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統語論と変換

統語論とは要するに文法のことだ。ところが、記号論理学では、この文法が独り歩きして、命題の意味によらず定理が記号の操作のみで証明されてしまうので、不思議に感じてしまう。記号論理学で記号化された命題といえども何かを表現した言葉のはずなので、それが言葉の意味によらず定理の証明ができてしまうということが、納得しがたい。

しかし、言葉という記号表現は確かにそれ自身とは異なる記号内容を指し示すためのものだが、一旦記号化されると物としての記号表現を考えることができる。たとえば、「ねこ」、「こま」などの言葉は確かに、動物やおもちゃなどを指し示す記号表現だが、「ねこ」->「こま」のようなしりとり遊びをするときは、言葉の内容ではなく、その言葉の持つ音の性質が問われている。しりとり遊びは、言葉を使って行われているが、言葉の意味には注意は払われない。言葉の意味によらず、言葉という記号の物としての性質を利用する機会は結構多いのだ。

記号そのものの性質を問うものの代表には、パズルがある。たとえば、15ゲームは、箱の中に4×4に数字を書いたパネルを敷き詰めてある。パネルは15枚ありそれぞれには、1から15までの数字が一つだけ書いてある。パネルは最初数字がバラバラになるように並べてあり、それを一つだけある空白を利用して移動させることで、1から15まで整列させるのがパズルの目的だ。敷き詰められた数字の書かれた四角いタイルを、ただ一つある空白を利用して移動することでパネルの並べ替えが行われる。

15ゲームの場合パネルに数字が書かれているが、それには格別の意味はない。ゲームの操作は単に記号の位置を変化させることに目的があるからだ。それでは、15ゲームの統語論とは何だろうか。それは、パネルの位置を変化させる変換の規則だ。いま、15ゲームで数字が整列している状態を、(1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16) であらわしてみる。ゲームでは16がなくそこは空白になっており、隣の駒をその位置に移動することができる。しかしこれは見方を変えると、16とかかれたパネルを隣のパネルと交換することと同じだ。たとえば、15のパネルを空白の位置に移すと、15 と 16 の駒を交換したことになる。15と16の駒を互いに入れ替えるので、これを互換という。

こういう見方をすると、15ゲームの目的は、(4 15 2 3 14 5 1 8 6 7 10 9 16) のように並んだ番号を (1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16) という整列した数字に置換することであるということになる。パネルを一回移動させるということは、数字を入れ替える互換を一回だけ行うということと同じだ。したがって上のような置換を互換の組み合わせで行えるかどうかということがゲームの回答と同じことになる。

このような、数字の並べ替えすなわち置換は必ず互換の組み合わせでできることが分かっている。したがって、上のような問題も互換の組み合わせで行えるはずだ。しかし、15ゲームの場合は16で表した空白部分は必ず最後の位置に来ることが要求される。数字が乱雑に並んでいる場合にも空白だけは最後の部分においてあることが多いので、ゲームが完了するためには、必ず偶数回の置換が行われなければならない。奇数回の置換では16が元の位置に戻れない。それは、すべての変換がおこなわれる際の16の位置にだけ注目していると分かる。したがって互換が奇数回になるような置換、たとえば、(2 1 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16) -> (1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16) のような置換の場合15ゲームの操作では解決できない。絶対に解けない問題になってしまう。

言葉という記号表現はそれ自身ではない記号内容を指示するためのコンテナとして使われている。しかし、いったん、記号というものに言葉が変換された時、記号化された言葉は、記号そのものとしての性質を持つことになる。論理学については、その記号としての性質が、論理の定理という意味と合致することができたという珍しい例なのだ。
by tnomura9 | 2009-05-14 06:43 | 考えるということ | Comments(0)
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