誰も他の人の頭の中の考えを直接に知ることはできない。発信者の考えは、言葉という記号に変換されそれを受け取った受信者はその言葉を解釈することによって発信者の考えを推測する。したがって、一方通行の発信では、発信者と受信者の考えが一致しているという保証は全くない。
発信者の考えと受信者の理解が一致しているかどうかは、双方向のコミュニケーションが行われない限り確認することができない。つまり、受信者が自分の理解を言葉に記号化して発信者に送らなければならない。発信者はその言葉で受信者の理解度を推測し、自分の考えと違っていると感じればそれを再び言葉に記号化して発信する。この際も、受信者が発した言葉を発信者がきちんと受け取っているという保証はない。 このような、あいまいなやりとりでも、繰り返しているうちに双方の考えが一般には歩み寄ってくる。独学ではなかなか理解が進まないのに、徒弟制度のように師匠について学ぶと本を読まなくても知識が身についてくるのはそのためだ。 二人の頭の中の考えが同じになるのは、このような双方向のコミュニケーションによるすり合わせによる。しかし、その効率は使われている言葉の意味論的効率に左右される。つまり、発信者の考えが言葉に記号化された時、受信者の解釈が発信者のそれと一致するような言葉であれば一回の通信で済んでしまう。記号としての言葉に対し意味が一意的に決定できればそれは可能だ。たとえば、コンピュータのプログラムなど一本のプログラムが何台のコンピュータにも使えてしまう。 人間の言葉は、コンピュータのプログラムと比べて多義性が高い。このため、発信者の意図が十分に受信者に伝わらず誤解が生じてしまう可能性が高くなる。これを防ぐためには、言葉の定義を明確にして言葉に対する一意性を高める努力が必要になってくる。 数学の証明などは言葉の定義に厳格なので解釈のまぎれが少ない。しかしながら、抽象的な定義が多く、読み手がそれをどれくらい理解できるかで理解の程度が左右される。定義の理解に多義性が生じてしまうため、誤解したり、理解不能と感じたりするのだ。 哲学の場合は、用語の定義すらなされていない場合が多い、それは、主に文書が哲学の専門家をターゲットに書かれているからだろう。したがって、きちんと理解するためには、その文書が書かれた時代に共通に理解されていた用語の定義や思想の背景を理解していないといけない。しかし、それは専門家以外にとっては、解決不可能なくらいの負担になる。 「名著とはだれも読まない書物のことだ」という警句もあるが、過去の遺産を現代人のための宝にするためには、用語の定義と現代的な解釈を付加して言葉の意味を明確にした原典の訳書が必要となるのではないだろうか。
by tnomura9
| 2009-05-25 18:00
| 考えるということ
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