パソコンの操作を習得するときに、マニュアルだけを読んでいてもさっぱりわからないのに、例題のとおりに操作してみるとすっとわかったりする。コンピュータは手で学習するものなのだろうかと、面白いと思っていたが、手で動かしたから理解できるというものでもないような気がする。
理解しているかそうでないかがはっきりと分かるのは、電気製品を操作するときだ。テレビなら、どこを押せば電源が入り、どこを操作するとチャンネルを変えることができるのか理解していないと操作できない。 結局のところ、理解しているというのは、どこをいじればどういう結果が起きるかを知っているということなのではないか。電源のスイッチのように操作を加えるものを「コントロール」、テレビの画面のように操作によって変化するものを「エフェクト」と呼ぶことにすると、「理解する」ということは、「コントロール」を操作したときに、どんな「エフェクト」が起きるかを予測できるということなのではないだろうか。 この「コントロールとエフェクト」の考え方は、文章を理解するのにも使うことができる。たとえば次のような文章の場合、 レプチンの発現量を減少させるものには、βアドレナリン作動系や精巣などで産生されるアンドロゲンがあります。 コントロールはアドレナリン作動系やアンドロゲンで、これらを増やしてやる(つまみを右に回す)とエフェクトのレプチンが減少するとイメージすると意味を理解しやすい。したがって、女性の場合はアンドロゲンが少ないのだから(つまみを左に回す)、レプチンの量は多いことになる。 電気機械にしても、書籍にしてもこの「コントロールとエフェクト」が複雑に絡み合ったネットワークからなっている。それらを理解するのに、どこをいじったら結果がどうなるのだろうと考えながら調べていくと、自分がどれだけ理解しているのか確かめながら進んでいくことができるような気がする。
by tnomura9
| 2007-02-14 07:02
| 考えるということ
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