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『中論』 時間の考察

龍樹が『中論』のなかで実際に行った説一切有部の実在論に対する反論を見てみよう。ここでは、第19章の「時間の考察」をとりあげる。

前回のエントリで『中論』の第2章以下の実在論に対する反論は重要度の順に述べてあると述べた。「時間の考察」は第19章なので、重要度からいったら順位は下のほうだ。しかし、この章は議論が短く、また予備知識が比較的いらない。第2章や第3章は、説一切有部の哲学に対する反論になっているので、それについての予備知識がないと読みこなせないが、管理人にはそれがない。

ともかく、第19章「時間の考察」の原文を見てみよう。

 もしも現在と未来とが過去に依存しているのであれば、現在と未来とは過去の時のうちに存するであろう。
 もしもまた現在と未来とがそこ(過去)のうちに存しないならば、現在と未来とはどうしてそれ(過去)に依存して存するであろうか。
 さらに過去に依存しなければ、両者(現在と未来)の成立することはありえない。それ故に現在の時と未来の時とは存在しない。
 これによって順次に、残りの二つの時間(現在と未来)、さらに上・下・中など、多数性などを解すべきである。
 未だ住しない時間は認識されえない。すでに住して、しかも認識される時間は存在しない。そうして未だ認識されない時間が、どうして知られるのであろうか。
 もしも、なんらかのものに縁って時間があるのであるならば、そのものが無いのにどうして時間があろうか。しかるに、いかなるものも存在しない。どうして時間があるであろうか。
 (『龍樹』 中村元著 p.365)

現在と未来が過去に存在してれば過去は現在と未来に影響することができる。ところが、現在と未来は過去ではないのでそれが過去に存在するというのは矛盾する。一方、現在と未来が過去に存在していなければ、過去は存在していないものに影響することはできないので、現在と未来に影響することができず、現在と未来の時は存在しないことになる。

現在と未来が過去に存在しても存在しなくても矛盾が起きるというジレンマが見られるのだ。

現在が過去に影響を受けるためには、現在と過去とが重なり会うある一点が必要になる。何のことか分からないかもしれないので例をあげよう。

一般に動いているものは瞬間には止まっていると考えられる。実際、高速度撮影の写真をみると、飛んでいる鳥は空中で止まっているように見える。しかし、この写真は飛ぶ鳥の瞬間の映像を捕らえたわけではなく、わずかであるが、シャッターが開いてから閉じるまでの時間移動した鳥の重ね撮りを撮影しているにすぎない。静止画像のように見えるのは移動の距離がわずかなので重ね撮りのように見えないだけだ。

真に鳥の瞬間の姿をとらえるためには、シャッターは開くと同時に閉じていなくてはならない。しかし、シャッターが開くと同時に閉じるということは矛盾している。したがって、瞬間というものを定めることができない。運動している物体の瞬間の映像を捕らえることは不可能なのだ。過去から現在への移動の接点は瞬間であるが、その瞬間は必然的に矛盾を抱えてしまう。

このように動きや時間の経過を考えるときに、時間には解き難い矛盾が存在している。これは、時間に限った問題ではなく、実数についてもいえる。実数には次の数というものがない。どこまで近づいても、その間に数を挟むことができるので、アキレスと亀のパラドックスのようなものが発生してしまう。これについて数学的にではなく哲学的に解決した記述を知らない。

龍樹が問題にした、「因果」や「運動」などの概念には常にこの連続性の矛盾が付きまとっているような気がする。運動や変化を問題にするときには、必ず上に述べたような矛盾を抱えてしまうのではないだろうか。説一切有部の哲学の知識があれば、龍樹がこの矛盾を利用してそれらの実在論の内包する矛盾を暴きだしているのをもっとしっかり理解できるかもしれない。

竜樹にはものごとの本質を見抜く勝れた思考力があったのではないだろうか。そうして、竜樹の哲学の投げかける問題の価値は現代にも十分通用するものではないかと思われる。
by tnomura9 | 2009-03-22 17:18 | 考えるということ | Comments(0)
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