桂 紹隆著 『インド人の論理学』 中公新書 によると、古代インド哲学のニヤーヤ学派では論争の時のスキーマとして五支論証法を推奨していたらしい。五支論証法とは、提案・理由・喩例・適用・結論の五つの支分からなる論証法だ。この本に挙げてある用例は次のようなものだ。
提案: 「語は非恒久的である」 理由: 「発生するものであるから」 喩例: 「発生するものである皿などの実体は非恒久的である」 適用: 「語も同様に発生するものである」 結論: 「ゆえに、発生するものであるから、語は非恒久的である」 上のような論証について、西洋の論理学なら、三段論法で、「すべて発生するものは非恒久的である」、「語は発生するものである」、「ゆえに語は非恒久的である」というような論の進め方をするだろう。 三段論法に比べると五支論証法は重複が多いように見えるが、これが論争の際に用いられたことを考えると、結論と理由を冒頭に述べて、詳細な論述はそのあとに持ってくるというのはレトリック的にも論旨をはっきりさせるのに役立っている。したがって、五支論証法の「提案」と「理由」を除くと次のような形式になる。 喩例: 「発生するものである皿などの実体は非恒久的である」 適用: 「語も同様に発生するものである」 結論: 「ゆえに、発生するものであるから、語は非恒久的である」 これは三段論法の、「大前提」が「喩例」に変わっているだけで、ほぼ三段論法の「大前提」、「小前提」、「結論」の形式と同じ形式になっている。 したがって、三段論法と五支論証法の決定的な違いは、「喩例」だ。「すべて発生するものは非恒久的である」という大前提の全称命題の代わりに、「発生するものである皿などの実態は非恒久的である」という例証が使われている。推論の正当性を論証するために例をあげるというのは現代的な感覚からは危ない感じがするが、一概にそうとも言えない。その例が十分な一般性を持っていれば例証は十分に根拠となりえるのだ。 意外なようだが数学の証明でも例証はみられる。たとえば全単射の写像の値域の要素の逆像はただ一つであることを証明するときのことを見てみよう。集合Aから集合Bへの全単射の写像fが定義されているとする。集合Bの任意の要素yを取ると f は全射なので y = f(x1) となるようなAの要素 x1 が存在する。ここで、x1 とは別のAの要素 x2 も y に写像されるとしよう。つまり y = f(x2) である。ところが f は単射なので、x1 と異なる x2 でその像 f(x1) と f(x2) が同じになることはない。したがって y の逆像は x1 ただ一つでなければならない。 ここの議論で見られる代表元 x1, x2, y などは明らかに例証だ。ただし、その例証を用いた証明が有効なのは、その例証が本質的に一般性をもっているからだ。 上の五支論証法の「喩例」に出てくる「皿」なども発生するものと非恒久的なものの本質的な性質をもった代表例であれば十分に説得力をもった論拠になる。 実際、上の喩例の皿を変数 x に置き換えると「発生するものである x などの実体は非恒久的である」となる。x は変数なので何を代入してもよいからこれは、「任意の発生するものである x は非恒久的である」ということと同じである。これは明らかに「すべての発生するものである x は非恒久的である」という全称命題と同値だ。変数の使用が発見されていなかった古代には変数を実際のもので表したということはありえる話だ。そうすると、代表例が注意深く選ばれていれば、喩例と大前提の全称命題は同じことを表現することができるということになる。つまり、五支論証法と三段論法は本質的に同じものだということだ。 「大前提が全称命題でなければならないという条件を欠いているため、インド論理学の推論は、演繹的推論ではなく類比推理にすぎない」という意見を見かけるが、上に述べたように注意深く選ばれた類比は一般性を失わない。逆に、たとえ全称命題を大前提として演繹的推理をしても、大前提自体が不注意に採用されていれば、正しい結論を導き出すことはできない。 現代の立場から言うと、正当な推論をするための知識としては、述語論理学の知識を持ち合わせていれば十分だ。ギリシャ哲学の論理学はもちろん述語論理学の直接の祖先となっているが、インド論理学が述語論理学の観点からみると不十分な論理学であるという訳ではない。視点の違いに気がつけば、十分精密な論理学として機能していることが分かる。 それでは、なぜ西洋論理学とインド論理学がひどく異なる様相を示しているのだろうか。また、西洋論理学とインド論理学を対比して学ぶことにどのような意義があるのだろうか。言い換えると、本来は単一であるべき論理学になぜこのような多様性が生まれてくるのだろうか。 それは、大前提を発見する方法の多様性だ。 形式論理学のおかげで、推論については全く機械的に行うことができるのが分かっている。三段論法については、大前提と小前提があれば結論は機械的に導かれる。 多様性が出てくるのは何をどのように大前提として持ってくるかという大前提の正当性を探求する方法なのだ。一見まったく異なるように見える西洋とインドの論理学は、この大前提の探索の方法の多様性によるものだ。 推論の手続きについてはそれほどのバリエーションはありえないが、何を大前提として認めるかということについては、いろいろな視点からのアプローチがありえるし、文化的な背景によってまったく異なる様相を呈することが可能なのだ。それゆえ両者の比較をすることによって論理というものに対する認識を多角的に深めることができるのだ。
by tnomura9
| 2009-03-02 18:17
| 考えるということ
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