人気ブログランキング | 話題のタグを見る

論理の役割

命題論理学の教科書を読み始めて、最初に驚くのは論理的な推論の正しさは、命題の真偽によらないという説明だ。たとえば、
夕焼けが見えれば、明日は晴れだ。
夕焼けが見える。
ゆえに、明日は晴れだ。
という推論が正しいのは分かるが、
雪が黒ければ、ウサギは空を飛ぶ。
雪は黒い。
ゆえに、ウサギは空を飛ぶ。
という推論もまた正しいのだ。最初は、驚いて不審に思うが、真理表の作り方などを勉強しているうちに何となくわかったつもりになって命題の真偽と論理の独立性を忘れてしまう。

ところが、実際に論理を応用するときには推論の正しさよりも、論理の対象の真偽を問題にすることが多い。論理は推論の正しさを検討するためではなく、表面上は見えない真理を探究するのに使われることが圧倒的に多くなる。病気の診断や、犯罪の捜査などは、目に見える症候や証拠から目に見えない病気や犯人を突き止めようとする。たとえば、
たばこを吸うと肺癌になる。
Aは煙草を吸う。
ゆえに、Aは肺癌になる。
というのは普通の推論だが、実際には、
たばこを吸うと肺癌になる。
Bは煙草を吸うが、肺癌ではない。
ゆえに、たばこを吸うと肺癌になるという仮定は間違っている。
というふうに小前提と、結果から、大前提の妥当性を推論するという使い方をすることが多い。帰納的推理だ。ただ、帰納的推理の場合は、あらゆる可能性を検討しつくすということが難しくなるので、大前提の真偽について確定することが難しい。

哲学の場合のように、目に見えない真理を追究するときに論理のみを頼りにしなければならないときは、このように真偽の分かった命題から目に見えない結果を推理する場合と、目に見える証拠から目に見えない命題の真偽を推理する場合が混然となっているので、その議論がどの程度確実なものか判断しづらくなる。

龍樹の批判する説一切有部の実在論も論理的考察を積み重ねて作り上げた学説だし、その学説が正しいと仮定したときに矛盾が生じることを論証することによって、一切の実在には矛盾が存在するので、実在というものはなくすべては空であるとする龍樹の主張も論理を駆使した結果だ。それでも、正反対の両者の主張のどちらが正しいのか判断できないのは、哲学の推論に上に述べた二つの推論が入り組んで使用されているためだ。

一方、カントの認識論などは、内観と論理だけで考察されているにもかかわらず、脳の認識のメカニズムを的確に指摘しているのではないだろうかと思われる結論も多い。一見、机上の空論に見える古代の哲学者の議論も科学的に見ても妥当なものが多く含まれている。論理的推論の力は軽視できない。

また、ここで考えておかなければならないのは、日常的な結果の予測という身近な出来事にも、哲学と同様の事情が発生している可能性があるということだ。新製品を開発したときに、それがどれだけ売れるのかは論理的な推理によるしかない。しかし、その推理が外れたときの影響は軽いものではない。論理的に推理しているつもりでも、自分がどういうふうに論理を利用しているのか、それは正当なやり方なのかということにも注意を払う必要がある。
by tnomura9 | 2009-03-25 07:13 | 考えるということ | Comments(0)
<< 中論 原因(縁)の考察 論理という道具 >>