。これほどまでひどくなくても、わかっているのに止められない、あるいは、できないということは、誰だってたくさん抱え込んでいる。そうなると、「分かっちゃいるけど止められない」では済まされなくなってくるのだ。

君主に逆らってはいけないと説いていた韓非子が、同僚を弁護したために王の怒りを買って両足を切断されたり、イソップが、自分を迎えてくれたポリスの市民をバカにするのを止めなかったために崖から突き落とされて殺されたり、聡明な人でも、「わかっちゃいるけど、止められない」をやっているのをみると複雑な気分になる。

人間なんて、徹底して合理的であろうとしても、結局、不合理な生き物なのかもしれない。
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by tnomura9 | 2005-12-21 06:11 | 心の話 | Comments(0)

頑強な思考力

理知的な人というと何か冷たい、何でもあっさり理屈で割り切ってしまうような人というイメージがある。しかし、冷たい機械的な思考力は以外に現実にそぐわず破綻してしまうものだ。

頑強な思考力とは、少々の想定外の出来事にも慌てずに、沈着に対処できる思考力である。それは、常に現実を志向している。未来を予測する場合も、その後の変化に対して柔軟に変化していくことができる。また、それはブレない思考態度でもある。目に見える現在の状況の向こうにある本質を見抜き、じっと耐え抜いて方針を軽々しく変更しない思考である。それは、熟慮から生まれ出る思考である。それは、精度の高い情報を基盤に組み立てられる思考である。それは、人間性にあふれた、暖かさを持った思考である。それは、自分のことだけでなく多くの人の利益を目指す思考である。

このような思考態度をもっていれば、その人は、感情的にも理性的にも自由闊達な境地を持つことができるだろう。思考力を磨くことは、人間を磨くことにも通じるのである。
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by tnomura9 | 2005-12-20 18:08 | 心の話 | Comments(0)

生き方のスタイル

人間、死んでしまった後のことは分からない。

死んでしまったら、持ち物は全部残していかなければならない。

確実なものなど何も無い。

大切なのは、生き方のスタイルだ。

それだけが、本当に自分のものだといえる唯一のものかもしれない。
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by tnomura9 | 2005-12-18 23:09 | 心の話 | Comments(0)

すぐそこにある死

誰だって死ぬのは怖い。しかし、人は今の瞬間も死に続けているのだ。

時間のせいで、今の自分はすぐに過去になって消滅してしまう。未来の自分はまだ存在しない。存在とは、過去と未来の非存在にはさまれた一瞬の輝きに過ぎない。

すべてのものは過ぎ去っていく。人のすべての持ち物は失われる。自分の存在というかけがえのないものですらそうなのだ。

それでは、何が本当に存在するものなのか。

それは、生への意思だ。自分の生をどう有らしめたいかという願いだ。訳のわからない力に翻弄されながら、それでも、自分らしく自由に生きたいという願う気持ちが存在のすべてを支えるのだ。
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by tnomura9 | 2005-12-17 07:09 | 心の話 | Comments(0)