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書評 - カント『純粋理性批判』入門

ヘーゲルの『精神現象学』の解説をしたページを読んでいたら、哲学の主題は認識論ではないかという感じがした。難しい哲学書も現代的な見方、たとえばコンピュータによるパターン認識のアナロジーなどで読み解けば案外分かりやすいのではないかと思ったのだ。ただ、自分でそれができるとは思わないので専門家がそういう見方で解説をした本はないだろうかと考えていた。

そんなことを考えていたら、カントの『純粋理性批判』についても知りたくなった。しかし、たいていの人は挫折するらしいし、研究に30年も費やしている人もいるらしいので入門書でごまかすことにした。

ネットで検索したら、黒崎正男著の「カント『純粋理性批判』入門」 講談社選書メチエ というのが評判がよさそうだったので読んでみた。

理解したという自信はないがこの本を読んで思ったことを以下に書いてみる。

『純粋理性批判』の主題はやはり認識論だった。人間は客観的な真理をどのようにして知ることができるかということだ。

事物をありのままにとらえることが、客観性だとすると、感覚を通して得られる経験が最も信頼に値する情報だということになる。現代人の大部分が受け入れている考え方で、経験主義の考え方だ。

一方、感覚を通して得られる情報は、部分的で信頼性に欠けるという考え方もある。数学の定理のようなものは、公理から出発して、論理的推論のみで真理の体系を構築していく。真理は、個々の感覚よりも人間の悟性(論理性や概念操作などの情報処理能力)に依存しているという、観念論の考え方だ。この観点からは、山が見える場合も悟性が山があると認識しているからだということになる。

観念論の立場ではものは<見る>から<在る>。山がそこにあるのは人間が山を<見る>からだと考える。一方、経験論の考え方では当然、山が<在る>から、山が<見える>のだということになる。

しかし、カントはこのことについて次のように書いている。

これまでは、すべて私たちの認識は対象に従わなければならないと想定した。しかし、こうして私たちの認識を拡張しようとする試みは、この前提のもとではすべて潰え去ったのである。そこで、対象が私たちの認識に従わなければならないと私たちが想定することで、もっとうまくゆかないかどうかを、一度試みてみだらどうだろう。

いわゆる認識論上の「コペルニクス的回転」である。

つまり、物自体をありのままにとらえようとしても、感覚を経て得られたイメージは物自体ではない。物自体をありのままにとらえようとするとそれは必然的に感覚を通じて推論した主観になってしまうのだ。

「対象が私たちの認識に従わなければならない」というのは変な表現だが、物自体を契機に生じた感覚は、そのままでは認識の対称にならない。感覚を悟性(生得の情報処理能力)のルールに従うように処理して得られた現象こそが、人間が客観的に認識のできるものなのだ。

要するに、映画『マトリクス』に出てきたような仮想現実が人間にとって唯一客観的な事実であるということだ。単なる経験だけではなく、内なる悟性のみでもなく、それらの相互作用として得られるイメージが客観的な事実なのだ。物自体は、人間の外にあり感覚や推論を通じてしか認識することができない。人間にとって直接に扱うことができて客観的(情報それ自体をありのまま手に入れることができるもの)なのは現象というイメージなのだ。

この観点から、カントは時間や空間の観念も物自体からではなく悟性から生じたものだとする。

『純粋理性批判』では、このスタンスから、空間/時間とは何か。自由と必然の関係はどうなっているのか。形而上学はいかにして可能か。神の存在証明は可能なのかなどの哲学的な重要問題に光があてられている(らしい)。

哲学の書物が分かりがたいのは、「認識とは何か」とか「真理とは何か」など科学も含めて全ての事柄に共通なフレームワークについて述べようとしているからだろう。いろいろな物に適用させるためには、概念が高度に抽象的になるので、用語の意味の共通理解が難しくなってくる。

しかし、たとえば数理論理学のような高度に抽象的なものでも、コンピュータの発達で、目で見たり、手で触ったりすることができ、逆のアナロジーで論理学の本質が分かりやすくなってきたりしている。哲学書の場合もその今日的な意義を解説した解説書や、注釈書がでてくると普通の人にもわかりやすく、ああ、そういうことだったのかという感動を味わうことができるのではないだろうか。
by tnomura9 | 2007-05-05 19:42 | 考えるということ | Comments(0)
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