認識論とは何かと考えたとき、そこには二つの方向性があるのに気づく。
一つは、自己が外界をどう認識するのかという、自己から外界へむかう方向性だ。もう一つは、外界に現れた人間の行動や著作物から人間の認識の性質や構造を考える方向性。言い換えると、主観から客観へという内から外への方向性と、客観から主観へという外から内への方向性だ。 前者の場合は、カントの『純粋理性批判』のように、人間の理性がどうやって世界の存在を知ることができるかを考察する。この場合、現代的な感覚でいえば、理性とは脳の活動と読み替えることができる。後者の場合は、チョムスキーの「生成文法」のように、言語のもつ再帰的構造を調べることで、脳の中にその構造を解析する文法脳と呼ぶべきものを想定している。 外界のモデルが脳の中に形成され、逆に、脳のなかの活動が行動や文書となって外界で記号化される。脳の活動は記号ではないし、記号は脳の中のモデルではない。 この両者の間を取り持つ翻訳機の働きが分かれば、脳の活動の記号化は精密なものとなり、客観的な記号から脳の中のモデルを正確に推測することができるだろう。 自然言語の翻訳プログラムはこのような脳の中のモデルと文書という記号の翻訳機となった時、真に有効なものになるだろう。また、抽象的な表現から具体例やモデルを含む視覚化されたモデルが自動的に作られるようになったら、抽象的な知識にアクセスできる人間の数が増えて、知識の発展が加速されるだろう。 人間の脳でどのようにして認識が起きているのかを知ることは、単に人間がどのようにして理解するのかという興味を超えた可能性がある。
by tnomura9
| 2009-06-04 07:14
| 考えるということ
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