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インド哲学の論理

『インド人の論理学』はインド哲学の論理学についての解説なので、インド哲学で行われる議論そのものはあまりまとまっては出てこない。しかし、ナーガルジュナの反論理学という章にはそれがいくつか出てくる。

ナーガルジュナの議論について考える前に、ナーガルジュナが何について議論をしていたかということに対する予備知識が要る。ナーガルジュナの議論は主に「説一切有部」の認識論にたいする反論として行われている。

仏陀の死後、さまざまな仏法の教説を整理統合しようとしたアビダルマ思想の一派に、「説一切有部」の哲学がある。

仏陀の思想では、私たちが認識するすべてのものは原因結果の連鎖によっている。たとえば貪欲によって搾取のような不都合な事態が発生し、それがさらに別の苦の原因となっていくというような原因結果の連鎖だ。こうして発生した苦は、搾取が存在しなければ存在しないし、搾取も貪欲がなければ発生しない。したがって、根本原因である貪欲を滅すれば因果の連鎖としての苦も消滅する。仏陀の説教はこのような実在に対する哲学的な議論からなっているが、仏陀の生前に体系化されていたわけではない。

「説一切有部」はこのような仏説を整理統合し、一切の現象は生成流転しているが、75のダルマ(法)という実在は永遠普遍であり、この世界の無常はそのダルマの相互作用の変化によるものであると主張する。「赤い鳥という目に見えるものが実在しているわけではなく、それは赤というカテゴリーと鳥というカテゴリーとの相互作用で作られている。赤い鳥は死んで消滅するが、赤いというカテゴリーと鳥というカテゴリーは不滅でこれこそが実在するものであるという考え方だ。

「説一切有部」では過去や未来のカテゴリーも実在と考える。

「もし過去および未来の対象が実在でないならば、ひとが過去と未来とのものについて行う認識は対象をもたないものとなろう。しかし対象のない認識などはありえない。したがって、われわれが過去および未来のものを考えることができるということは、それらが実在していることを示す。」

(梶山雄一 「仏教の思想3 空の論理」 P61 角川ソフィア文庫)

というわけだ。ナーガルジュナはそれに対し、すべてのものは因果により変転流転し、永遠に変わらない本質などはない、「一切は空」だという立場をとり、不変の実在であるカテゴリーを主張する「説一切有部」派の考え方を激しく攻撃する。その一つが、認識方法と認識対象という二つのカテゴリーは存在しないという議論だ。「説一切有部」の考え方では、認識方法と認識対象は独立した実在であり、一方が他方を必要とすることはないと考える。それに対しナーガルジュナはそれらは独立したカテゴリーではなく相互依存していると主張する。

 認識方法と認識対象との二つは混じりあっていて(区別できない)。
ここで、認識方法とその対象との二つは混淆していることが認められる。
というのは、対象があるときにはじめて認識方法は認識方法となるのであるし、逆に認識方法があってこそ認識対象は対象となるのである。
そういうわけで認識対象によって認識方法は成立し、認識方法によって認識対象は成立する。
だから、認識方法は認識対象(によって証せられるもの、したがってそ)の対象となるし、認識対象も認識方法(を証するもの、したがってそ)の認識方法となってしまう。(その二つは)相互に依存してのみ自体を得るわけであるから、認識方法といっても(それは方法であり対象でもあるという)二相をもち、認識対象も(対象でもあり方法でもある)という二相あるものとなる。つまり、二つは混淆しているのである。したがって、
 二つは自立的には存在しない。

(桂 紹隆 『インド人の論理学』 p.156)

インド哲学の思想はそれでまた面白いが、当面の興味は上のような実際の議論の運び方だ。要するに、認識方法が独立したカテゴリーであれば、その実在に認識対象を必要としない。しかし認識方法は認識対象がなければ認識方法として成立しない。ゆえに、認識対象は独立した実在ではない。同様のことが、認識対象についても言える。という議論だ。これはAならばBである。しかしBではない。ゆえにAではない。という含意の後件否定、つまり対偶による論証になっている。

これを見ても神秘的に見えるインド哲学が、推論については厳密な形式論理学の要件を満たしていることが分かる。インド哲学の神秘性は、神秘的な論理学が存在するのではなく、目に見える現象をどう認識するかという認識の方法論によるものだということが分かる。使われている推論は至極一般的なものだ。違いは何を大前提として採用するかということに現れる。

哲学の思索の武器は論理だが、論理すなわち哲学というわけではなく、論理はあくまでも推論が正当に行われるための道具でしかない。哲学の議論の本体は概念の構築だ。実在や無常など、目に見える世界から推論される目に見えない概念をどうとらえるかという捉え方によってさまざまな主張が分かれてくる。論理はそれらの概念の整合性を検証するために使われているに過ぎない。西洋の哲学とインドの哲学がどのように異なっていても、論理の使い方については共通なのだ。

カントなどの認識論もそうだが、インドの認識論にしても、議論の体系を構築するための素材は肉眼的な体験のみだ。しかし、脳の情報処理機構が解明されていけば、人間の認識のメカニズムについても、メンデルの時代の遺伝子の推理と現代の科学によるDNA操作との関係のように、目に見えなかったものを直接に観察することができるようになるに違いない。そうすれば、認識論という哲学の重要な分野も、かなりの部分が、脳のメカニズムという観点で説明できるようになるのではないだろうか。

ヴィトゲンシュタインは「論理は本質的にトートロジーなので、要素命題の真偽の判定はできない。ゆえに、哲学は科学的真理以外のものは語れない。」という意味で、『論考』のなかで、「語りえないものについては沈黙しなければならない。」と書いているが。認識についての哲学の多様性は、論理そのものの違いというよりも、論理体系を構築するための基本的な概念や命題の取り方によるもののような気がする。
by tnomura9 | 2009-03-15 11:14 | 考えるということ | Comments(0)
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