漫画 『八チワンダイバー』 柴田ヨクサル作 を読んでから、将棋に興味が出てきて、将棋の一手詰め、三手詰めの本を読んでいたら、数学を勉強するときのコツと共通点があるのではないかという気がしてきた。
将棋の駒の動きは決まっていて、駒が置ける範囲も動ける範囲も限られている。それにもかかわらず、三手詰めといえども簡単には解けない。全ての変化の可能性は意外に膨大で、頭の中でシミュレーションするのが不可能に近いからだ。だから、問題を解くときは、王駒をどこへ逃がさないようにするか、どういう詰み型に持っていくかを考えて変化の可能性にある制限をかけながら解かないといけない。ところが、詰将棋の答えは平凡な予測を裏切る方法が多いのだ。そのために、普通のやり方ではどうしても解けないように見えたものが、あっと驚くやり方で詰み上がってしまう。 この、変化の可能性をしらみつぶしに調べることの困難さと、普通の発想で答えを探索しても答えが見つからないのに、意外な方法で答えが見つかってしまうという性質が、数学などの事情と似ている。数学の問題の場合も与えられた条件は明確でその範囲もそう広くないことが多い、それにも関わらず解けないのは詰将棋の場合と同じように変化の可能性を調べつくすことの困難と、平凡な方法で変化の可能性を狭めて探索すると、解答がその網目から漏れてしまうためだ。 詰将棋の場合は、一手詰めから初めて駒が積むときの型のようなものに慣れると、三手詰め、五手詰めと進んでいけることが多い。数学の場合も、極く基本的な問題を解くうちに、解法に至るための型のようなものが身について解けるようになるのではないだろうか。その過程で解答への道を見出すためのカンのようなものが育ってくるのだろう。それは、あくまでもカンなので、数多くの問題を解き、さまざまなパターンに接触しなくては身につかない。そのことが、数学ができる人間とできない人間とを分けるのだろう。 皆が皆将棋の達人になれるわけではないし、皆が皆数学者になれる訳でもない。しかし、自分がどうしても知りたいと思ったことの中に数学が現われてきたとき、これをどう攻略すればよいかは、将棋を学ぶ時の過程を参考にできるのではないかという気がする。とくに、比較的明確な制限条件があるにもかかわらず、変化の可能性が膨大になる場合に、どうパターン認識を利用して起こりうる可能性を制限して目的の解答に到達するかという、数学の問題にあらわれがちな性質のモデルとして、将棋が使えるからだ。
by tnomura9
| 2009-06-10 17:56
| 考えるということ
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