インド哲学の一見理解しがたい結論は、特別の論理のためにそうなっているのではない。哲学の記述の中で、論理の部分と、論理が関与しない部分に分けて考えると、理解しがたいと思っていた議論の構造が見えてくる。例として『中論』のなかの「原因(縁)」が存在しないという部分の議論を見てみる。
〔結果を生ずる〕作用は、縁を所有するものとして有るのではない。また作用は縁を所有しないものとして有るのではない。縁は作用を所有しないものではない。あるいは縁は作用を所有するものとしてあるのだろうか。〔そうでもない〕。 (『竜樹』 中村元著 p.321) 縁などの哲学用語があるし、なにについて論じてあるのか予備知識がないと分かりがたい文章だが、論理という立場からこの文章を分析してみる。そのためには、まず、この文章を命題に分解しないといけない。命題論理学でこれを扱うためには、この文章を単純命題と論理記号に分解しないといけないが、ひとまずは文章単位に切り分けてみる。 1) 作用は、縁を「所有する」ものではない。 2) 作用は、縁を「所有しない」ものではない。 3) 縁は、作用を「所有しない」ものではない。 4) 縁は、作用を「所有する」ものではない。 「作用」、「縁」、「所有する」という用語の意味は置いておいて、これらの文章の論理的な関係を見てみよう。これらの文章をたとえば、(作用)と《縁)のあいだに(所有する)という二項関係があると考えて詳しく分析することもできるが、まずは単純に上の一つの文章を要素命題として考えてみよう。まず、これらの命題を構成する要素命題は何かと考える。すると、A=「作用は縁を所有する」、B=「縁は作用を所有する」の二つで構成されていることが分かる。したがって上の命題を記号化すると、 1)¬A 2)¬¬A 3)¬B 4)¬¬B となる。1)と2)が同時に成立するということは、(¬A)∧(¬¬A) が真であるということになる。しかし、これはこの結論が恒偽命題であるということと矛盾する。したがって、命題Aを真と仮定すると矛盾がおきるので、命題Aは否定される。しかし、困ったことに¬Aを仮定しても否定されてしまう。つまりパラドックスを引き起こしてしまうのだ。おなじことが、Bについても言える。したがって、この文章は「作用は縁を所有する」あるいは「縁は作用を所有する」という命題がパラドックスになってしまうということを主張している。つまり、「作用は縁を所有する」という命題は、「この文章は偽である」という命題と同じようなパラドックスを発生させてしまうらしい。 論理的な分析の強みは、命題の真偽を問わないで済むということだ。命題の内容を理解していようといまいと、命題間の関係を論理というナイフを使って分析することができる。命題間の関係については、理解しがたいインド哲学であろうと何であろうと論理で分析することができるのだ。 龍樹は「縁は作用を所有する」という命題がパラドックスになることを論述しているが、論理的に議論が進めれれていてもその論述全てが論理的というわけではない、上にも述べたように論理的推論の正しさは、命題の真偽を問題にしないのだ。パラドックスは、論理以外のところから発生してきているに違いない。したがって、論理の部分とそうでない部分を分けることによって、それがどこから来ているのかを見てみることができるかもしれない。
by tnomura9
| 2009-03-26 07:30
| 考えるということ
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