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認識論としての哲学

哲学とは人間がどう生きるかを考える学問であるというような説明が入門書でされている。それが、哲学というものについての一般的な認識だからだろう。そのためか、商売の哲学や、職人の哲学などが本になったりする。科学の発達の影響で、存在論など本来哲学がやっていた仕事を科学が奪っていったせいだが、哲学が単なる人生論ならあまり面白味はない。

しかし、五感と論理だけを頼りに外界や自分自身の真実の姿を求めようとするという哲学の方法論を考えると、認識論としての哲学はまだその輝きを失ってはいないような気がする。

たとえば、プラトンのイデア論にしても、美という概念が、個人を超えて存在しているのはなぜかという認識論的な問いだと考えると、俄然、現代的な意味を投げかけてくる。美しいと感じるのは、個人の脳の活動だが、どうしてそれがいろいろな人に共通するのだろうか。どうすれば、他の人の美の概念が自分のそれと同じであると知ることができるのだろうか。個人が死んでしまえば、その人にとっての美の概念は消滅するが、美の概念自体は、個人の人生を超えて存在するようにみえるのはなぜなのだろうか、そもそも究極の美とは何なのだろうかなど、認識論の視点から考えたとき、イデア論の問いはなかなか刺激的なのだ。

脳の仕組みについてはかなり良く分かるようになってきている。記憶を増強する薬や、認知症を治療する薬なども実験段階としては作られているようだ。それでも、自分の脳を鍛えようとするとき、人間はやはり五感と論理に頼るしか方法はない。自分がいろいろな知識を獲得しようとするとき、どういう風に脳を使ったらよいのかを知るのは、内観と論理という道具しかない。

五感と論理という道具立ての乏しさのために、科学にその地位を奪われつつある哲学だが、ひとがどのように真理を認識できるのかという認識論的な観点から古典を読み返すと、哲学の様々なアイディアはまだその輝きを失ってはいない。
by tnomura9 | 2009-06-01 05:39 | 考えるということ | Comments(0)
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