今、二人の人間が言葉を使ってコミュニケーションをとっているところを想像しよう。発信者のほうは自分の頭の中にあるアイディアを、言葉という形に符号化して発信する。受信者は、その言葉を受け取って、言葉の意味を解読し発信者が何を伝えたかったかを知る。
この際に発信者と受信者が共有しているのは、言葉という記号だけだ。記号というのは、音声であれ、文字であれ、図形であれそれ自身が意味を持っているわけではなく、自分とは違う何かの意味を指し示している。記号論では、言葉などの記号そのものを「記号表現」、その記号が運ぶ意味を「記号内容」として区別している。 (注: ソシュールはシニフィアン(記号表現)を記号そのものではなく、音声や文字などの記号を言葉として認識する人間の脳の中のパターン認識の意味で使っているが、現在は記号そのものを「記号表現」としている文書が多いようだ。ここでも、記号そのものを「記号表現」と呼ぶことにする。) つまり、発信者と受信者が共有できるのは、言葉という「記号表現」だけなのだ。発信者が言葉にこめた意味と、受信者がそれを解釈して理解した意味とが同じものであるという保証は全くない。 もちろん、言語の体系という暗号解読システムを両者が共有していれば、言葉によるコミュニケーションが成り立つわけで、受信者のアイディアと、受信者の理解の間に何の関連もないと考えるのは極端な考えだ。しかし、それも良く考えてみると、発信者の持つ暗号システムと、受信者の持つ暗号システムが完全に一致することはないだろうことはすぐに分かる。 一般的な言葉の使い方の範囲であれば、発信者と受信者の言葉の意味の理解が一致しているといえる場合が多いかもしれない。しかし、一般的な言葉では言い表せない抽象的な内容を言葉にしようとすると、発信者と受信者の言葉に対する理解を一致させることがかなり困難であろうことは想像できる。 おそらく、発信者から受信者への一方的な記号による伝達は、かなりの誤解を含んでいる可能性が高い。本を一冊読めば、読者はかなりの量の誤解を抱え込むことになる。 それでは、言葉という、本質的に誤解を含みやすい媒体を使って、発信者と受信者の意味理解をすり合わせるにはどうしたらよいだろうか。それは、受信者から発信者へのフィードバックを行うことである。発信者の発言にたいし、受信者が自分の理解を述べ、それに対して発信者が返答するというサイクルを繰り返すことだ。 それでも、両者の間の誤解は完全には解消しないかもしれないが、実用的といえるところまでは、言葉という「記号表現」に、意味という「記号内容」をあまりずれがないように付与することができるだろう。 このように、発信者と受信者がすぐに言葉をかわせる近しい関係にあるときはフィードバックは有効な方法だが、しかし、独学のようにそうできないときはどうすればよいのだろうか。 独学の場合は発信者と受信者のフィードバックは不可能に近いので、同じ言葉を扱った資料をたくさん読む必要がある。同じ言葉に対し、いろいろな人の意見を読んで、その意見と自分の理解との比較を通じて真の意味を推測するしか方法がないのだ。それでも、直接のフィードバックにかなうものではない。独学が効率が悪いのはそのためだ。 いずれにせよ、本を一冊読んだとき、自分が大量の誤解を抱え込んでしまったのかもしれないと用心することは、有益なことだ。
by tnomura9
| 2007-05-14 22:24
| 考えるということ
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