複雑で神秘主義的に見えるインド哲学だが、山に立ち上る煙からその下の火を推察するという例にもわかるように「見えない者を見る」ということがその目的であると考えると、その意図するところのものがよくわかる。『インド人の論理学』によると、インド哲学に共通する構造があるらしい。
二十世紀を代表するインド哲学者の一人、E・フラウワルナーが『インド哲学史』の序論に明快に説くように、六派哲学のみならず、仏教やジャイナ教を含めた、インド哲学諸派の体系は、ある構造を共有している。すなわち、まず最初に、正しい認識の基盤を吟味し、当該哲学理論を導出するための認識手段の確立を目的とする「認識論」がなければならない。次に、世界を構成する存在要素の枚挙、言い換えれば、範疇論的「存在論」を伴う、学派固有の世界観が提示される。さらに、それらの構成要素からの世界の創造と持続を記述する一種の「宇宙論」が示され、最後にこのような世界像から帰結される、人間の行為に関する倫理的議論、つまり「解脱論」がある。 つまりインド哲学では、正しく認識するための論理学によって、この世界がどのような構造と力動を持っているかを推論し、その結果としての解脱をもとめる倫理学の正当性と解脱のための方法論を説くという構造になっている。このような思考の展開は「目に見えているものを基盤に、見えないものを推論する」という観点からみると、その意図するところのものや、追及の手段がよく理解できる。結論が神秘主義的に見えるのは、インド哲学がその根拠として、聖典や言い伝えや内観による直観を採用しているからだ。 聖典や言い伝えを論理学的な体系の根拠に据える事ができるかという議論についてはいろいろな意見があるだろうが、それらが、長い時を通じて人間の行動や思想の規範となってきたということを無視することはできないだろう。インド哲学の神秘性はその「論理学」によるものではなくて、論理体系を構築するときのスタートとなる「見えるもの」として採択された公理によるものなのだ。 思うに論理的な推論そのものには、西洋も東洋もさして違いがないのではないだろうか。西洋と東洋の哲学が非常に異なるように見えるのは、論理学の問題ではなく、論理的体系を構築する基盤としての公理の採択の仕方によっているのではないだろうか。
by tnomura9
| 2009-03-13 05:21
| 考えるということ
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