幸福とは心が「幸福だ」と感じることだ。どのような外的条件でも幸福感を感じることができれば、幸福のプロになることができる。結局のところ自分の体を幸福感の達人にしてしまえば、外的条件や幸運不運に影響されずに幸福になることができるのだ。
しかし、スポーツ選手のことを考えればわかるように、基本的には誰でもスポーツを始めることができるが、プロのスポーツ選手になることができるのはごく限られた人たちだけなのだ。外的条件のいかんに関わらず幸福になる技術についても、それは一種の自己鍛錬の成果だ。たとえ心理学や生理学が進歩したとしても、おそらく幸福の達人になることができるのは一部の人で、大多数の人はそううまくはいかないだろう。 ゴルフのスウィングのようにやり方が研究し尽くされているようなものでも、実際にできる人は限られているのだ。熱心に練習しても、できないひとはできないのだ。 運にも不公平があり、不運にも負けない幸福感を持つ能力にも不公平があるのでは、現在不幸を感じている人は救われないではないかと言うかもしれない。確かにその通りだ、しかしやってみなくては自分が幸福の達人になれないかどうかは分からないのだ。宝くじを絶対当たると思って買う人はいないだろう。しかし、買わない人には絶対に当たらない。 自分が不幸だと嘆いているだけでは絶対に幸福にはなれない。幸福になりたいのなら何かを始めないといけないのだ。しかし、慎重でなくてはならない、幸福になろうとはじめたことで逆にもっと不幸になってしまう可能性だってあるのだから。 「期待させたかと思うとすぐに失望させる。何を言ってやがるんだこの野郎。」と思った人もいるかもしれない。申し訳ないがそれが現実なのだ。実は、幸福になるための鍵はそこにあるのだ。現実をしっかりと見極めることである。不幸と感じていることが現実にそうなのか。日本人の不幸は他の国の人から見たら信じられないくらい幸福であるかもしれないのだ。逆にバブル経済に踊らされた人たちのように自分で幸運だと思っていたことが、実はそうではなかったかもしれない。自分の人生の現実あるいは真実はどこにあるのか。それを見極めようとすることが、現在や未来の幸福や不幸にかかわらず、重要なことなのだ。 不幸を幸福に変える錬金術はないかと思っていろいろと考えてみたが、結局これといった答えは見つからなかった。ただその過程で、なぜソクラテスが皆の固定観念を産婆法で粉砕しながらそれに代わる答えをださなかったのか分かったような気がした。徳にしても、美にしても、幸福にしてもそれはこれだという答えがあるのではなく、一生の間追い求め続けることが大切なのだということだ。それはこれではない、あれでもないということは分かる、しかしその本体を捕まえることは不可能なのかもしれない。真理というのは永遠に問いを発し続ける過程そのものかもしれないのだ。
by tnomura9
| 2005-05-21 16:39
| 幸福論
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