統語論は記号体系の構造を扱う学問だ。
「記号体系の構造」という用語はないが、これで何を言いたいかというと、記号の現れ方に規則があるということだ。たとえば、英語などの場合を考えると、使われている記号はアルファベット26文字を中心として有限個の文字種しかない。また、その組み合わせ方にも一定のルールがあって、どんな文字の組み合わせも意味を持つというわけではない。統語論を持つような記号体系は、その記号の組み合わせ方に制限が生じている。別の言い方をすると記号の現れ方に構造があるということになる。 統語論は、意味論との関連で論じられることが多い。統語論と意味論との間にはある程度の独立性があるが、しかし、統語論の構造は、意味論の対象とする「意味」を反映している場合が多い。この場合、「意味」の構造が、シンタックスの構造に反映しているとみなされる ヴィトゲンシュタインは「論理哲学論考」では、現実世界の意味の構造が、言語の論理的な構造に一対一に反映されていると主張しているように思われる。ヒルベルトのプログラムでも、数学の構造は、記号論理の記号体系の構造に置き換えることができることを狙っていた。 確かに、目に見えない意味の世界を記号という客観的なものの構造として置き換えることができれば、それは有用に違いない。数学の場合はある程度それに成功しているように見える。たとえば、数式の変形などは純粋に記号の置き換えルールとして考えることができる。自然言語の場合もそれが可能なら、コンピュータ処理で要約を作ったり関連する文書を集めたりすることができる。しかし、自然言語の場合はまだ難しいようだ。 統語論と意味論の間に厳密に1対1の対応があれば、文書の中に正確な情報を記録できる。きちんと動作するコンピュータプログラムは、どのコンピュータで走らせても同じ動作が期待できる。このばあい、プログラム言語の統語論と意味論の間に一致が見られると考えてよい。少なくともコンピュータ間では。しかし、そのプログラム言語を人間が理解できるかどうかはまた別の問題なのだ。 「知りたいと思ったことを知ることができる」ための要因は、人間にとっては、統語論と意味論との一致以外の何かが必要なようだ。
by tnomura9
| 2009-05-18 15:47
| 考えるということ
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