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パターン認識と言語

三手詰ができるようになった時、なぜできるようになったか最初は言語化できなかった。なんとなく答えが見つかるのだが、それはなぜそうなるのかを言語化できなかった。

ところが、一手詰の問題をやっているときに、詰めの形にいろいろな種類があることに気がついた。平凡な詰め、両王手、王手をかけた駒を取ろうとすると別の王手になってしまう場合、王手をかけた駒が同時に味方の駒に利いているために王が動けなくなる王手、角と銀のコンビネーション、角と桂馬のコンビネーション等々。

何となくパターン認識でやっていたところを言語化してみると急にその王手の性質がはっきりして詰ませやすくなるのを感じた。前は、何となく詰めのパターンをマッチングさせていたのが、詰めの形の狙いのようなものが分かって意味が分かるような気がしてきた。答えを出すことができるけれども言語化できず、ぼんやりとしていたものがはっきりと意図や意味のあるものとして感じることができるようになった。

詰めのパターンを言語化できたからと言って、答えを探す段階では相変わらずパターン認識でやっている。いちいち言語化していたら面倒くさくて楽しくない。ただ、答えが出た段階で言語化すると、この詰みはあのパターンだったと確認できて意味が分かったという納得感がある。

このように問題解決の際には、右脳と左脳が協力して活動している可能性がある。右脳はパターン認識を担当しているが言語をもたないので言語化できない。左脳でパターンを言語化することによってパターンの分類などの抽象化をおこない、パターンに意味を与えることができる。しかし、問題の解決には再び右脳のパターン認識が主役になるという具合に右と左の連携作業が行われているのではないだろうか。

要約すると、右脳は実際のパターン認識を担当し、左脳がそれを言語による抽象作業で意味づけを行うというところではないだろうか。右脳が働いているときは言語化しにくいという特徴があるので、右脳と左脳のどちらが主に働いているのかを意識してみるのも面白いかもしれない。
by tnomura9 | 2009-07-04 11:20 | 考えるということ | Comments(4)
Commented by のぶし at 2009-07-04 17:24 x
>要約すると、右脳は実際のパターン認識を担当し、左脳がそれを言語による抽象作業で意味づけを行うというところではないだろうか。

興味深いですね。確かに、そう言われて自分の思考を振り返ると納得します。

>右脳と左脳のどちらが主に働いているのかを意識してみるのも面白いかもしれない。

面白そうですね!洋樂と邦楽を傍らで流して、それぞれどう影響するかという実験もできそうですね。独自の作業でやってみて報告しますね。

Commented by tnomura9 at 2009-07-05 09:21
のぶしさん、コメントありがとうございました。
右脳と左脳については素人でおまけに内観に頼っているだけなので、根拠はないのですが、数学などで本を読むだけでは分からないのに、実際に数式を書いてみると分かったりすることは経験しますし、逆に英単語を何度書き写してもさっぱり記憶に残らなかったことも覚えています。対象によって脳の働きの場所が違うのを感じることができたら、効率的な学習ができるのではないでしょうか。のぶしさんの実験、楽しみです。御報告を待っています。
Commented by のぶし at 2009-07-05 14:49 x
雑な実験結果のご報告です。

・単純に文字を書く読む場合は洋楽の方がやりやすい
・単純にイメージする場合は邦楽の方がやりやすい
・目をつぶるなど余分な情報を排除すればどちらも少しやりやすくなる
・思考作業においては音楽があるだけで作業が進まない

複雑な作業の場合はかなり頻繁に切替っていると思います。
そのメタ的な切替は右脳と脳幹で連携しているような印象です。
Commented by tnomura9 at 2009-07-07 12:43
のぶしさん、コメントありがとうございました。
情報処理の作業を干渉させることで目的の作業がどちらの脳で行われているのかを見ようというアイディアが面白いですね。右左の切り替えは結構頻繁に起きているようですね。
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