何かを学習していく時に、「一体自分はどれだけ理解を深めているのだろうか」という質問にはなかなか答えられないことが多い。大学受験のように問題集のようなものがあれば、答案の点数で数量化できるかもしれないが、実際の現場で問題集のようなものはない。
しかし、面白いことに理解度を測るいい指標を人間自らが持っているようなのだ。それは、「わかった」という感覚と、「手慣れた」という感覚だ。 この二つの感覚のうち、「わかった」という感覚は、知識の論理構造を把握したときに感じるような気がする。論理構造と言うと抽象的で分かりにくいが、要するに、その知識に関しては、どのような疑問についても、正しい推論ができるということだ。たとえば、医療であれば、患者のどのような症状の変化に対しても、その背景となるメカニズムを推測し、適切に対処できるということ。自動車などの機械であれば、性能を上げるためにはどこを改善すればいいか、故障したとき、何が原因でそういうことが起きているのかを推測し、正しく対処できることだ。 人間の体にしても、自動車にしても、それらはシステムを形作っている。システムの個々の要素は互いに関連して動いており、一つの要素の変動は全体に影響がでてくる。この個々の要素間の関連性が論理構造だ。 論理構造を別の観点から見ると、システムの要素の属性値の全ての可能性について把握しているということだ。 例えば、Aという命題があったとすると、それは真であるか、偽であるかという二つの属性値をとり、それで全てが尽くされている。したがって、Aが真ではないということがわかれば、Aは偽であるということが正しく推論される。 これが、AかつBという命題の場合、属性値の組の可能性は4つになる。しかし、AかつBの真理表を理解していれば、Aが真でBが偽となった場合に、AかつBが偽となることを推論できる。そうして、AとBのとりえる真理値がどうであってもAかつBの真理値を正しく推論できるという自信を感じたときに、「わかった」という感覚が起きるのだ。 したがって、この「わかった」という感覚を得るためには、その知識というシステムの要素の全体を把握し、その要素の属性値のとりえる全ての可能性について、正しい論理的な推論ができるようになっているのかどうかを検討するのが近道だ。 もうひとつの「手慣れた」という感覚は、知識システムの要素間の関連性についての連想の速度が、くりかえし過剰学習することで、効率的に速く行われるときに感じる感覚だ。野球のバッティングにしても最初は余計な力がはいりヘッドスピードがあまりでないが、何度も素振りをしているうちに余計な力が抜けて、ヘッドのスピードが上がり、使用するエネルギーも少なくなってくる。 上の現象は、スポーツの練習では常識だが、知的操作についても同じことが言える。コンピュータのプログラミングでも反射的にコーディングできるようにならないとものにならない。これは、単に繰り返しによって神経の結合が強くなるだけではなく、一連の反射がより少ないエネルギーで行われるように自己組織化していくからだ。 一般に小脳は運動の最適化を行っていると言われているが、知的作業にも使われているらしい。(出典を忘れたので正確ではないかもしれない)。いずれにせよ、スポーツの基本練習でえられるような、最適化が、くりかえし過剰学習することによって、知的作業にも起こっているということだ。 「すべての可能性について考えるよう心がける。」、「知っていると思っていることも繰り返し学習する。」という二つの点に気をつけるようにすると、「わかった」という感じや、「手慣れた」という感覚を持つことができるようになって、学習の意欲も向上することになる。
by tnomura9
| 2008-09-06 07:41
| 考えるということ
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