最近自分の仕事をマニュアル化してみようと思い立って、仕事に使った資料やインターネットの情報を片っ端から印刷してフラットファイルに綴じ込んでいるが、見る間に厚くなっていく。
自分がやっている仕事は別に最先端の仕事ではないのに結構活用している情報量が多いのにびっくりする。興味が出たので、今度は知らなくてはならない知識だが、まだ読んでいない本を想定してみたら、単純に計算しても到底死ぬまでに読みこなせない量になったので愕然とした。 外国映画でよく本を天井まで並べた書斎が出てくるが、いまどきそんなものは流行らない古臭いなと思いながら眺めていた。ところが、自分が本を読んで理解できる早さを計算してみたら、一生かかっても、書斎の書棚でも余るくらいなのだ。 脳のシナプスの結合状態の可能性は宇宙全体にも匹敵するかもしれないが、一生の間にはっきりと理解できる知識はたかだか書斎の本棚分くらいしかないという現実がある。さまざまな勉強法も無限の可能性からどう自分に役立てるほんのわずかの知識を探し出すかという試みにすぎない。干し草の山の中から必死に針を見つけ出そうとしているわけだ。 無限の知識を、ちっぽけな有限の一生の中にどうやって切り取って行こうかと奮闘しているうちに自分の人生が終わってしまう。楽しいようで、苦しいようで、勇敢なようで、無意味なようで、それでも惹きつけられるのが生きているということなのだろう。
by tnomura9
| 2008-08-18 21:16
| 考えるということ
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