このところ思考法や、プログラムや、Linuxの設定法など道具の話ばかり投稿しているので、少々飽きてきた。
道具職人の人は、よい道具を作ることが目的だが、道具というものは本来使われて何ぼのものなのだ。Ubuntuのインストールで素晴らしい道具を手に入れてもそれだけではつまらない。それを使ってなにかおもしろいことができれば、もっと楽しいだろう。 とは思うのだが、いざ道具を使える状態になると、それを何のために使ったらいいのかさっぱりわからない。あらためて、自分の創造性の泉の不毛さに気づかされる。まあ、それはそれで現実なんだから謙虚に受け止めるとして、とにかく道具を何に使うかを考えてみよう。 仕事のためにITの道具を使っている人は何の迷いもないだろうが、パソコンにはそれだけでない魅力がある。企業や公共機関が無茶とも思えるITの導入をしてトラブルを引き起こしているのを見ると、担当者がパソコンの魔力にとりつかれているのではないかと思う時がある。 パソコンの魔術的とも言える魅力の源泉は何なのだろうか。それは、人間の認識能力を拡張してくれるという性質なのではないだろうか。一昔前までは図書館に出かけて百科事典や図書カードなどで一日がかりで検索していた情報が、ウェブで検索するだけであっという間に手に入れる事ができる。Ubuntuの設定でも結構問題点は多かったのだが、検索エンジンで検索しているうちに何とか解決できてしまうことが多かった。 このパソコンに対する信頼感が信仰にまで高まってしまうと、何が何でもIT化をしないと気が済まなくなってしまう。パソコン教信者の誕生だ。 話が横道にそれてしまった。パソコン教の話はともかく、道具を何に使うかということが本来の主題だ。ちょっと疲れてしまったので一挙に結論にジャンプしてしまうが、「何も思いつかない時は、自己表現をやってみよう。」ということだ。 自分にどういう能力があり、何を望んでいるのか、どういうものに感動するのかなど基本的な自己表現について無知な事が多いのではないだろうか。自分のなかにある何かを表現するということは、食事をしたり、眠ったり、恋愛行動をとったりすることと同じくらい本質的な行動のような気がする。 パソコンを使うことによって、それまでの紙と鉛筆を使っていた場合とは比較にならないほどの表現力を手に入れる事ができる。いい例がブログだ。日記に書き残していても自分が死んでしまったら誰にも読まれず灰にされてしまう可能性の方が強い。しかし、自分のアイディアをブログに書いていれば、誰かに読んでもらえ、運がよければ役立ててもらえる可能性がある。 話の落としどころが分からなくなったが、要するに、パソコンによって飛躍的に表現力が広がったのなら、これを自分とは何かということを知るために使わないという法はないのだ。
by tnomura9
| 2008-06-23 22:35
| 考えるということ
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