外出した時など、小さい子供が「痛い、痛い。」と泣いているのを見かけることがあるが、それを見ながら、子供は自分の感じている痛みをどうして「痛い」という言葉で表現できるようになるのだろうと不思議に思うことがある。
他の人の感覚や思考を直接覗くことはできないので、他の人が何を考えているかは、言葉を通じてしか知ることができない。しかし、それもその言葉に対する自分の解釈と発信者の解釈が一致するという保証はどこにもない。したがって、言葉という記号を介する思考の伝達は発信者と受信者のあいだにフィードバックがなければ、両者の一致の精度を上げることができない。 このフィードバックについても、発信者と受信者がおなじ犬を見て、「これは犬だ」というような共通の理解を形成するのは楽だ、両者のフィードバックが、言葉と物体としての犬という二つの客観性を利用できるからだ。 ところが、「痛み」の感覚のようなものは全く主観的なので、この感覚を両者が共有することはできない。フィードバックのしようがないのだ。もちろん、「痛み」の感覚は皆が共有しているので、この離れ業がどこかで行われているには違いないのだが、考えてみると不思議なことだ。 参考書を読んでいても、わかりにくいと感じる部分は、「痛み」のように直接的な経験の共有が基本的に不可能な部分の記述ではないだろうか。具体的な事例から推測することで相手の意図が図られるような概念は理解が難しいし、誤解が紛れ込む可能性がある。このような概念について学習するときは、意識して他者との経験の共有可能な具体例に関連付けながら理解していく必要がある。
by tnomura9
| 2009-05-22 11:51
| 考えるということ
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