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インド論理学と帰納法

『インド人の論理学』で著者は、インド論理学の特徴は帰納的推理であると主張している。ここでいう帰納法とはたとえば火と煙の観察から、火が煙の原因であるという関係を推理する方法だ。この本のp.227には次のように書いてある。

 随伴と排除によって発見、確立される二項関係の、最も手近な例は、因果関係であろう。例えば、火と煙の間には、
 「火があるところには、煙がある」
 「火がないところには、煙がない」
という随伴と排除の関係が経験的に知られる。したがって、火は煙の原因であると決定されるのである。
 七世紀の仏教論理学者ダルマキールティは、無数の経験を繰り返さなくても、
 火と煙のいずれも認識されなかったところに、
 火が認識され、それに加えて煙が認識され、
 火が認識されなくなると、煙も認識されなくなる
という一連のプロセスによって、火と煙の間の因果関係を確立できるとしている。

現象のなかの法則性は、一般に、多くの事象を観察しそれらに共通な規則を発見するという方法で知ることができるが、随伴と排除の関係に注目すれば、多くの経験をしなくても二項関係を推測することができるというのだ。

上の例の随伴を記号で表すと、Aが起きたときに必ずBが起きるから、A⊃Bという含意の関係になる。排除の場合は¬A⊃¬Bであるから、対偶をとると、B⊃Aとなるので、結局AとBの間に随伴と排除の関係が認識できれば、AとBが同値であることが分かる。

三段論法では大前提と小前提が与えられていれば、結論は自動的に決まる。小前提は明らかに目に見えることが多いから、推論の確かさを保証するには、大前提が確かなものであることが必要になってくる。確かな大前提を得るのに、西洋の論理学では少数の公理から論理的推論のみを用いてそれを導き出すという方法論を採用している。しかし、インド哲学の場合は、目に見える現象から目に見えない法則という大前提をどのように発見するかという帰納的な論理学を用いている。

因果関係全般は含意であると見るのが西洋の論理学だが、火と煙の間の関係がどうやって発見されたかについては考慮しない。逆にインド論理学では、火と煙の間の関係がどのようにして発見されるかということに視点をあわせるが、その原因結果の関係が論理的には同値関係にあるということは意識しない。同じ現象を観察していても、まったく別の角度から眺めていることが分かる。

このように、西洋論理学とインド論理学はおなじ論理をあつかいながら、視点の違いでよほど違ったものにみえる。しかし、両者の視点の違いに気がつけば、両者が相補的に同じ現象についての異なった角度からの論理的な特徴を浮き出させることができるのがわかる。

インド論理学と記号論理学を対比させるのは難しい作業かもしれないが、幸いインド論理学には上の随伴と排除のようなスキーマが豊富にあるので、このスキーマについて記号化していくと、両者の関係が分かりやすくなるに違いない。

インド論理学を学ぶにはサンスクリットの文献を読んだり、難解な術語の仏典を研究しなければならないが、インド哲学の普遍性を知るためには、これらの文献の口語約や、より意味のわかりやすい用語の制定が必要なのではないだろうか。これはギリシア哲学についても同じようなことがいえる。「名著とはだれも読まない本のことだ」という警句があるが、これらの先人の遺産を活用するためにも、古典の口語訳や現代的な観点からの解説が増えることが望まれる。
by tnomura9 | 2009-03-19 07:21 | 考えるということ | Comments(0)
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