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論理という道具

インド論理学の入門からはじまって龍樹の実際の議論まで眺めてみたが、印象としては、インドの論理学も西洋の論理学とそう変わらないようだ。龍樹の議論を読んでも、ジレンマやトリレンマなど普通の推論手段を使った議論がなされている。論理的な推論式の表現の違いはあっても、実質的な論理的な推論の方法は、違和感がない。

神秘的なのは、インドの哲学の内容であって、論理学ではない。

こうしてみると、述語論理の知識さえあれば、地球上の知的作業の大抵のものは理解できるようだ。ただし、その分野の基礎知識がないと全く理解できないが、推論の手段としての論理学については、万国共通で、神秘的な論理学などはない。

論理学は知識の構造を調べる知的道具なので、この結論は当然と言えば当然だ。述語論理の扱いに習熟しておけば、どんな知識でも、少なくともその構造を知り、複雑に絡み合った概念をその部品に分解することができる。

ヘーゲルの弁証法のようなものも、正、反、合、止揚などと述語論理にはない考え方が述べられているが、これは、相互作用のあるシステムを論理的に分析するときに現れる現象で、論理そのものではない。論理的な推論については、述語論理しか使われていない。

哲学は論理を道具として使っているが、論理そのものではない。それは、数学においてもそうだ。概念の間の関係を分析するという論理の道具としての性質を見失わないようにすれば、述語論理はあらゆるところで使える万能の道具となる。したがって、哲学というような高踏的な学問でなくても、ごく日常の用途にも論理学は活躍できる。述語論理を学ぶということは、のこぎりや金づちの使い方を学ぶのと同じくらい基本的なものだ。

述語論理以外に何々論理学という主張がなされた場合、それは論理学以外のものが付随しているのである。
by tnomura9 | 2009-03-24 07:45 | 考えるということ | Comments(0)
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