哲学の本を読んでいて以前から不思議でならなかったことがある。
論理だけを使って演繹したはずの哲学の結論があまりに多様で相反するものさえあるのはなぜかということだ。科学の場合も対立する複数の仮説が見られることがあるが、その後の研究で次第に収束していく。数学は論理を使って演繹をするが、複数の結論が対立することはあまりない。なぜ哲学だけがさまざまな結論が出てしまうのだろう。 しかし、哲学は論理による演繹のかたちをとっているが、実は帰納的な推論のほうが多いということに気がついてから、その疑問が氷解した。 例えば、ソクラテスは死ぬという推論をする有名な三段論法についてみてみよう。この推論は次のように行われる。 大前提: 「すべての人間は死ぬ。」 小前提: 「ソクラテスは人間である。」 結論: 「ゆえに、ソクラテスは死ぬ。」 大前提と、小前提から結論が導出されており、論理的な法則に従っていて何も問題ない。しかし、論理が関係しているのは、実は、三段論法の推論式だけなのだ。命題論理学では、命題の真偽とは関係なく正当な推論を扱うことを思い出してもらうと分かるが、論理が保証できるのはその推論の形式が正当かどうかだけである。上の推論は確かに論理学的に正しいが、それは推論の形式が正しいというだけのことだ。 もちろん、大前提と小前提が真なら結論が真であることは論理的に保証される。しかし、大前提が偽であれば、どんなに論理的に正しい形式をとっていても結果の正しさは保証されないのだ。 そういう目で見ると、大前提の「すべての人間は死ぬ。」という命題は必ずしも真とは言い切れないことが分かる。経験的にすべての人が死ぬのを見ているが、あくまでもそれは、経験から「帰納的に」推論した法則性だ。一人でも死なない人間がいれば、この大前提は偽であるということになる。帰納的な推論には完全な真理性は保証されないのだ。 こういうふうに考えると、哲学の議論の中には論理に混じって数多くの「帰納的な」推論が使われていることが分かる。そういう命題は経験的に一見自明のようにみえるが、だからといって、その真理性が保証されるわけではないのだ。また、こういう命題は大前提の中に現れやすい。したがって、哲学の議論は必ずしも真であることが保証されていない大前提が多く使われた論理的な演繹になるのである。おそらく、これが、哲学の結論が多様で、相容れない学説すら並立している理由だろう。 哲学の多様性は論理の性質によるものではなく、「帰納的な」推論が多用されているためだったのだ。また、哲学の結論の妥当性はその論理構造の考察よりも、その中に採用されている「帰納的」推論を吟味することによって、科学や数学に比肩する厳密性を持ってくるのではないだろうか。
by tnomura9
| 2009-03-28 06:40
| 考えるということ
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