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中観

龍樹は「空」の理論を確立したといわれているが、「空」というのは「無」とは違う。龍樹がこの世界は無だと主張したのなら、「すべてを無だと仮定しても、それを考えている自分は無ではない。」と反論できるが、「空」はどうやら、「無」ではないらしい。また、「空」は「中」と同じらしい。

空っぽの状態と、真中とどうして同じになるのだろうと不思議だったが、中論の議論を読んでいたら気づくことがあった。龍樹が説一切有部の実在論を論破するとき、彼らの命題から演繹して、ジレンマやトリレンマに追い込むことによってそれを否定するというやり方をしている。実在論にまつわるいろいろな命題について述べているが、ほとんどが命題からパラドックスを演繹するというやりかただ。

時間が存在するとしても、存在しないとしても不都合が生じる。したがって、時間は存在するとも、存在しないとも言えない。時間は存在でも非存在でもない空なのだ。という議論だ。存在でも非存在でもないのならその真中というわけで、中観という考えが出てくる。これなら、空と中が同じものであっても納得できる。

龍樹は説一切有部の実在論のほとんどすべてをパラドックスに追い込んでいるが、実は、その中心部分は、時間や因果などの変化を扱った部分だ。さらにいうと、変化の連続性を扱った部分なのだ。Aというものが変化してA1になったとする。単にAがA1に変わるだけなら問題は生じないが、しかし変化ということを扱う場合、Aは何の関係もないA1に変わるのではなくAの同一性を保ちながらA1に変化しなければならない。つまりAからA1には何らかの連続性がなければならないのだ。AがA1に連続的に変化するとき、ある一点でAはAでありながらAではないものにならなければならないが、そこで矛盾が発生するのだ。

実は、変化における連続性の矛盾はギリシアのゼノンが提示した有名なアキレスと亀のパラドックスを含む一連のパラドックスに端的に表現されている。数学的には極限の概念を使ってこのパラドックスを克服できるというような説明があるが、そう簡単にはいかないような気がする。

例えば飛ぶ矢は的へ届かないというパラドックスがある。弓から放たれた矢は、的へ当たるまでにその2分の1の距離へ届かなければならない。しかしその中点に届くまでにはその半分の地点に届いていなければならない、さらにというふうに永遠に議論が続き、矢は移動のための最初の一歩の地点が見いだせない。

存在が自己同一性を保ちながら変化していく時に自分が自分であって同時に自分でないものにならなければならないというパラドックスについてほんとうに解決されたとは思えないのだ。

龍樹の様々なパラドックスの論点は、どれをとってもこの自分が自分でないものに変化する瞬間について述べてあるような気がする。因果をその哲学の根底に据える仏教にとって、変化の哲学は避けて通れないが、そこには解決が難しいパラドックスが潜んでいる。龍樹はそれを敏感に感じ取り、存在でもない非存在でもない空という表現で解決しようとしたのではないだろうか。
by tnomura9 | 2009-03-26 12:07 | 考えるということ | Comments(0)
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