delegate.rb ライブラリが、マニュアルを読んだだけでは何のことかさっぱりわからなかったのに、サンプルプログラムを作ったら何となく意味が分かってきた。こういうことは、よくあることだ。つまり、道具というものはそれ単体としては存在せず、使用法と組になってこそ機能するものなのだ。
「物知り」ということばは、「役に立たない知識の豊富な人」という揶揄する意味で使われることがあるが、道具だけを知っていて、その使い方にまで配慮が至らなかったのだろう。参考書を読んでももうひとつすっきりと理解した感じがしないときは、道具を勉強しただけで、その使い方を実践できていない場合ではないだろうか。 「道具」を使うとどうして理解したという直感が働くのかというと、それは、使った時の反応がフィードバックされるからだ。のこぎりを引くと、鋸屑を出しながら、木材が切断されていく。のこぎりを眺めているだけで一向使わないときは、そのような現象と出会うこともない。また、使っていくうちにイメージ通りに切断するにはどうすればよいかなどのコツも見えてくる。操作とそれに対する反応のフィードバックを経験するうちにその道具の本質的な価値が分かってくるのだ。 インプットばかりでアウトプットのない学習を続けていると、がんばって勉強しているのに少しも役立たないという結果にもなりかねない。
by tnomura9
| 2008-11-22 14:06
| 考えるということ
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