最近、将棋の三手詰めの問題集を解いているが、面白いことに気づいた。
問題の図をただ眺めているだけでは、何の意味もない図形にしか見えないのに、頭の中で、一個でも駒を動かしてみると、とたんにその図が意味を持ち始めるのだ。 王駒が逃げ出すとすればこのルートだとか、逃がさないようにするにはこの駒をここに置かなければならないとか、相手の金が守りに効いていて邪魔で仕方がないから動かしてやろうとか考え始めたとたんに、今まで無愛想な図に見えていたものがとたんに物語として映るようになってくる。 数学の参考書もそうで、取りつく島のない記号の羅列に見えていたものが、ここをこういじるとどうなるだろうとか、何でこの記号はここにあるのだろうか、他に移したらどういう風に意味が変わってくるのだろうとか考えているうちに、突然、その数式の意味のようなものが分かって、細部と全体の関連性とか、部分同士の関連の仕組みの意味とかが分かる時がある。 知恵の輪もそうで、これはだめだ、あれはどうだろうといじっているうちに、突然答えがひらめいたりする。 子供は何でも口に入れたり触ったりするし、視覚失認の人はボールを見せられてもそれがなんであるか理解できないのに、ボールを壁にぶつけさせてそれが跳ね返ってくるのをみせると、びっくりしたように「ボールだ」と言ったりするそうだ。 理解しがたいものに遭遇した時は、頭の中や実際にそれを動かしてみると理解できるような脳の仕組みがあるのかもしれない。
by tnomura9
| 2009-06-28 09:39
| 考えるということ
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Comments(3)
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