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本質を見つける

考える楽しみの一つは、雑多な事象の中に本質をみつけることだ。

『ブッダ論理学5つの難問』 石飛道子著 講談社選書メチエ のなかに、仏陀の言葉の引用がある。

比丘たちよ、傾聴に値しない人は、喩をもたない人である。傾聴してよい人は、喩えて言える人である。喩えて言える人であるならば、ただひとつの法を自ら知り、ただ一つの法をあまねく知り、ただ一つの法を捨てさり、ただ一つの法を直観する。ただひとつの法を自ら知り、ただ一つの法をあまねく知り、ただ一つの法を捨て去り、ただ一つの法を直観する人であるならば、正しい解脱に触れるのである。(アングッタラ・ニカーヤ」 3.67.6)


抽象的な概念は、具体的な事例から抽象されなくてはならないし、抽象された概念からは、それに適合するあまたの具体例を導き出されなければならない。具体性と抽象概念の間のこのような運動が自在にできるとき、その抽象概念は本質であるということができる。

また、そのようにして抽象された概念の表現は美しくもある。

次の引用も同書からの仏陀の言葉の引用だが、

最初の説法
尊師はこのように言った。心かなえる五群の比丘たちは尊師の説を大いに喜んだ。そして、この解説がなされている最中に、コーンダンニャに、貪りと穢れを離れた法を見る目が生じた。「およそ何であれ、生ずる性質のものは滅する性質のものである」と。(「サンユッタ・ニカーヤ」56.11.15)

この、「およそ何であれ、生ずる性質のものは滅する性質のものである」という命題は、変化というものについてのパラドックスを見事に言い表している。生ずるものが滅するのは普通に見られることだが、その変化を刹那まで短縮していくと、「生ずると同時に滅する」というパラドックスに至る。この故に「存在と非存在は両立しないという」排中律を基本とする実在論は否定され、すべてのものは空であるという論理的な結論が導き出される。

これが、本当に真実かどうかは管理人にはわからないが、しかし、変化の本質の不可思議な所が「およそ何であれ、生ずる性質のものは滅する性質のものである」という短い言葉に凝集されていることに美を感じることができる。

ヴィトゲンシュタインの「語りえぬものについては、沈黙しなければならない。」という言葉のように、本質的なものを射抜いた言葉は、その真意が理解されなくても、その美しさのゆえに生き残っていくのだろう。
by tnomura9 | 2009-04-26 08:29 | 考えるということ | Comments(0)
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