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知識の彩

どうして女性の裸体を美しいと感じるのだろうか。あきらかに、女性の裸体を美しいと感じる認識の中には性的な感情が含まれている。美しさと性的な感情は別のものだが、美しさはある意味性的な感情で彩られているともいえる。

美とは関係ない知識についてもそうで、すべての知識には感情的な色彩が付随しているといっても過言ではないだろう。そうでなければ、数学の公式に美を感じたり、コンピュータのプログラムがすっきりしていると表現されたりはしないだろう。

この、知識に付随する感情の彩の由来するものは、味覚や触覚などもっとも基本的な感覚にも伴っている。神経生理学的にいえば、情動というもので、脳幹部から脳の広範な部分に投射している神経から分泌される、ドーパミンや、セロトニンや、ノルアドレナリンの影響を強く受けていると推測される。

しかし、だからと言って、酒を飲んだ時、「おっ、ドーパミンが出てきたな」などと考えるのは変人だろう。実際に、酔っていい気分になっているとき、ドーパミンのメカニズムなどは気にしてはいない。

このように、無味無臭であるべき知識にも感情が伴ってしまうというのは、それが、人間によって思考されたものだからだ。数学の定理のような客観的なものであっても、それが、人間の脳を使って作られたり、理解されたりするときに必然的に感情的な色彩を伴ってしまう。脳の活動が情動と不可分に活動しているために、純粋に理性的な知識と思われるものすら感情に染まるのを避けられない。

たとえば、「確かに~かもしれないが、しかし、~」というような表現は、今までの常識を打ち破ったり、新しい観点でものを見るというような小気味よい感情を伴っている。この感情に引っ張り回されると、やたらに他人の揚げ足を取るという嫌な奴になってしまう危険性がある。

人がときに不合理な判断を変えることができないのは、人間の脳では理性と感情が不可分に結びついているためだ。
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by tnomura9 | 2009-06-03 05:22 | 考えるということ | Comments(1)
Commented by tnomura9 at 2009-06-04 06:53
哲学はなぜ間違うのか?さん、トラックバックありがとうございました。
随意運動とは、記憶に残っているものをいうというアイディアは、普通の考えと順序が逆な感じで面白いですね。こういう哲学的な発想が、人工知能や神経生理学の理解のヒントになることは多いのではないでしょうか。
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