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龍樹

インド論理学でネット検索をしていたら、インド論理学の古典的な教科書『ニヤーヤ・スートラ』の成立の過程についての面白い仮説を見つけた。石飛道子氏の『龍樹とインド論理学の誕生』という記事がそれだ。

詳しくは記事を読むと分かるが、『ニヤーヤ・スートラ』はカニシカ王の侍医であった内科医チャラカに帰せられる『チャラカ・サンヒター』という医学書の論理学についての記事に対する、龍樹(ナーガールジュナ)の突然の激しい攻撃に応戦する形で作られたというのだ。この論戦が激しかったため論述の弱いところは徹底的に検討され、結果的に短期間のうちに古典的な論理学書が完成した。

詳しいことを書くとネタばらしになるのでこの辺でやめておくが、インド論理学というような堅い話にも、見方によっては小説のように面白いものがあるのだなと感心した。

龍樹の『方便心論』での論敵の扱い方が、シニカルで小気味よいのでどんな人だろうと検索してみたら、Wikipedia に龍樹の項目があり、その伝記が引用されていた。

龍樹菩薩伝の伝説は以下の通りである。この伝説は学者によっては鳩摩羅什作とも主張されており、真偽のほどは定かではない。(この他にも諸伝が存在する。)

天性の才能に恵まれていた龍樹はその学識をもって有名となった。龍樹は才能豊かな3人の友人を持っていたが、ある日互いに相談し学問の誉れは既に得たからこれからは快楽に尽くそうと決めた。彼らは術師から隠身の秘術を得、それを用い王宮にしばしば入り込んだ。100日あまりの間に宮廷の美人は全て犯され、妊娠する者さえ出てきた。この事態に驚愕した王臣たちは対策を練り砂を門に撒き、その足跡を頼りに彼らを追った衛士により3人の友人は切り殺されてしまった。しかし王の影に身を潜めた龍樹だけは惨殺を免れ、その時愛欲が苦悩と不幸の原因であることを悟り、もし宮廷から逃走する事が出来たならば出家しようと決心した。

事実、逃走に成功した龍樹は山上の塔を訪ね受戒出家した。小乗の仏典をわずか90日で読破した龍樹は、更なる経典を求めヒマラヤ山中の老比丘からいくらかの大乗仏典を授けられた。これを学んだ後、彼はインド中を遍歴し仏教、非仏教の者達と対論しこれを打ち破った。龍樹はそこで慢心を起こし、仏教は論理的に完全でないところがあるから仏典の表現の不備な点を推理し、1学派を創立しようと考えた。

しかしマハーナーガ(大龍菩薩)が龍樹の慢心を哀れみ、龍樹を海底の龍宮に連れて行き大乗仏典(『般若経』のことか?)を授けた。龍樹は90日においてこれを読破。深い意味を悟る。

龍樹は龍によって南インドへと返され、国王を教化するため自ら応募して将軍となり、瞬く間に軍隊を整備した。王は喜び一体お前は何者なのかと尋ねると自分は全知者であると龍樹は答え、それを証明させるため王は今神々は何をしているのかと尋ねたところ、龍樹は神通力を以って神々と悪魔の戦闘の様子を王に見せた。これにより王をはじめとして宮廷のバラモン達は仏教に帰依した。

そのころ1人のバラモンがいて、王の反対を押し切り龍樹と討論を開始した。バラモンは術により宮廷に大池を化作し、千葉の蓮華の上に座り、岸にいる龍樹を畜生のようだと罵った。それに対し龍樹は六牙の白象を化作し池に入り、鼻でバラモンを地上に投げ出し彼を屈服させた。

またその時小乗の仏教者がいて常に龍樹を憎んでいた。龍樹は彼にお前は私が長生きするのはうれしくないだろうと尋ねると彼はその通りだと答えた。龍樹はその後静かな部屋に閉じこもり、何日たっても出てこないため弟子が扉を破り部屋に入ると彼は既に息絶えていた。

龍樹の死後100年、南インドの人たちは廟を建て龍樹を仏陀と同じように崇めていたという。

竜樹は抜群の論理的センスを持ち合わせていたようだ。そうして、仏説に魅力を感じながらも論理的に整理されていないと感じ、仏説の論理的な体系を構築したいと考えていたように見える。

また、蓮の池と白象のくだりは、龍樹とニヤーヤ学派の学問的な死闘を示唆しているのだろう。この伝記を信じると龍樹もやはり宮廷に出仕していたようだ。そう考えると、マスメディアも印刷術もない時代の論争があまりに迅速に行われたことについても納得できる。

竜樹が論理というナイフをどのように巧妙に振るっていたのか、また、粋な論理的思考法についてどう考えていたのか、興味が掻き立てられる。

龍樹という人は、やはり破天荒な、魅力的な人物だったようだ。
by tnomura9 | 2009-03-19 15:17 | 考えるということ | Comments(0)
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