勉強法を考えるときに、無意識のうちに、参考書を一回読めば全て頭の中に整理された形で入るというイメージを持ってしまうのではないだろうか。
しかし、実際は本を一回読んだくらいでは、曖昧模糊としたイメージが残るだけで雰囲気は分かるが細かいところはまったく分からないという状態が普通だろう。これでは、勉強法についてのイメージと程遠いので、勉強法なんて何の役にも立たないという気持ちになる。 それは、一つには思い出せる項目があまりにも少ないという実用的な不満からくるものだろうが、もうひとつは曖昧な知識の不安感に耐えられないという感情的なものもあるのではないだろうか。曖昧さは反射的に先が見通せないことによる不安感を引き起こすのだろう。 曖昧さからくる不安感を逃れるためにとる行動のひとつは、曖昧さを避けるために探索の範囲を狭めて物事をはっきりさせようとする。具体的には本の一部だけに焦点をあてて細かく理解しようとする行動だ。しかし、これだと知識の範囲が広い場合、ほんの一部しか知ることができないため、途中で挫折してしまう。 曖昧さを逃れるもう一つの方法は、「要するにこういうことだ」と知識全体を要約してしまうことだ。このばあいは、知識の大まかなアイディアは掴むことができたように錯覚するが、細かい所の検討をしていないので、実用にならない。 曖昧さを恐れるあまりとる行動は、大まかに上の二つに分けることができるだろう。ただ、どちらの場合も学習の動機を喪失させてしまう危険性がある。 これらとは別に、曖昧さを恐れず曖昧さを受け入れるという方法もある。曖昧なものを曖昧なままにして、思い浮かぶ質問を解決するために調べるという方法だ。体系的でもないし、効率的でもないし、同じ事を何度も繰り返すかもしれないが、とにかく自分の頭の中から湧いてきた疑問をガイドに探索する。本のとおりに体系化するのではなく、自分の頭の中の自己組織化によって体系化していく。 この場合はまず自分で質問を考えるので、探索行動はそれにしたがって自動的に行われる。勉強をするために動機付けを行うのではなく、動機が先になるので意欲の減退が少ない。また、その知識についていつも考えているようにすれば、学習の動機を長時間持続させることができる。動機の喪失の危険を前の二者の場合よりも少なくすることができる。 曖昧さを忌避する本能的な感情にとらわれず、曖昧さの中の豊穣に気づくことが大切だ。
by tnomura9
| 2008-07-16 23:12
| 考えるということ
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